Sea (es e a) の解釈

小野光子は、「海(Sea)の主題」をパントナリティとして解釈、説明するけれど、es e の半音から3度で飛ぶのは、モードとしては、同時に、抽象化され超現実化された都節なんじゃないだろうか?

80年代国際アート市場のしくみ

武満徹評伝を最後まで読んだ。

ショットと契約した80年以後の武満徹の仕事の広がりは尋常ではなく、入院する直前の1994年は働き過ぎに見える。

評伝には、7月に「精霊の庭」を東京で初演した2日語に札幌のPMFにレジデント・コンポーザーとして参加した、とあるが、同月後半には、京響で井上道義が「鳥は星形の庭に……」を演奏しており、リハーサルに一日だけ顔を出したと聞いた記憶がある。たぶんそういう非公式の行動を入れると、日々スケジュールがびっしり詰まっていたのではないだろうか。

武満徹が凄かった、というより、80年代以後の爛熟する国際アート市場に組み込まれて動き続けていたように見える。

「インターナショナル」な活躍が華々しいのに、国内の人脈は、80年代以後、ほぼ固定されている。東京オペラ・シティの準備のために集まったメンバーには、もう90年代なのに秋山邦晴が入っていたり、大岡信や谷川俊太郎と仕事をしていたり……。

でも、そんな風に当人のローカルな環境が固定した状態だからこそ、国際市場での価値(差異)が発生したのかもしれない。80年代のグローバル資本主義は、そういう風な、今から振り返れば教科書的すぎるようにも思える「差異」で商売していたんでしょうね。

評論家が「原理的に考える」というようなことを言えたのは、世の中を動かすシステムが書き割りのように明快だったからかもしれない。

90年代に入って、そういう「劇画的資本主義」は崩れた、とされているけれど、武満徹の仕事ぶりを見ると、アートの領域では90年代半ばまでは、まだ80年代からの続きでやっていけたようですね。そして震災とサリンの1995年に武満徹は入院する。武満徹はその後の世界を知らずに死んだ。

わたくしが批評の仕事をはじめたのは、ちょうどその1995年からなのだから、「武満徹は過去の人だ」と突き放しちゃったほうがいいのかもしれない。

(内田樹やその信者の人たちは、90年代になってもゼロ年代になっても今でも、ず〜っと「グローバル資本主義」の80年代風の観念に囚われ続けているから困ってしまうわけだが……。「ローカルな私」をぐだぐだ続けていれば、そのうち「希少価値」が生まれる、という往事の甘美な成功体験が忘れられないのだと思う。)

「ブーレーズ・コンダクツ・タケミツ」の謎

「鳥は星形の庭に降りる」は、小澤征爾の後任のエド・デ・ワールトがサンフランシスコ響で初演したそうだが、ワールトはたしか小澤と同じ頃バーンスタインの副指揮者だったから、いわば「身内」で、その頃ヒューエル・タークイもサンフランシスコにいたらしい。こんな風に、武満徹の「インターナショナルな成功」なるものは、「シンデレラ」と呼ぶには個人的なコネクションが目立つ。善し悪しではなく、見ず知らずの異邦人の音楽をいきなり一本釣りする酔狂な人など、現実にはいない、ということだと思う。「音楽の国」はお伽噺の世界ではないということだ。

そうやってひとつずつ潰していくと、1977年に10年前の旧作「アーク」をどうしてブーレーズがニューヨーク・フィルの定期で指揮したのか、そこが謎としての残る。ブーレーズに生前に質問しておくべきでしたね。

日本ショット社と東京コンサーツ

小野光子の武満徹評伝の1980年代を扱う第5章は、武満が1980年に日本ショット社(ショット・ミュージック株式会社)と契約した、という記述ではじまる。マインツのショット社が日本法人を設立したのは1977年だが、設立直後にショット社側からアプローチがあったのだろうか。武満徹は「ボク」の個人主義を標榜して、個人の意志と人脈で動いている体裁だったはずだが、ショット社は、社名があるだけで個人の顔が見えない。どういうことなのだろう?

とりあえず、ポスト武満と言われることもあった細川俊夫はショット社と契約している作曲家らしいのだが、日本ショット社は具体的にどういう風に作曲家をプロモートしているのか、姿が見えないのは不審である。

あと、1960年代のオーケストラル・スペースが武満徹、一柳慧の自主企画であった、という記述に添えて、協力した団体のひとつとして東京コンサーツの名前が出る。

サントリー音楽財団(現芸術財団)の作曲家の個展が東京コンサーツの所属アーチストを順番に取り上げているのは知っていたが、会社概要を見ると、「音楽・企画・制作」の「テレビ関係」にNHKの大河ドラマや連続ドラマがいくつか載っている。

子供の頃、胸躍らせながら毎週日曜日のテレビのオープニングで目にした毛筆縦書きの「東京コンサーツ」は、武満徹や猿谷紀郎が所属している東京コンサーツと同じマネジメント会社である、という理解になるのだろうか。(ひょっとすると、こうした放送関係の音楽家の手配をする仕事からスタートして、いつしか放送局に出入りする作曲家のマネジメントを請け負うようになったということなのだろうか。)

東京コンサーツという会社も、武満徹の評伝では個人の顔が見えない。

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顔が見えない、といえば、20世紀音楽研究所が1961年に大阪でやった第4回現代音楽祭で、ジョン・ケージ「オーケストラのためのコンサート」に参加したメンバーがどういう人たちだったかということも、プログラムには「現代音楽祭管弦楽団」とあるだけで、よくわからない。(指揮は黛敏郎、ピアノは一柳慧と記されているが。)

作曲家たちが「コンテンポラリー」な「前衛」の「スターダム」にのしあがっていく過程を支えた黒子たちの仕事ぶりを具体的に知りたい。

作曲家のプロモーションやマネジメントを会社組織で行う、というのは、国内では東京にしかない仕組みだと思う。(そういえば佐村河内騒動でも、彼をマネジメント&プロモートする事務所があったんですよね?)関西にいると、何がどうなっているのか、よくわからないので教えて欲しい。

万博が「芸術で食べていける」時代をもたらした

小野光子の武満徹評伝は、武満徹が作曲家になるまでが第1章、「弦楽のレクイエム」までが第2章。そして第3章は1970年の万博で終わる。「作風」で武満徹を語るときに言われてきた「カトレーン」等の1970年代半ばの脱前衛化で章が切れてはいない。

1970年代を語る第4章には、最初のエッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』を新潮社から出すときに大江健三郎が奔走した(たしかにこのタイトルは大江健三郎の小説のタイトルと雰囲気が似ている)、とか、ホリガーやニコレからの委嘱は日本ロシュを通じてであった(パウル・ザッハーの妻が Hoffmann-La Roche のオーナーだったんですね)、とか、知らなかったことがいくつかあって、たしかに万博で武満徹の周囲が変わったように見える。どうやら、万博という国家プロジェクトは、在野のアーチストと企業をつなぐ縁結びの役目を果たしたようですね。西武セゾンのミュージック・トゥデーは、コンセプトが万博鉄鋼館のシンポジウムを引き継いでいるだけでなく、企業が前衛アーチストを起用する、という発想自体が万博由来だったように見える。

財界には、それ以前から芸術(芸事)を支援する気風はあった。山田耕筰も朝比奈隆も武智鉄二も、社長たちのパトロネージュがなければ在野で大暴れすることはできなかったはずだ。そこから財団に基金を詰む形の企業メセナへの転換に万博がどう絡んだか。大阪万博をそういう視点で検証してはどうかと思う。

ともあれ、万博が「芸術で食べていける」時代をもたらした。

私たちが、今その事後処理に苦労しているものの正体はこれかもしれない。

(FM東京のプロデューサー東条は、芸術家を「食わせる」側の企業人として評伝に登場する。たぶん彼は、今も、俺は音楽家たちにオマンマを食わせるために動いている、という意識じゃないかと推察される。私は、もうそんな時代ではなくて、そんな発想でやっていたら音楽と音楽家が腐ってしまうと思っている。)

武満徹のサクセス・ストーリーの読み方

例によって小野光子ははっきり書いていないけれど、バラバラに提示された証言を組み合わせると、こういうことだったように思える。

  • ストラヴィンスキーの1959年の来日は大阪国際フェスティバル(朝日新聞社)の招聘だが、ロバート・クラフトが同行し、タークイをはじめとする複数の在日米人と事前にコンタクトを取っていたようだ。再独立からまだ6年しか経っていない日本の楽壇には「アメリカの影」が射しており、ストラヴィンスキーはそのルートを利用したということだろう。そして彼らのすすめもあって、来日の翌日には早速、鎌倉を観光した。
  • アポをとるべき人物として黛敏郎、武満徹の連絡先を事前に知らされており、鎌倉在住の武満徹が呼ばれたが、彼らの当時の年齢、立場を考えれば、ちょうど大物研究者の観光案内に院生が借り出されるようなものではなかったかと思われる。(記者会見の通訳など、公式行事のスタッフは、もっと年長のしかるべき地位にある「大人たち」が担っており、彼ら若手の出る幕はなかった。だからこそ、外山、黛、岩城は、N響のコネを使って、こっそりエキストラに潜り込んだのだろう。)
  • 武満徹は、呼ばれたのでストラヴィンスキーと鎌倉で落ち合うが、当時の日本人たちが大作曲家をオフタイムに放っておくとは思われず、既に「大人」の接待要員が別途手配されていたのではないか。そして武満は場違いでお呼びじゃない感じだったのではなかろうか。ドナルド・リチーから「この若者はあなたと同じ職業ですよ」と紹介され、武満はそのことに感謝したそうだが、こういう居心地の悪い場所に呼ばれた「若手」が、こうした一言に「救い」を見いだすというのは、経験的に納得しやすい状況だと思う。
  • そしてストラヴィンスキーは、のちに改めてタークイらから、日本の作曲家たちの楽譜や録音をあれこれプレゼンされて、そのときに「弦楽のためのレクイエム」を聴き、ああ、あの隅っこのほうにいた若者か、と再認した。それが「あの小さな男が」云々の発言だったのではないだろうか。

伝聞とミスティフィケーションによって流布された「神話」の「真相」としては、このあたりが落としどころのような気がします。

(それにしても、川島素晴が「レクイエム」の楽譜についてエクス・ムジカで書いたことを、遺族側はいまも快く思っていないようですね。筆写譜をめぐる小野光子のコメントは、名前を挙げずに川島のことを言っているとしか思えない。水面下で足を蹴り合うのは不幸なことです。)

武満徹 ある作曲家の肖像

武満徹 ある作曲家の肖像

追記:

アレックス・ロスがアメリカの音楽家を「invisible man」と形容したが、武満徹のシンデレラ・ストーリーは、半ば意識的、半ば無意識的にそんなアメリカの(ヨーロッパから見て)「invisble」な前衛運動を反復しながら、そのような反復に北米が、いわば「兄貴分」としてお墨付きを与えていく過程だったんだな、と思う。

「若い日本の会」で江藤淳や石原慎太郎と一時行動をともにしながら、初期の作品に、ほぼいつも「元ネタ」がある根無し草状態であることなど、そういう構図で説明するのがよさそうな事柄が次々出てくる。

そして思うのだが、「兄貴分」である北米はともかく、ヨーロッパの作曲家たちには、武満徹の生前から、このあたりのカラクリが丸見えだったのではないだろうか? 「国際的成功」の検証は、そのあたりが鍵になりそうな気がします。

追記2:

「60年代の武満徹はキレキレの音楽を書いて良かったけれど、70年代半ばからマンネリに陥った」という世評があるけれど、これは、実験音楽華やかなりし頃への転倒したノスタルジーのような気がする。評伝のなかに武満徹の自作についてのコメントが挿入されると、「この人なにを浮ついたこと言ってはるの?」と苦笑してしまう。武満徹の音楽用語の使い方は、事実ベースの評伝の文脈に置いて読むと、ポストモダン批評における科学数学用語の使い方と同じくらいインチキ臭いことがわかる。

日本では60年代に「コンテンポラリー」(笑)にアートが流行って、人文のポストモダンがさかんに言われるようになったのは70年代から80年代だが、ポストモダンの出所のフランスの人たちが旺盛に仕事をしたのは60年代なのだから、同じ臭いがするのは偶然ではないと思う。時代がずれているように見えるのは、浄土教が鎌倉期、禅が室町期に流行ったけれど、大陸文京にそのような前後関係があるわけではないのと同じことだろう。

そして武満徹が「海外での受賞」や「イベントでの成功」を勲章に国内で売れていくのは、ロック・ミュージシャンの成り上がりに似ている。

(権威主義とは無縁な自由人、というキャラクターで売っていたが、武満徹は60年代にオーケストラの大作で注目されたわけで、「テクスチュアズ」(東京オリンピックで初演してユネスコの賞を得る)〜「ノーヴェンバー・ステップス」(ニューヨーク・フィル委嘱作)〜「アーク6部作」(初のソロアルバム「武満徹の音楽」でお披露目)という三段跳びは、ロック風に「ビッグになる」ベクトルだと思う。オーケストラル・スペースというイベントは、まるで、武道館コンサートみたいだし。)

「本論文は」という無生物主語

真田丸総集編を少しずつみて、上手に編集するものだなあと感心するが、考えてみれば、ドラマ本編がストレートプレイ風の小さなシーンを有働さんの語りでつなぐ形式だから、語りによるつなぎをちゃんとやれば再編集しやすいのかもしれない。

ストレートプレイに「語り手」が無策に割って入ると安直・通俗と言われるし、小説では、語り手を視点人物として物語に埋め込む様々な技法が開発された。語り物・叙事劇は、そのどちらでもない物語の形だということですね。

論文はどうなのだろう?

「私は」と書き手がダイレクトに前に出てくるのを避けることになっていて、どうしても、というときには、「著者は」と書いたりするが、「本論文は○○××を目指す」等と書くときの「本論文」という無生物主語は、「私」や「著者」の言い替えなのか、そうではなく、無生物主語を置くことが、集合知・共有財としての知、という理念の実装だと言って良いのか。

論文・研究に対して、書き手の意図や素性に遡ったり(いわゆる属人批評)、書き手が設定した領域の外(いわゆる右斜め上)から論評したりするのは、学問ではルール違反だ、という言い方があるけれど、そういう風に安心・安全なルールで学問を囲い込もうとするのであれば、「本論文は」という無生物主語の地位を、一度、文章論として明確にする必要があるかもしれない。

劇場指揮者は声に手で触れる - プラトニズムとエロティシズムの差異

どのヴァージョンからなのかわからないが、iPhone の画面読み上げ機能が強化されていることを知る。画面上の文字を読み上げる手順が今はずいぶん簡単になっている。画面をタッチして次々読み上げているうちに、三輪眞弘の声のプラトニズムの件と、タッチパネルがすべてを単純操作に還元する件を組み合わせて考えることができそうだと思いついた。

画面の音声読み上げは、タッチパネルに触るとガジェットが音(声)を出力するが、たぶんこれは、三輪眞弘が追い求めているような「自らの手を動かして音をだす」ではない。指先は画面の「文字」(視覚記号)に触覚的にアプローチしているのであって、音声は、視覚記号への触覚的アプローチの補助に留まる。三輪眞弘が「音に触れたい」と願望するのに対して、タッチパネルの読み上げは「文字に触れる」ことを目指している。指先でものに触れる、という行為が何を目指しているのか、音声を指向するのか、文字・視覚記号を指向するのか、三輪眞弘とタッチパネルはベクトルの向きが違っている。

(補助・ガイド・ナビゲーションがスムーズであるか否かを重視する態度は、ゲーミフィケーションとも絡んで最近の流行なのかもしれず、「何を目指すか」行き先を宙づりにしてナビの優劣を語ること、「目的よりも過程が大事」と言い募ることの是非は、それはそれで気になりますが、今は詮索しない。「位置ゲー」と呼ばれるポケモンGOも、次はこっちに行けあっちに行けという画面上のガイド・ナビゲーションを面白く演出してユーザを遊ばせているのだから、「ナビゲーション・ゲーム」であり、そこが当世風なのかもしれませんが。)

「音に触れる」と「文字に触れる」の差異、というアイデアを敷衍すると、三輪眞弘の「録楽」への違和感、ヴォーカロイドとフォルマントの違いへのこだわりに、もうひとつの解釈が可能かもしれない。既に記号化・データベース化され尽くしている音声データを操作するヴォーカロイドの「声」は、タッチパネルの読み上げに似ている。あのシステムは、声(の断片の集積)を「文字」に似た記号として操作する。三輪眞弘は、そういうことがやりたいわけではないのだと思う。

ただし、前に書いたことの繰り返しになるが、三輪眞弘には「音」と「声」を峻別して、彼の「手/指先」は、「音」に触ることはできても、「声」に触ることはできないと観念されている。そこに「声のプラトニズム」が発生する。

しかし、「声」に触ることは不可能なのだろうか?

たとえば、指揮者の手は、カルロス・クライバーの流麗な身のこなしがそうであるように、「文字」(視覚記号)に似た分節とは別のやり方で音に触れている、と感じさせることがある。一般に、器楽合奏の指揮者は(吹奏楽の起源であるところの軍楽隊長が典型だが)オイッチニと手旗信号風に手振りを「記号化」する傾向があり、歌のリーダーは流れるように手を動かす(合唱指揮者は通常、尖った指揮棒をもたない)。クライバーのようなオペラの指揮者は、その両方を見据えて、器楽と声楽の両方を束ねる必要から、あの自在な身のこなしを編み出すのかもしれない。(ウェーバーもワーグナーもマーラーも、身のこなしが巧みであったと語り伝えられる指揮者はいずれも歌劇場で活躍している。)

劇場には、声に手で触るエロティシズムが伝承されている、と考えることはできまいか。

(こういうアイデアは、英国経験主義がプラトンの「洞窟のイドラ」と並べて批判した「劇場のイドラ」なのでしょうか? 別に、ワーグナーやクライバーをノスタルジックに顕彰しようということではなく、合唱に軸足を置く山田和樹の優位に理屈をつけたいだけなんですけどね。)

編著という背徳

ここ数日で、自分の書いた文章を少しと他人の書いた文章をたくさん読んで添削した。(全国的に大学というところは今そういう季節であるようだ。)

添削には、ツボを押す整体・マッサージに似た勘所があるようですね。あるポイントをしかるべきやり方で突くと、あとは自力で動いてくれるものみたい。

ゼロから自分で調べて書いて仕上げる、というのとは違う面白さがあるけれど、添削のツボを突くのに興じて、自分で調べて書くのを怠ると、あっという間に堕落しそうではある。大物研究者が配下の者に書かせる「編著」はこういう快感の先にあるのかなあ、と思ったりもする。闇の入り口をのぞき込んでしまったかのようで、恐ろしいことである。

(原案だけを示してゴーストライターが執筆する/楽譜を書く、というのも、ひょっとするとこれに似ているのだろうか。

ちなみに、東条は岸田繁の交響曲について、ほぼ「門前払い」と言えそうな文章を公表しているが、岸田が書きたいと言ったのではなく、京響が書いて欲しいとリクエストしたのだから、東条が事態を気に入らないのであれば、文句を言う相手は岸田ではなく京響だろう、というのがひとつ。そしてもうひとつ、今回のプロジェクトでは、書いた当人も彼のファンも、別に嬉しそうにうかれてはいない、というところを東条はわかっていない。むしろ、誰もがどうなることかとハラハラしながら事態を見守り、どうにかイベントが成立してほっとした、というところだろう。降って湧いた難題(京響からの依頼)にどう応じるか、岸田は火中の栗を拾った感がある。そして、誰も望んでいないのに渦中に飛び込むところが岸田のロック魂なのであろうと推察される。岸田の心得違いを諫めるかのごとき東条の説教口調は、そのあたりをまるでわかっていない点が、どうしようもない誤爆というべきだろう。

岸田繁はオーケストレーターに頼る「堕落への道」の危険を(佐村河内騒動の直後ということもあり)十分にわかったうえで、そのリスクを負うくらいなら、へたくそであっても全パートのデータをMIDIで自力で作る道を選んだわけで、岸田には、東条ごときに説教されねばならぬ後ろ暗いところなど、ありはしない。問題はそこではないのだ。)

平和に向けて

3週間ごくろうさまでした。

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これからは普段着で静かに暮らしてください。

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ということで、カメやカエルのcpを限界まで下げることに専念する。人騒がせな害虫を被害が大きくならないうちに駆除するような感覚である。

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