次の著者となるであろう読者のために

あのシリーズの問題点は網羅性の有無とは違うところにある(そして網羅性とは異なる問題点を検出において、情報のデジタル化や検索の精度・速度は大した問題ではない)ということが、著者にはいまだに理解できていないようだ。

そもそもあのシリーズは、「網羅的」であることが原理的に不可能な課題に取り組んでいたはずなのに、既に書いてしまった著者は、そのことをもう忘れてしまっているようだ。

とはいえ、著者とは、既に書いてしまった過去の人だから何を言おうがどうでもよくて、次の著者となりその業績を乗り越えようとする読者がわかっていればいいことだが。

おそらくこの著者は、自らの過去の業績に対して、次の著者となりその業績を乗り越える読者の立場を放棄しているのだろう。それはつまり、この著者はここでおしまいであり、彼はもう現役じゃない、ということになってしまうわけだが。

夜明け前

今日の仕事の資料の準備で徹夜になってしまったが、そうすると夜明け前に不意に出た。

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これで港に探しに行く必要はなくなった。なんと気が利くことであろうか。

強さと相貌

お膳立てされた流れに身を任せていると、どうしても相貌の悪い者が上位を占めてしまう。世間がそのようになるのは仕方がないかもしれないが、せめて我が身の回りだけでもこの状況を変えたいと思えば、おそらく正攻法は、相貌が好ましい者が実力で上回り、抜き去るように仕向けることだろう。そうと決まれば行動あるのみ。候補を10名選んで、しかるべく育てるべし。

リアルな何かの話ではなく、拡張現実のPの話である。

ピカチュウを肩に乗せて、集めたアメで第二形態を限界まで引き上げたいのだが、これは、このゲームの最後の楽しみにとっておく。

【重要・要ご返信】日本音楽学会第67回全国大会研究発表要旨送付のお願い

という大仰なSubjectで、内容も妙に厳重にレギュレーションを設定したメールが『音楽学』編集委員会事務局から届いた。

全国大会発表要旨(既に大会事務局に送っている)を編集委員会に出せ、というのだが、これって縦割り組織の非効率(を末端・下流の個人に押しつけている事例)の典型ではないだろうか?

『音楽学』編集委員会事務局なる名義で発行される執筆者への伝達事項は、ことほどさようになぜか「指令」の形式であり、編集委員会の先生たちもそのことに気付いていない、という事案が多すぎる。

旧態依然の音楽之友社との結合を切ることも視野に入れて、学会誌をはじめとする紙の発行物は、情報の一元管理(一度作ったドキュメントを再利用するフロー)でさっさと電子出版に移行したほうがいいのではないか。

紙に印刷することを過剰に権威付ける傾向といい、命令口調といい、どこの古くさいお役所か、という感じがする。

オタクと放送

「遊戯と教育」の続き。

  • 放送歌謡(ラジオ歌謡) vs レコード歌謡
  • 教育映像 vs 娯楽映像

という対比に「親米グローバリズム」と「なんとなくリベラルな愛国」の対立(対比?)を重ねることができないかなあ、と思いついたのだが、そのような図式の来歴を考えるのは面倒かもしれない。

ただ、現状の表面的な観測として、戦前の放送歌謡(軍歌愛国歌的なものも含まれる)や戦後の放送コンテンツをレコード歌謡・娯楽映像と同じ作法でデータベース消費するのは、そこに存在したはずの教育機能を隠蔽もしくは否認するオタク的想像力の末期症状、ゼロ年代的なものの断末魔なんだろうなあ、という感じはある。

あと、オタク少年がどうして視覚文化論・聴覚文化論のアーティスティックな見巧者・研究者に「転向」できてしまうのか、ということを考えるときに、昭和期であれば放送(テレビ東京で映画に目覚めた町山とか)、平成期であればビデオゲーム(東大美学界隈の視聴覚文化論はひょっとするとこれではないか)が、対立しているかのように見えるものをつなぐライフラインとして機能したところがありそうに思う。

東大教養部・表象文化論的な高等遊民の文化資本の高さに馴染めない学歴エリートのための「胸アツ」系オルタナティブだ。

実存のかかったライフラインだからこそ、文化の「教育機能」を語りがたいのではないか。もうおおっぴらに語ったほうがいいと思うのだけれど。

フラテルニテ

竹馬の友、という言葉があるけれど、フラテルニテは合従連衡を排除しないのではなかろうか。友(情)というものは、失ったり、組み変わったりしてナンボである、と。ロマン主義活劇はもちろんのこと、ドイツ啓蒙劇も、ドラマである以上、そういう風になっているのではなかろうか。(走れメロスも、シラーが依拠した元ネタまで遡れば、いわゆる友情とは違う何かを示唆しているようだし……。)

遊戯と教育

佐藤卓己が、放送の発展時にはその教育機能に注目が集まっていたことを指摘しているが、ビデオゲームが(主に欧米で)さかんに論じられている文化的背景として、「遊戯と教育」というトポスがあったりはしないのだろうか。そして日本では、ビデオゲームが教育に傾くことを歓迎する力と、そういうのはダサいとする力が拮抗している、とか。ちょうど、音楽(歌謡)が放送局に後押しされることを歓迎する動き(ラジオ歌謡)と、そういうのをダサいとする力(レコード歌謡としてのジャズ・ロンク・演歌・歌謡曲)が昭和期に拮抗したように。

(吉田寛先生は、「レコード歌謡的なもの」を信奉する仲間たちに周囲をがっちり固められているなかでゲーム・遊戯の(広い意味での)教育・教養機能を語ろうとするから、まるで何かを人質に取られているかのように語りの文脈が捻れて、苦しかったりするんじゃないかと思えなくもない。)

テレビ的教養 (日本の“現代”)

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ラーニング・アロン 通信教育のメディア学

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