音楽における近代の「日本留学」と東アジアの近代化論

「1900-1950年の東アジアとオーストラリアにおける芸術家曲」という学術シンポジウムと連動したレクチャーコンサート「“芸術家曲”の誕生と音楽の近代」という催しを聴いて3つの感想を抱く。

1. オーストラリアの位置づけがよくわからない。現在の北米の世界戦略には「環太平洋」(Transpacific, TPPのTPですね)という枠組があるが、今回は北米・南米が外れているので環太平洋とは言えないし、当該の時期(1900-1950)には国際協調が総力戦になだれこむ「ブロック経済」、地域ごとの囲い込みがあったことが知られているけれど、この時期のオーストラリアは、北米が唱えた「パン・アメリカ」(北米と南米を一体とみる理念)でもなければ、日本が後付けでその盟主を標榜した「大東亜」でもないように思う。たまたまアジアとの連携を模索する日本在住オーストラリア研究者がこの共同研究を主催した、という以上の意味が「東アジアとオーストラリア」という組み合わせにあったのかどうか。

2. 「大東亜」概念の批判的再検討に関わるかと思うが、明治から大正にかけて、東アジア諸地域からの日本留学という現象があったようだ。東京美術学校や東京音楽学校もアジアからの留学生を受け入れたらしい。しかし昭和期に入ると、一方で大日本帝国がアジア諸地域に「解放という名の侵略」を進めたわけだから、アジア諸地域から日本に何かを学びに来る行為を素朴に「留学」とは呼べなくなるし、他方で、音楽に関しては、東京音楽学校以外に東京や大阪に私立の音楽学校が複数できる。今回のコンサートで紹介された台湾、韓国、中国の作曲家のなかには、昭和期に東京の私立音楽学校で学んだ人が散見された。しかも、(今回は片山杜秀がプレトークに招かれていたが)昭和期の私立音楽学校には、ドイツ派の東京音楽学校に対抗するかのようにフランス派の作曲家がいて、彼らは同時に日本における国民楽派/在野の民族派でもあった。昭和前期に「日本で音楽を学ぶ」とはどういうことだったのか。

3. 今回、原則としてそれぞれの作曲家の国籍に準拠してそれぞれの母国語の歌詞で作品が歌われたが、「日本留学」した作曲家たちは当時、何語の歌詞に作曲して、それぞれの作品は何語で発表されたのか。個々の作品について、そうした書誌情報を添えて欲しかった。そうした情報がないと、個々の作品の分析が先へ進まないと思うので。

2. の観点を推し進めると、時田アリソンさんが以前から依拠しておられる「東アジアの近代化」という議論の枠組(西洋音楽が19世紀後半から20世紀前半の東アジアに、あたかも太陽のように広く平等に降り注ぎ、オーストラリアを含む各国・各地域に「芸術音楽」がすくすく育ったかのようなイメージ)自体が再考を迫られるのではないか。ポストコロニアリズムとはそういうことだったように思うのですが……。

(それにしても、この時期に江文也が単独でバルトークのような音楽を書いているのはすごいですね。)

会場で上野正章に出会ったら、「おや、元気かい」と言われ、変な感じがした。昨秋の学会で会ったばかりだが、何を言っているのか。どうやら彼のなかでは、「私は大学時代と何も変わることなく、細く長い研究者人生を着々と歩んでいる。同じ研究室に白石知雄という男がいたが、彼はもう「学会」や「母校」にはめったに顔をみせなくなった。道をふみはずした可哀想な先輩である」ということになっているようなのだが、その「四半世紀前から何も変わってはいないはずだ」の信念とは裏腹に、彼の頭髪のかなりの部分が50歳を過ぎて白くなっているのは恐ろしいことであった。日本音楽学会は、こういうクリーチャーにとって、居心地のいい場所であり続けているらしい。このままいくと、学会という組織は、平日の昼間にひなたぼっこをする公園のようになって、「高齢者福祉」という概念に接続するのではないか。

[追記]

上海バンドはメルボルンと似ている、というのが、オーストラリアを東アジアと比較するきっかけのひとつだったらしい、という話を関係者から聞いた。

だとしたら、比較の単位は「国」ではなく「都市」であったほうがよかったのではないか、と思った。英国居留地のある港町の横断的な比較、とか。

ナショナリズムの再検討と近代化論と都市論は、一挙に混ぜてやろうとすると、凡庸で薄い一般論に回収される危険が大きいと思う。

獣の宅配

吹田ジャンクションの近くで戦闘力の低いわたくし好みの個体を発見した。

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どうやら昨日来、「ちゅうかん」(大阪府道2号大阪中央環状線)や「がいしゅう」(同1号万博外周道路)、「しんみどう」(新御堂筋国道423号)とか「いないち」(同171号)とか、あるいは名神とか、自動車を運転しない私がタクシーの運転手さんに道順を説明するとき以外には使わない語彙で名指されるような、北摂の電車で行けないゾーンに水棲獣が頻出しているらしい。

(私がcp33に遭遇したのは「吹田インター」近くのイオンモールにいたからで、各銀行のATMがずらりと並んで年度の変わり目の諸々には駅前よりショッピングモールのほうが断然便利、というあたりが、いかにも、「ファスト風土」な郊外、ではある。)

ラプラスが「山のソース」「陸のソース」に出る、という言い方になるようですが、単に「山」「陸」ではないかもしれない。

昨年の夏場に南港や天保山へ自家用車で繰り出す人たちの「路駐」が問題になって、自治体や識者を交えた対策が話し合われたりもしたようだが、それじゃあ、そこまでしてラプラスを追い求める人たちがどこに住んでいるのか。ゲームの胴元がユーザの行動パターンを解析すれば、たぶん、傾向がわかるはずで、このイベントは、だったらそれぞれのユーザの自宅へラプラスを直接届けよう、という、いわば「モンスターの宅配」みたいな感じがします。

欲望を見透かされている、北摂民の欲望が陸地の水棲獣というシンボル/アイコンとして露呈している、ということでしょうか?

(「東北のラプラス」「熊本のカビゴン」の復興支援イベントで地元以外からわざわざ遠征したユーザがどれくらいいて、彼らは日頃どこでプレイしているか、というのも、有力な参考資料として使えそうだし、「みずイベント」の狙い澄ましたラプラスの出方は、いわゆるビッグデータの解析を踏まえていそうな気がします。「○○ギラス」といういかにもな名前の陸の怪獣とも、出現パターンは違っているようですし。)

ナイアンティックは「進化アイテム」を胴元が絶対負けない極悪ルーレットみたいなカジノ仕様で引っ張るのをようやく止めたが(ルーレットをエンドレスに回転させられるという理由で錦糸町や北新地の歓楽街にユーザが詰めかけるのは、いかにも怪しいことでした)、郊外でも、ラブホテルとボーリング場という高速道路のインターチェンジの昭和な風景は廃れつつあるようだ。名神茨木インターの周囲はいくつかのラブホが廃業して、巨大ボーリング場 Big Box は取り壊されてマンションになるらしい。たぶん交通の便を考えての立地だったと思われるパナソニックと東芝の家電工場もなくなった。(国道171号沿いには宅配の配送センターが並んで、パナソニックの跡地にAmazonが来るらしい。時代の変化ですね。)

吹田インターからJR茨木駅までの地域も、茨木駅側はJTの跡地がイオンモール、サッポロビールの跡地が立命館大学になったが、ラプラスのいるあたりまで歩いたおかげで、モノレール宇野辺駅の周辺には、今も工場がいくつかあるのがわかった。

少子化をものともしない住宅地の公園にカワイイ系が出て、走り屋の方々(今もこのあたりは週末に「族」のみなさんがうなりをあげて爆走しております)には巨大獣をお届けする、ということのようですね。(北関東との比較を展開するために、立命館の千葉雅也くんは、北摂に転居するのも、アリじゃないかしら。北関東風の任侠はいないが、仮名手本忠臣蔵山崎街道の舞台がこのあたりです。)

一口に北摂といっても、阪急電車が郊外の神社仏閣や湯治場と都心を結んだ昭和前期の開発と、道路を縦横に張り巡らして、集合住宅を作り、企業・工場を誘致した昭和後期の開発では、当然ながら風景・環境がまったく違っていて、前者の公園は世代交代を経ていまも賑わう一方で、後者の地域は、拡張現実を被せて巨大怪獣が宅配されている、ということだと思います。

昭和前期の私鉄沿線開発は鉄道を降りた利用者が駅周辺を歩くのが前提で、今では阪急電車の主要駅が高架式に変わっているけれど、昭和の頃は茨木市駅や高槻市駅も、今の神戸線の各駅と同じように住宅に囲まれて、街中にフラットに埋めこまれていましたよね。阪大(石橋の旧大阪高校)や関大など、北摂の学校はそんな阪急沿線にあるものだった。

中之島にあった阪大の医学部と付属病院が万博以後のインフラを活用するべく千里丘陵に移転して、立命館の経済経営系学部が茨木の工場跡地に入るのは、「ファスト風土」に「族」が爆走できそうな地域のジェントリフィケーションなわけで、大学の在り方として新しいのかもしれない。

(豊中の例の国有地は、そんな21世紀型の郊外都市再開発からも外れてしまう事情がありそうな場所だから、それで何かグズグズとくすぶってしまうんでしょうね。服部や曾根は拡張現実的にも色々面白いことが起きるけれど、庄内は水路を埋めた堤防沿いにミニリュウがときどき出るくらいなんですよね。)

そういえば、大学時代、サークルの同期生が何度か家まで送ってくれたが、阪大待兼山キャンパスから「ちゅうかん」を走って「がいしゅう」に入り、吹田キャンパスを横目に見ながら北上して「いないち」へ、というコースは、車好きにはそれなりに楽しい夜のドライブだったのかもしれない。(「せんちゅう」(千里中央)から「しんみどう」を使うより、我が家には「がいしゅう」コースがいいらしい。)今も昔も、私は車がどこをどう走っているのか、地図と風景がまったくリンクしないのだが、万博公園のあたりは、窓の外の景色が近未来都市っぽい雰囲気だったりしますよね。

アイロニーとユーモア、「あえて」と「ごっこ遊び」

アイロニカルな人はユーモアをアイロニーだと受け止めてしまう、という症状が、アイロニーとユーモアの差異の話を難しくしているように思う。そして、「あえて」というアイロニカルな構えを崩すことのできない人は、ごっこ遊びをフィクションだと受け止めてしまうのかもしれない。ケンダル・ウォルトンが「わたしはフィクションの語を使いたくない」と言っているのに彼のごっこ遊び論が「フィクション論」に分類されてしまうのは、この症状が相当深刻であることを告げている。

(蓮實重彦は何度も何度もアイロニーとユーモアの差異を言っているのに、東大生は蓮實先生の嫌味をアイロニーだと受け止める、という現象があって、蓮實がフィクション論を書いたのは、それこそ、そういう東大生への「嫌味」なのかもしれませんな。アイロニカルな構えは、何かに「なる」ことができない(何にも「なる」ことができない)牢獄、という感じがします。)

異議申し立てを「怠惰な不作法」と同一視する「勤勉なる編集委員会」の礼節と言論封殺

この単純なサイクルの中に多数の必要業務があり、マニュアルが存在するとはいえ、そこに書ききれない膨大な経験知が蓄積されていたこと、そして煩雑に思われる諸々の手続きにはそれぞれに意味があることを改めて認識しました。
(小塩さとみ「編集後記」『音楽学』62/2、2017年、164頁)

現在の状態を「煩雑」と感じるか感じないかという主観に帰着させてよいのか、というのが第一の疑問。「それぞれに意味がある」ことは、「(観察者の態度を)改める」までもなく「認識」できるのではないか、というのが第二の疑問。

その「意味」を「認識」したうえで、具体的な実装に改善の余地があるのではないかと主張するのは正当な異議申し立てである。正当な異議申し立てを、あたかも「煩雑で面倒くさいことを嫌がる」行為、すなわち「怠惰」と、対象をしっかり観察するべく態度を改めれば解決することなのにそれをしない「不作法」の組み合わせとみなし、怠惰を勤勉に、不作法を礼儀正しさにそれぞれ置き換えればすべては従来通りでいいかのように言いくるめるのは、論点をはぐらかすことによる言論の封殺・黙殺であろうと私は考える。

(学会誌本文の執筆者たちの研ぎ澄まされた言語運用を目の当たりにすると、「編集後記」もまた、しかるべき識者の査読を受けて、その言語を鍛えるべきではないかと思えてくる。それは、「煩雑」に思われるかもしれないが、「必要な手続き」ではないだろうか? 今求められているのは、上の引用が示唆するような「怠惰→勤勉/不作法→礼節」という後進国の啓蒙・文明化を連想させる規律・躾けの徹底ではなく、「勤勉」と「礼節」を「聡明」と「効率化」に粛々と置換することだと思う。自力でそれがかなわないのであれば、第三者の介入が必要ではないか。)

ベテラン楽員さんへ:オーケストラの「ハイフィンガー奏法」はもうやめましょう!

クラシック音楽はいまや「競技」である、という風に割り切ったうえで、各方面は「もっと上を目指す」方針を採用する傾向が顕著らしいので、だったら2017年度の開幕に当たって、大阪のクラシック音楽界隈の「戦力」の「現状分析」をしてみよう。負け組を切り捨てて「勝てる音楽」をいちはやく見いだし、読者の皆様に速報をお届けする。ビジネスライクに時代に即応する21世紀の音楽評論である(笑)。

小菅優がサントリー音楽賞だそうで、選考委員を見ると、サントリーの音楽祭でいい演奏をしたから、というわけではなく、ちゃんと聴いて総合的に判断したんだろうと推察される。

ベートーヴェンのソナタ全曲演奏は本人の発案で、マネジメントは気乗りしていなかったと伝えられているから、ミュージシャンが使い潰されないために今なにが必要なのか自分で判断して、わがままを通して、賭に勝ったケースだと思う。

カジモトは大阪公演をまともに宣伝しなかったかのように言う人がいたが、CDはリリースしているのだから、必要最小限のサポートはやって、あとは、自分の希望ではじめたことなのだから自力でやりなさい、ということだったのだろう。

そう考えると、大阪で私設応援団を買って出る人がいたり、「まあ頑張りなさい」と上から目線で激励する若年寄の評論家が彼女に接近したのは、話の本筋とは関係なく「大阪は妙なところだなあ」ということで終わっているように思われる。大阪でワアワアいうてる人らは大局が見えていない、という、わかりやすくよくあるケースに過ぎない。

大阪フィルの最近の動きはちょっとわかりにくい。

尾高忠明をトップに据えるというのだけれど、創立70周年事業としては大阪国際フェスティバル(朝日新聞)とタイアップした井上道義の企画(=「協賛」どころではない「共催」的な位置づけだろう)であるところのバーンスタインのミサをプッシュしているし、もうひとり指揮者として契約している角田鋼亮の話題が次々出てくる。事業体としての運営サイドは、尾高忠明を押すだけではうまくいくまい、とわかっているように見える。

だとすると、オーケストラの事業運営部門ではないどこかが尾高忠明を押しているんだろうなあ、と推測せざるを得ない。一番ありうるのは、伝統的に意見が強いことで知られている楽員さんの意向だろうと思う。「井上道義では安心してプレイできないから変えてくれ、尾高さんがいい」ということだったのではないか。

実際、先の定期の英雄の生涯は、「コントラバスさんやヴィオラさんのことも、管楽器さんや打楽器さんのことも、私はあなたたちの言い分を全部承知していますよ。ここが恐いところですよね、はいどうぞ! 私は、あなたたちがどこでどう頑張っているのか、全部、真ん中で聴いているから安心してくださいね」という感じがした。ポリフォニックと言えば言えないこともないが、あれは、次から次へとそれぞれの部署から決裁書類が上がってくるのをテキパキさばくビジネスパーソンの人心掌握術だと思う。

ビジネスの交渉では、ダラダラ説明するのはなく、開口一番、要点を最短距離で伝えるのが重要だとされることがあるようだが、尾高忠明が振ると、オーケストラの「音の出だし」が異様にくっきりはっきりする。ほぼすべての音に、「ガッ」とか「ブッ」とか「ドッ」とか濁音で擬音化したくなる強いアタックがつく演奏だった。(「最近の尾高さんは自然な音楽をやるようになった。かつてのようにシャカリキではなく、肩の力が抜けて良くなった」と言われているようで、全体の印象としては確かに無茶なところや強引なところはないけれど、「ガッ」「ブッ」「ドッ」だけは譲れないポイントとして残っているようだ。)

たぶんこれが、「全員と円滑にコミュニケートする指揮者」のキモなのだと思う。

指揮者からすれば、楽員が音の出だしをこれだけ明瞭にアピールしてくれたら、タイミングの善し悪しを簡単にチェックできるし、「あなたの音を私はちゃんと聴いていますよ」とリアクションするのが容易になる。そして楽員からすれば、出社時にタイムカードを押すようなもので、(音の)記録がはっきり残るから、頑張っても誰にも聞いてもらえずに努力が報われない、という不幸を回避できる。

しかし、「ガッ」「ブッ」「ドッ」を励行徹底するのは、ピアノ演奏におけるハイフィンガー奏法に似ている。指を立てて、ピアノの鍵盤を必要以上に強く叩くと、弦が円滑に振動するまえにハンマーの打音が過剰に強く鳴ってしまう。いかにも弾いています、という奏者の満足を得ることができて、騒々しさを迫力と誤解する聴き手を圧倒することはできるけれど、弦の本来の振動ではないので、この弾き方ではまともに音楽を作ることができなくなる。ハイフィンガーは、おそらくオルガンやチェンバロの奏法を元にした古い流派がドイツから明治の日本に伝わって悪く教条化したものだと考えられていて、岡田暁生あたりもさかんに目の敵にしていたが、ピアノ演奏の現場でも、今ではとうていまともに相手にされるものではなく、既に駆逐されつつある絶滅種だ。

尾高流の「ガッ」「ブッ」「ドッ」も、例えば「評論家の場面」で管楽器が一音ずつくどいくらいくっきりはっきり吹くと、いかにもうっとうしい表情になって一定の効果をあげてはいたけれど、それぞれの楽器の組み合わせやハーモニー本来の響きの前にノイジーなアタックがいちいちはさまってしまうので、どうしても音色が単調に思えてくる。確かに全部の音がよくきこえるので、楽譜と照らし合わせて勉強したり、音盤で予習したうるさ型のお客さんが「間違い探し」をしたりするにはいいかもしれないけれど、耳の喜びや驚きは少なくなる。

そしてメロディーの滑らかなつながりも、「ガッ」「ブッ」「ドッ」を挿入すると当然失われる。再現部に向けて、まあ全員でよく頑張って鳴らしていたとは思いますが、決めのフレーズの「レミbファミb ソ〜〜ファ〜〜ミb」(シドレド ミレド)、聴衆も一緒に歌いあげたくなるようなメロディーで主調への着地を決める場面を「ベベベベ ゾ〜〜 ブァ〜〜 ビ〜〜」と演奏したら、変ホ長調のヒロイズムが台無しだと思う。(たしかにぴったり揃ってましたけど……。)

井上道義とはやってられない、と主張したい人たちにとって、おそらく、昨年のベートーヴェンのエロイカは色々ドタバタしていたので恰好の攻撃材料だろうとは思うけれど、道義さんは、こんな音は出さなかったんじゃないでしょうか?(私は、あれは井上道義がやりたいことを自由に柔軟にやり尽くした彼の誇るべき演奏だっだと思っています。)

大阪センチュリーも飯森範親が振ると似たような音になる。そして四大オーケストラ企画のように同じステージで演奏すると、センチュリーは灰色の響きで下手ではないがつまらない演奏なのが歴然としてしまうのだが、どういうわけか、耳が悪いのに態度がでかい一部の老人評論家は、「センチュリーは誠実で真摯な演奏をしてナンバーワンだ」と言う。このあたりの不幸なすれ違い(おそらく大手を嫌って二番手を応援する判官贔屓が混入している)もまた、ハイフィンガー奏法のガンガンうるさいピアノ演奏を拍手喝采したかつての日本のクラシック音楽界と同じである。

おそらく元凶のひとつは、いわゆる斉藤メソードだと思う。

奏者にわかりやすい手の動かし方をピアノ伴奏で稽古するときには、音のタイミングを確認しながら体を動かすことができるので、ハイフィンガー奏法めいた「ガッ」「ブッ」「ドッ」方式に音を出してもらうのが便利なのだと思う。(斉藤秀雄が桐朋で教えていた頃は、練習ピアニストが本当に「ハイフィンガー奏法」で弾いていたのではないかとも思われる。)小澤征爾も秋山和慶も、バーンスタインに就いた大植英次も、最近では沼尻竜典も、それではダメだとどこかで気付いてそれぞれのやり方でオーケストラと接するようになって成功したわけだが、奇しくも、オザワを除くこれらの桐朋系指揮者たちは全員、ピアノがうまい。そして山の手育ちの小澤征爾には合唱の経験があった。彼らは、トーサイ先生が教えない音楽の機微を知っていて、「ハイフィンガー」から自力で脱出したわけである。しかし指揮者が全員、そういう風に「脱会」できるとはかぎらない。音と身体の結びつけ方は、一度染みついてしまうと、なかなか克服するのが難しいのだと思う。斉藤秀雄系桐朋指揮者の功罪である。

山田和樹が、日本で一番馬力のあるオケはN響だろう、と言っていたが、外国人指揮者とずっと仕事を続けてきたN響はその歴史的な経緯からこの種のハイフィンガー的な「ガッ」「ブッ」「ドッ」とは縁遠く、桐朋系の指揮者とは相性が悪いですよね。それは理由があることだと思う。(今もそうで、毎週日曜にテレビで放送されている大河ドラマのヤルヴィ指揮N響の演奏は、「ガッ」「ブッ」「ドッ」とは無縁に爽やかじゃないですか!)

大阪フィルも、N響とは経路が違うけれど、これまでずっと、ハイフィンガー的な「ガッ」「ブッ」「ドッ」とは距離を保って活動を続けてきたはずなんですけどね……。

中堅や若手のプレイヤーは、大阪フィルでもセンチュリーでも、「ガッ」「ブッ」「ドッ」でいいと考えるはずがないと思うんですよね。そういうのはダメだ、ということで音楽を勉強して、その実績を認められて今のポジションを得たはずですから。

それじゃあ、いったい誰が「ガッ」「ブッ」「ドッ」を歓迎しているのか?

膿は、しっかり出したほうがいいんじゃないかなあ、という気がしております。

英雄の生涯は、文化史を視界に収めたシュトラウス研究者がその成立背景を具体的に解説できるのだろうけれど、今回ステージで久しぶりに聴いて、これはオペラを書くための練習なんじゃないかと思った。人生の様々な場面をつないでいるので「転換」をどうするか、が問題になって、スムーズにつないだり、あるシーンの盛り上がりが次の場面を導く「推移の技法」を試しているところもあるし、批評家の登場は、新たな人物の登場でぱっと気分が変わる手法を試しているように聞こえる。

ヴァイオリン独奏は、(正直、実際の妻の性格描写だ、というような私小説風の解説は聞き飽きてうんざりですが)プリマにアリア風の満足を与えながら「会話」を進行するにはどうすればいいか、という課題に挑戦しているように思う。

戦闘シーンはバンダとピットのオケの組み合わせを試したのだろうし、こういう風にたくさんのシーンに分割されていると、ソナタ形式としての主題の展開や絡み合わせがオペラのライトモチーフ風に「記憶」を操作する技法に思えてくる。

英雄の生涯はオペラみたいな管弦楽曲だ、と思うと、先に指摘した「レミbファミb ソファミb」(シドレド ミレド)のディアトニックな「うた」をどれだけ朗々と歌わせるか、その重要さがわかろうというものだし、ワーグナーがノートゥンクの「ソド ドミソドミ」のように和声的・機能的にモチーフを発想するのに対してリヒャルト・シュトラウスは「歌えるモチーフ」を書く、そこが彼の自負であり大きな特徴だと思う。ところが尾高さんは、若杉さんの急逝によるピンチヒッターとはいえナショナル・シアターの監督までやったのに、オペラ的な音楽作りができない人なんだなあ、というのも、今回残念なことでした。

(尾高尚忠の1944年のチェロ協奏曲は、チューバまで入ってドヴォルザークの協奏曲みたいにオーケストラの編成が大きく、第2楽章はリヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテみたいに変奏曲形式で書かれていた。尾高さんは、お父さんの作品の全集を大阪フィルと作っていただく、というのがいいのではないでしょうか?

あと、尾高さんには、「大阪に大栗裕という作曲家がいて、彼は、尾高尚忠が獅子奮迅に活躍した戦後の混乱期の日本交響楽団でホルンを吹いていたんですよ。宮田くんとは違う形で、お父さんと縁のあった音楽家ですよ」とお伝えしたい。)

合格者名簿

織田作之助、司馬遼太郎など数多くの作家を輩出した新聞であり、近畿地方の私立大学の合格者名簿を例年3月に掲載。

大阪新聞 - Wikipedia

たしか東大の合格者名簿はどこかの週刊誌に出て、京大・阪大の合格者名簿を載せる夕刊紙もあったはず。あれは大阪新聞ではなかったのかな。

通年公開

京都御苑(御所は宮内庁の管轄で御苑は環境省の管轄なのですね)を丸太町側から今出川側へ北上してみた。

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御所の壁の内側にPがたくさん出るのはどういうことかと思ったら、昨年から、春と秋だけでなく、御所を通年公開しているんですね。

御所のなかでは、観覧に徹して写真のみ。

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朝早かったのですぐに入れたが、私が出た頃には団体の観光客で行列ができていた。

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退位後は京都に戻るという考え方があるのではないかと、私も漠然と思っていたが、現状の御所に居住機能はなさそうですね。

取り繕う手遅れ感

「読めばわかる」と言うけれど、あなたは、今あなたが有り難いお言葉として引用した人物が昨年、官能小説を発表したときに、その「没頭ぶり」を読めていたのでしょうか?

とても醒めた発言をしていたように記憶しますが。

老人の官能小説を叱る愛国青年将校たち - 仕事の日記

私は、こういうの忘れないよ。

むしろ、あなたは、没頭している人に遭遇すると、さっとよけるタイプだと思うけどなあ。増田聡もそうだけど。よけられちゃったことで相手が怯んでいる隙にまんまと逃げるのが増田聡で、あなたの場合は、オノレ吉田め、とファイトが湧く。違いはそこだけなんじゃないか。

協賛と翼賛

信時潔「海道東征」は1940年、皇紀2600年に作曲披露されているが、これは、政府主催の皇紀2600年記念式典そのもので上演されたわけではなく、この政府行事に「協賛」して、別団体が委嘱した作品であるとされている。

(皇紀2600年は、そうした「協賛行事」によって膨れあがったことが知られており、既にそのあたりをまとめた著作・研究がいくつかあるようだ。)

「協賛」の語は、このように、国民総動員・総力戦という概念・体制を構成する枠組としての「翼賛」(メインイベントの主催者とは独立した事業体による自発的な連携)と隣接した歴史を背負っている。

「美学の加速」に学会を巻き込むことの是非、具体的な戦略の成否の総括は、「協賛」(頓挫したそうだが)の語の出現によって、こうした歴史的な文脈をかすかに呼びさますものになったことを、関係者は意識しているのか、いないのか。

政治・運動・実社会へのコミットメントとは、そういうものです。

演奏の拡散の行方

多くの人が情報発信者の「希望」に応じて律儀に「拡散」しているらしい発言で話題になっている横山幸雄は、最近「ギネスに挑戦」といった競技志向を強めているわけだが、もちろんみなさんは、スマホやパソコンの twitter の所定の操作をしただけのことなので、彼のコンサートを聴いてはいないですよね。

あのサラサラした演奏スタイルは、SNSとは違うしかたで、ピアノ界に薄く広く拡散・浸透しつつあるような気がしないでもないのだが。

横山の「ギネスに挑戦」は、膨大なピアノ文献を全部弾いてしまう勢いの大井浩明の最近のヤケクソみたいな活動とどこかしら響き合っているようにも思うので、色々な意味で膠着した世の中をシャッフルするプロジェクトとして、誰か、横山・大井のジョイント・リサイタルを企画しませんか?

大井と横山の両方を聴いてよく知っているであろう飯尾洋一さんあたりが、コーディネーターには最適だと思うのですが。

(話題になっている私立学校に奉職していた他の演奏家教授たちの動きをあわせみると、横山さんは、何かの事情でたまたま矢面にたつ巡り合わせになり、そのままタイミングを逃して引っ込みがつかなくなっているようにも見えるのですが……。)