折檻と近代批判と江戸幻想

【折檻の語源・由来】
折檻は、中国の故事「漢書」の「朱雲伝」に由来する。
その故事とは、前漢の成帝の時代、朱雲が成帝の政治に対し厳しく忠告したため、朱雲は成帝の怒りを受け、宮殿から追い出されることになった。
しかし、朱雲は檻(手すり)に掴まり動こうとしなかったため、檻は折れてしまった。
成帝はそのような朱雲の姿を見て反省し、朱雲の意見を受け入れたという話である。
このように、本来「折檻」は正当な理由で厳しく忠告することを意味していたが、現代では体罰や虐待の意味が強くなっている

折檻(せっかん) - 語源由来辞典

折檻の語が示唆するのは、自らの身体を賭ける政治的抵抗だが、その近傍には、苦行による超越、という様々な宗教に見られる信仰の形があるように思う。

体罰は軍隊帰りがもたらした戦後の現象だ、という風に、近代批判と懐古趣味(昔は大らかだった)を混ぜ合わせる議論があるようだが、苦行・殉教・折檻という問題系を射程に収めると、話はそう簡単ではなくなる。

(真田丸の山本耕史が小日向を諫めて切腹を申しつけられそうになるのが折檻的状況で、主君が死んでも折檻的に突進する山本に、内野と近藤正臣が斜め上のソリューションで250年の天下泰平を導いた、ということになっていきそうだが、そうすると、「昔は大らかだった」説は、徳川時代は良かった、と言っているように聞こえる。なんだか、ダメな野党連合みたいだ。)

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京劇(20世紀の左翼演劇人を感動させた)の役者修業が体罰の連続として描かれている。これを「体罰の社会史」、体罰は近代の所産である、という論で読み解くことができるのか?

非・政府的領域

連邦制でまず顕在化するのは、反政府的ではないけれども非政府的な領域ではないだろうか? そのような領域を何らかのイデオロギーによる階層秩序で制御するのは、民主的ではなかろう、と私は思う。知識人であろうがなかろうが、リベラルであろうがコンサバであろうが、階層秩序が好きな人とは、あまり話が合いそうな気がしない。

楽譜のヴィジュアル

ペータースの古い版だと、ドビュッシーのプレリュードがおよそフランス音楽に見えない。レイアウトとか音符の大きさや間隔とか、ちょっとしたことの積み重ねで、楽譜の「見た目」は随分違ってくるようだ。

3月に、大阪音大の吹奏楽がティーダ出版の新しい楽譜を使って大栗裕の大阪俗謡による幻想曲を演奏したときには、井上道義が丁寧に楽譜を読み込んで指揮していたこともあり、曲の面目が一新された印象だった。

昨日は沼尻竜典の指揮、京響で三善晃のピアノ協奏曲を聴いたけれど、全音の楽譜は十分にメンテナンスされているのだろうか。老舗の出版社には、Finaleのデフォルトに頼るのではない楽譜作りのノウハウがある(あった)に違いないと思うのだけれど……。

この曲は、1960年代の日本のオーケストラを彷彿とさせる骨張ったリズムではなく、読譜が困難ではあっても美しい響きの瞬間があちこちに含まれていそうな気がしたのだが。

学校の大人たちと学校の子どもたち

知識と経験の性急な合一が「リア充」として祝福されたり、知識に邁進する人々が、陰でヒソヒソと、経験を誇示する人々の悪口を言ったりするのは、成人版スクールカーストなのかもしれない。

とはいえこれは、大人が子どもを模倣する未成熟な状態(近代日本は○○歳だ、みたいな)ではなく、平成の子どもたちが平成の大人たちを模倣した状態のパースペクティヴが転倒してそう見えているのだろうと思う。

(井上雅人氏は、元役人で現在は何々大学の××氏のかくかくしかじかの講演は、以下の点に疑問があった、と、名前を挙げて具体的に議論をなさればいいのに……。現場の教員は、個人の「お気持ち」として、文科省に不満が色々あります、と表明されても、大学は国民統合の象徴や国家の象徴ではないので、周囲は何もやりようがない。)

「シン・ドイツ」の起源

ナショナリズムとインターナショナリズムの矛盾をエネルギーに変換するのが近代ドイツという表象(古代・古典時代が存在しない辺境地域に「神話」を語りうるかは一考を要する問題だろう)だとしたら、21世紀のドイツは、アングロ・サクソンやその子分たちが何を言おうと平然としている中欧のタフな国というイメージがある。(強面の物理学者が柔道八段の元KGBと渡り合う図ですね。)

そのような「シン・ドイツ」(流行りに乗った表記にしてみた)の起源は、近いところでは案外、敗戦後の西ドイツにあるんじゃないかと思うのだが、それじゃあ、ドイツ連邦共和国という表象の来歴をどのように記述したらいいか、となると、「近代ドイツという表象」を括弧に入れて、ユーラシアの歴史をもう一回やり直さないといけなくなるかもしれない。

ドイツ連邦共和国で断トツに偉い音楽学者は、おそらく民族音楽学(世界音楽?)のヴァルター・ヴィオラだろうから、まあ、それくらいのスケールの話になっても不思議ではなさそうですね。

ヴィオラとは別に、かつてケルンには東洋音楽研究のボスのような学者がいて、その人を頼る留学生がいたようだ。ヴィオラは立派な学者だったけれど、ドイツの大学現場の民族音楽学教員は、1990年代になっても、フィリピンにしか行ったことのない人が日本音楽を講義するとか、全般的には、どうかと思うところもあったらしく、留学生たちがよく文句を言っていた。ケルンのボスは、そういう連中を束ねていたのでしょう。

ライン川の少し上流のマインツ(大聖堂があるが、20世紀に自動車メーカーOpelの城下町になり、ブルーワーカーがたくさん住んでいるところが対岸のカジノとオペラ劇場のあるリゾート、ヴィースバーデンとは好対照)にはドイツ中央放送ZDFやドイツの学術会議相当の機関があって、北米流の新設校として創られたマインツ大学で音楽学者のマーリンクが出世したのは(=国際音楽学会の会長になった)、そのあたりのコネクションとも何か関係があったのかもしれない。あれは政治家だ、と学生達が噂していた。

(大崎滋生と西原稔はマインツでマーリンクに受け入れてもらっていた。)

地方分権は、地方の小ボスがいきなり連邦の中枢に食い込めるルートを作ることでもあり、所詮は人間のやることですから、もちろん、バラ色に良いことづくめというわけにはいかないようではあります。それを含めての「シン・ドイツ」だから、やっぱり「近代ドイツの表象」とは色々ズレる。

マインツでは音楽学が歴史学部に属し、これとは別に、音楽実技を学ぶ音楽学部があった。音楽の高等教育が、コンセルヴァトワール(Hochschule)ではなく、大学(Universität)の学部として行われていたわけで、これも、昔からのドイツの大学とは違っていた。チェリビダッケは、この音楽学部で指揮者のマスターコースを担当していた。(井上道義もそこで学んだことがあるようですね。)ミュンヘンやベルリンの Musikhochschule には、彼を受け入れる場所がなかった、ということでもあるのかなあ、と思う。

そういうラインラントが西ドイツの「首都圏」だったわけだ。

(そういえば、戦後西ドイツの人文学の業績として話題になるヤウス、イーザーの受容美学も、コンスタンツに創られた戦後の新設大学が拠点だったようですね。「近代ドイツの表象」とはズレる西ドイツ的なものは、それと認識されずに、結構、私達の周囲に生きているのかもしれません。日本でも学生運動が華やかだったころには、68年のドイツの学生運動とか赤軍とか、「ドイツの戦後」がいかに「近代ドイツの表象」と違っていたか、むしろ、色々情報が伝わっていたに違いないので、今さらもう一回この話からやり直すのか、という感じではありますが。)

西ドイツ時代には息を潜めていたエリート主義的な「近代ドイツの表象」が対外的なシンボルとして息を吹き返す一方で、復興と経済成長を牽引していたはずの地方分権民主主義的な「シン・ドイツ」が、あたかも野蛮なゲルマン魂であるかのように不可視化される、という(他人事ではないかもしれない)捻れ・反転が、ひょっとすると、21世紀の統一ドイツにはあるかもしれない。

ドイツの「首都圏」、あるいは知識と経験の関係について

ドイツ連邦共和国(BRD)はドイツ民主共和国(DDR)と再統一されるまでラインラントに首都を置いていたわけだが、ドイツ連邦共和国の偽善的国際路線を批判する「音楽の国」三部作は、ラインラントの都市というより村に近い集落の規模や、その村々とパリとの近さ、ローマ帝国時代の痕跡等々を、足で歩いて経験する以前に書かれ、完成されてしまった書物であったことが、2016年の夏になって、明らかになりつつあるようだ。

(ヨーロッパを何度も訪れていてもドイツを細かく回ったことはない、という人は少なくないようだ。ドイツにいると、滞在している町が個々には小さくてすぐに飽きてしまうし、道路・鉄道が整備されて移動は楽だから、あっちこっちへ動き回ってしまうわけだが。そしてこの、外から見たドイツと中で経験するドイツの落差が、ドイツのややこしさとも関わる気がするのだけれど……。)

ことほど左様に、知識人(に限らずヒト全般がそうだろうか)においては、文物で得た知識をあとから経験で補填するケースがあるわけだが、そのように、知識を経験が後追いして形成された人格が「野球経験のない野球監督」を批判する(あたかも、経験に裏打ちされない知識は価値が低いかのように)という振る舞いを私達がどのように受け止めればいいのか、それはまた、別の話ではあるだろう。

知識人のキャリアにおける知識と経験の関係と、知識人を雇用する組織の事務管理部門の人材における知識と経験の関係は、同列には語り得ないだろうから。

(大学人は研究者の自治を求めたがるが、芸術家の自治による芸術学校が何かと問題含みなのはよく知られた話である。)

ともあれ、19世紀ドイツは、そのような Der Rhein をロマンティックに歌いあげながら、廃墟の脇に巨大な工場群を築いたわけで、それが「音楽の国」ですよねえ。

おそらく重要なことは、知識と経験のどちらが先であるべきか、ではなく、知識が経験をエンパワーしたり、経験が知識を適切に軌道修正できるフィードバック回路をいかに健全に構築するか、ということだろう。

そして、彼が知識人組織の在り方についてどのような見解を有しているか、というのとは別の問題として、文物の知識によって得られた「音楽の国」仮説は、経験によって批判的に検証されてしかるべきであろう。

人格は人格の問題として、業績は業績の問題として、別々にそれぞれ吟味すればいい。混ぜるな危険、である。

(人格と業績を最も巧妙に混ぜたがるのは、今回もそうであるように、その人格自身であるところがややこしいわけだが、それは、作者と作品をめぐる古典的な問題に過ぎないとも言える。「作者」が生きている間は、何かと面倒くさいのである。とりわけ「作者」がどんどん偉くなったり、偉そうになっていく場合には。)

[たとえば、「偶然性」のジョン・ケージはペータースで厳格に著作権を管理していたわけで、やっぱり、生きている「作者」は消去できない。生きてそこにいるからね(笑)。「作者」がキノコの胞子であるかのように装うトリックは、21世紀にも有効なのか、私には疑問だな。むしろ、キノコの胞子のような個体を上手に使う21世紀のドイツのほうに興味がある。]

熱い社会

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このあたりまで来ると、天然であれ養殖であれ、捕獲して育てる狩猟牧畜生活が頭打ちになるようだ。団体構成員としての闘いで対価を得なさいというわけか……。

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なるほど、各地の名所に人が集まるわけだ。

ユーザーのアバターは、拡張された現実を加工したり、得られた原材料を消費財に加工するのではなく(←それらの処理はプログラムがよしなにやってくれることになっている)、情報流通の一翼を担う第三次産業の従事者なのですね。

Camellia japonica

家の前に大きな実を付けている木があって、何かと尋ねたら、椿だと母が教えてくれた。

17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介した。後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介した。その後有名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿にカメルという名前をつけ、ケンペルの記載に基づきジャポニカの名前をつけた。

ツバキ - Wikipedia

日本が原産で、camellia は人名(Georg Joseph Kamel 1661-1706)にちなんでいるんですね。

それがどうして、19世紀に La dame aux camélias という小説がパリで書かれたのかというと、それも書いてあった。

19世紀には園芸植物として流行し、『椿姫』(アレクサンドル・デュマ・フィスの小説、またそれを原作とするジュゼッペ・ヴェルディのオペラ)にも主人公の好きな花として登場する。

ヨーロッパの園芸(切り花)の歴史がどうなっているのか、私は知りませんが、椿は東洋のバラ、みたいなイメージだったのでしょうか?

フランス語の綴りは camellia と camélia の両方があり得る、など、周囲に色々な豆知識が見つかる。ヴェルディのオペラがなぜ La traviata (道を踏み外した女)になってしまったか、という定番のお話(検閲をめぐる)以外にも、曲目解説に使えそうなトピックが色々ありそうだ。

メリメ「カルメン」が1845年でビゼーのオペラは1874年。デュマ・フィスの「椿姫」が1848年でヴェルディのオペラは1853年。赤い薔薇と白い椿。デュマはメリメを読んでいて、一方、ビゼーはヴェルディを当然知っていた、みたいな関係と考えて良いのだろうか。


(ちなみに、「椿姫」は原題も「椿婦人」だが、黒澤明の「椿三十郎」は欧米では Sanjuro であるらしい。La dame aux camélias があるので、「椿の男」や「椿の侍」では別の連想が働いてしまうのかもしれない。)

涙する人々

オリンピックの日本のメダリストは、どうしてみんな泣くのだろう。

当人の心境、現場の雰囲気は知り得ないが、放送された映像は、結果が出たことで緊張が緩み、今まで堪えていたものが堰を切ったようにあふれ出る、という風に切り取られている。個人を限界まで追い詰めることで能力を最大限に引き出す、という物語のエンディングとしてそのような映像が放送されているようだが、スポーツを物語化するフォーマットとして、今はこれ!という感じなのだろうか。

笑顔で楽々と天空を翔るグローバル人材、という表象は、もう流行らないのかな。

水辺の生物、山の石碑

八尾の母の家で線香を上げた帰りに小一時間くらい港に立ち寄る。(それ以上滞在するには暑すぎる。)なるほど山の中とは生態系が違う、というより、出過ぎですな(笑)。

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評判の場所に遅滞なく集まって、捕獲すると静かに去って行く方々の仕事ぶりも間近で拝見させていただきました。

一方、このあたりにPのソースはないし、スポットでもないけれど、うちの山には戦国時代に砦があったと推定され、市の教育委員会が跡地に碑を建てているのを最近知った。

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以上、この夏の海と山。

Pのスポットで、へえ、ここにこういうものがあったのか、と知るのはちょっと面白いよね。