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おやっ!

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ピカチュウとの出会いを促すのだから、これは善きものなのでしょう(=至上主義者)。

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(歩ける範囲=「ちかく」は歩いて探せ。もっといないの?と思った人は、これを利用してちょっと先まで行ってみよう、という流れを想定しているようですね。珍しいイースターエッグ(イースターエッグが珍しい、というのは同語反復っぽいけれど)は既にたくさん配ったのだから、ゴールドラッシュ風に希少性に狂奔する遊び方はほどほどに、ということか。)

「外国文学者はキモい、全員クビだ!」

敢えてエントリーを分けたが、千葉雅也が言う「勉強はキモい」というのは、ひとつ前に書いた翻訳の諸問題=文学者は言葉を深く勉強するものだから、かえって出来上がった翻訳が奇っ怪なものになる、というのも、それですよね。

そのときに、音楽評論家東条は「外国文学者はガンだ、全員クビにしろ」と叫ぶつもりなのだろうか? みたいなことが、2017年の「人文」における、いまここ、なのかもしれませんね。

年寄りは老い先短く、自分が生きている間に色々なことを解決させてしまいたい心理が働くと、そういう性急なことを言ってしまうのかもしれない。

一方、ビジネス・マインデットな言論は、「一寸先は闇」「自分が現職でいる間に解決せねば」とおしりに火が付いてしまいがち。

マスメディアの言論が老人をメインターゲットにして編成されていると言われる高齢化社会は、ある種の(戯画化された)「ビジネス」を加速させてしまう。老人とビジネスパーソンが「短期/短気」で意気投合して結託してしまう、というところにも原因があるんじゃないか。

古語・雅語を字幕でどう翻訳するか

そういう風に具体的に言ってくれたら、意見の対立、「問題」の所在がはっきりして、まっとうな対話になる。東条さん(←今回はさん付け)、最初からそうしてくれたらいいのに。

伊東信宏先生は阪大の大学院生時代に岡田暁生と頻繁に会って勉強会を続けていて、私も大学院を受験した前後に数回仲間に入れてもらったが、そのとき、伊東さんは、この集まりとは別に大阪外大(今は阪大に統合された)のハンガリー語の先生と「青ひげ公の城」を読んでいて、これがとても面白いと言っていた。私は今も昔もハンガリー語がまったく理解できないので具体的なことはわからないが、台本が文学として面白い、というニュアンスだった。

のちに柴田南雄のことを調べて、柴田の親戚で、柴田のバルトークやハンガリーについての情報限だった徳永康元が「青ひげ公」を訳していると知り、バラージュ・ベラが映画論でも話題になるハンガリーの知識人だと知ったが、「青ひげ公」のテクストが、ハンガリー語で読んだときにどう面白いのか、私には今も(まだ)わからない。読めないので。

(可能性としては、将来わたしが一念発起してハンガリー語を「勉強」するチャンスがあるかもしれないので、いますぐ結論を出すことはないと思っています。放置されている宿題である。「勉強」という行為は、定期的に決算して白黒をつけるビジネスと違って、あっちこっちにこういう「宿題」が積み重なるものですよね。)

ただ、想像するに20世紀初頭のアール・ヌーヴォからモダニズムへ転じるヨーロッパの濃密な転換期の知識人の言葉遣いは、ひょっとすると、法律やビジネスの文書のように「意味が透明にわかればいい」という風には書かれていないのかもしれないな、とは思う。当時のハンガリーの状況や映画というニューメディアを擁護するバラージュの立場を考えれば、韜晦趣味で妙にこだわった言葉遣いをしているわけではないだろうと想像することはできるけれど、そうした「新時代の旗手」的な人の言葉遣いがしばしばトリッキーなのは、どこの国でもあることですよね。

文学者がこれをオペラの字幕用に日本語訳しようとしたときに、そうした原語の機微を知っているがゆえに、ストレートにわかりやすくしていいかどうか悩む、ということは、ありうるかもしれない。

ハンガリー語はマイナーで、ハンガリー語を日本語に訳すことのできる人が少ないからそうなる、というものでもないだろう。

ワーグナーのドイツ語の台本を日本語に訳すのだって、悩みは尽きなさそうだ。

例えば、(ちゃんと台本を読んだことはないので、たまたま目に付いた言葉を拾い上げたに過ぎないけれど) ジークムントは Lenz と叫ぶわけだが、日本語の「春」に相当することを指すのに、現在では Lenz なんて言わないわけですよね。19世紀にだって、たぶん、こんな言葉を会話では使わなかったはず。辞書には詩に用いられる雅語、と書いてありますね。

オペラの台本は、演劇の台本全般がそうであったように、平文・散文ではなく「詩」だったんですよね。

芸術歌曲の場合には、言葉と音楽の組み合わせからがさらに綿密だから、この種の言葉のニュアンスを翻訳で捨ててしまっていいのかどうか、さらに悩みは深くなりそうだ。

たとえて言えば、オペラや歌曲の訳詞や字幕には、和歌に作曲した日本歌曲や古語で書かれた北原白秋の詩を歌う「海道東征」のような作品の歌詞を、どういう風に外国語に訳したらいいか、というのに近い悩みがつきまとうのだと思う。

もちろん、訳者が未熟で間違えた、考えすぎた、という場合もあるだろうけれど、台本という形の「詩」と向き合う翻訳者には、ストーリーの効率とわかりやすさだけを考えるわけにはいかない事情がある。

そして、東条さんが効率やわかりやすさを減らすような翻訳に対して神経質なのは、「そんなことをしているとお客さんがそっぽを向いて、クラシック音楽が衰退するじゃないか」という恐れだと思う。放送業界で、スポンサー企業の重役さんとかが、新番組をプレゼンされたときに言いそうな台詞です。「そんなことでは視聴者がついてこないだろ」みたいな。

でも、東条さんがお嫌いないわゆる「読み替え」は、しばしばそうした、ストーリーの効率とわかりやすさからこぼれ落ちる要素を拾って、別の価値観に光を当てることがありますよね。東条さんは、そういうことをすると不人気になるということで、お客さんの「ご意向」こそが「ご威光」だ(=お客様は神様です!)とみなして議論を組み立てられる傾向があるとお見受けしますが、「読み替え」と呼ばれる演出は、予備知識のない人たちにとっては、むしろそのほうがわかりやすい場合が少なくない。

東条さんのように、「お客様へのわかりやすさ」を錦の御旗に掲げる人たちが、惰性と前例踏襲にこだわるあまりに、むしろ堅苦しい「教養」を手つかずに温存してしまい、反対に、「わかりやすさ」とは違う価値に着目する努力のほうが、教養の堅苦しさを別の姿に組み替えていく場合がある、ということだと思います。

そして通常、研究者や教育者は、後者に賭けるわけですね。

現在の音楽ビジネスの体制では、「効率」や「わかりやすさ」の追求は企業・法人として急速に整備されて、集団で猛烈な勢いで進みます。一方、翻訳は手作業にならざるを得ず、個人への発注です。翻訳は、圧倒的な多勢に無勢状態で、それでもあれこれ考えながら進められるストレスフルな個人の仕事ですよね、たぶん。

でも、そこでなされている個人の手作業は、公演を作る工程のなかでは、舞台(出演者やスタッフ)・宣伝等々と同格の独自の尊厳をもつ一部門だと思う。翻訳する個人の名前は、公演にかかわる各種法人の名前と同格に扱われるべきだ、というのは、そういうことです。

まあしかし、悩みは悩みとして抱えたうえで、出来上がった字幕は、文学芸術研究の成果の学会発表ではなく、その会場のお客さんに読んでもらうものなわけだから、なんじゃこりゃ、と思われたら失敗だ、というのは厳然としてそうだろう。

結構大事な話だと思います。

学者・文学者と客席の評論家が、正々堂々と論争すればいいんじゃないでしょうか。

(関西ではそういうのが軒並み「死に体」だが、関東だったら、音楽の学会とか、作曲家の名前を冠した協会とか、色々なアソシエーションがそれなりに活発みたいだし、どこかで討論会を企画してもいいんじゃないか。)

僧侶は僧侶、学者は学者、千葉雅也は千葉雅也

真言密教と禅宗と浄土教は教義も寺・教団の在り方も少しずつ違うけれど、僧侶は僧侶だと思われている。モダンとポストモダンは違うといっても、その程度のことではないか。学者は学者だ。そして「勉強」という概念は、「僧侶の修行」みたいなものだから、特定の宗派の専有物として折伏することではないと思えなくもない。

優先されねばならない宗派・教団の事情・都合があって、「勉強」概念を自らの宗派・教団の理論の枠組で語る、その枠内に見事に収めることが目下の課題である、みたいなことがありうるかもしれないけれど、世間がそれを知りたがる動機は、そこではなかったりするのではないかしら。

千葉雅也『勉強の哲学』は、

勉強のキモさ=ポモのキモさ=千葉雅也のキモさ

という2つの等号で3つの次元を結んでいるが、これは、アイロニーが非意味の決断に至る決断主義ではないだろうか。(蓮實重彦が、柄谷行人『探究』を評したときに、柄谷の「同じである」という性急な断言に決断主義を見いだしたのが思い出される。)

読者は、「勉強はキモい」という主張を、ひょっとするとそうかもしれない、と興味深く拝聴するだろうが、仮にこの主張に同意したとしても、それは「ポモはキモいか否か」というポモ教団の問題への同意であるとはかぎらないし、「千葉雅也はキモいか否か」という固有名をめぐる判断に決着が着いたわけではない。「ポモはキモい」という主張は、勉強がなぜキモいか、を説明するために召喚された作業仮説に過ぎず、「千葉雅也はキモい」という著者の自己認識は、ことのついでに著者がその主張を本書にまぎれこませたエピソードに過ぎない。アイロニーとユーモアを組み合わせて決断主義を回避するとしたら、そういう地点に留まらざるを得ないだろう。ポモ問題と千葉問題(といっても後者は他人が答えを強要される「問題」ではないと思うが)は、この本の売れ行きとは別に、ポモ教団や千葉雅也個人で、この先も、読者に責任転嫁することなく引き受けていただくしかない。主体の複数化というポストモダンなスローガンは、そういう近代主義的な「問題」の切り分けのさらに先の話だろう。

(「キモい千葉」という表象に萌える読者がいるかもしれない一方で、増田聡先生が「千葉はキモくもないしバカでもないじゃねーか」というところで当確を出し渋る、というようなことになっているようだ。3法案の一括審議にこだわるほうが、妥協しない野党っぽくてかっこいいかもしれないが、「勉強はキモい」法案を無事可決させるためには、場合によっては、他の2つの法案を一時的に引っ込める、というような折衝があっていいのではなかろうか。舞台裏での薄暗い「忖度」をそういう表舞台の近代的な駆け引きに置換するのは、マイルド・ヤンキーの仁義に反することなのだろうか。)

「哲学者」は「すべての市民」に含まれるのか、含まれないのか?

しかし思うのですが、関西に来て結構名の通った学校の先生になったんやったら、一回くらいは観世会館や大槻能楽堂に行ってみるとか、京都コンサートホールやフェスティバルホールに足を運んでみるとか、するもんとちゃうんですかねえ。もう着任から随分時が経っているような気がするけれど……。

「私は生涯、故郷金沢に忠誠を誓う」という感じの大久保賢みたいに、行くことは行くけれど、あとで、「関西のコンサートは誘われれば誘われるほど足が遠のく」と後ろ足で関西に砂をかけて、それで己の自尊心を守る、というのでもいいからさ。

ちなみに、定期演奏会が毎回ほぼ完売という状態をずっと続けている京都市交響楽団の広上淳一は、「すべての京都市民に年に1回は京響を聴いてもらうのが目標だ」と常日頃から言ってますよ。

○○先生や××先生も、たぶん住民票を京都に移した京都市民ですよね。

学会組織としては、関西に住んでいても関東の支部に所属し続ける、みたいなことができるけど、おそらく住民票を関東に置いたままで、住民税をびた一文関西には落としていない、みたいなことにはなっていないですよね。

先生方も、気付いていないかもしれないけれど、地元のオーケストラからラブコールを送られてますよ(笑)。

(そういう「言論」を知ることがポストモダンな思想構築の何かを変えるのか、変えないのか、よーわからんけど、少なくとも、東浩紀の言う「観光」というキーワードは、この奇妙で荒唐無稽かもしれないラブコールをハンドリングするにあたって、凡百の古典注解的現代思想研究より一日の長がありそうに思うのだが、どうなのだろう。)

なお、「21世紀にもなって、たかだか20世紀の思想や音楽に過ぎないものを「現代思想」や「現代音楽」と呼ぶのはおかしいんじゃないか」という議論がそろそろ巻き起こる頃合いのように思いますが(というより、授業で20世紀の思想や文化をどう呼べばいいのか、毎年困りますが)、発想を反転させて、20世紀は同時代を「現代」と呼称した時代なのだから、20世紀の思想=「現代思想」、20世紀の音楽=「現代音楽」でいいんじゃないか、という気がしつつある。ars nova や nuove musiche が、本や楽譜のタイトルを越えて、特定の時代・地域・様式の呼称になったように。

大阪フィル@おとな会

~オトナ度ちょい増しTV~おとな会 | MBS

昨夜の録画をみたら、とてもいい番組だった。大阪フィルのどこに着目するか、というだけでなくスタジオのタレントさんたちのリアクションが興味深い。

大阪の情報バラエティ番組は、橋下維新を育てた張本人と決めつけられて、「言論が現実を作る」みたいなポストモダン風のアングルで散々悪口を言われたが(そして「大阪の政治はメディアが戦犯である」という論調の口火を切ったのは東大を出たジャーナリストさんだったわけだが)、むしろこの空気感が大阪のテレビだと思う。(MBSとよみうりの違いというのも多少はあるかもしれないけれど。)で、朝比奈さん(実は彼も東京育ちだ)や朝比奈さんが作った楽団のキャラは、つかず離れずに、その空気のなかにあって、でもそれは、そこに染まると堕落していく悪しき共同体(「勉強の哲学」が忌み嫌うような)というのとも違うと思う。

まあ言うたら、私もこの空気のなかで育てていただいた人間である、と、やっぱり思います。それは、大阪フィルがいいオーケストラかどうか、という客観的な評価の話ではなくて、大阪という街にオーケストラがあるというのはどういうことか。もしかしたら別の団体から教わる可能性があり得たかもしれないけれど、事実として、それを教えてくれた/教えてくれるのは大フィルだなあ、ということだと思う。いちいち口に出していわんでもええことかもしらんけど。

番組は、1週間ホームページで無料配信されている。このあたりも「オトナ」ですなあ。

(そのうえで、先の定期の英雄の生涯の演奏には、私は納得していないけれど。)

「余は如何にしてポモとなりし乎」

Kindle版をスクリーンリーダーで聞き終わったときに、そういう言葉が思い浮かんだのでメモしておく。内村鑑三の著作(1895年刊行というから阪神大震災と地下鉄サリンの95年の百年前か)は読んだことがないので、読まずにパロディではあるが。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

半生の自伝といっても、自伝と呼ぶにはエピソードと経験がちょっと薄い。そして経験が薄い人が書くハウツー本は、普通は信用されないわけだが(「信用」は本書後半の大きなテーマのひとつになる)、足りない信用は著者が哲学研究者&有名大学の教員であることを担保に積んで補填されている。最終章はほぼ大学教員としての指導案のサンプル集だ。いわば、大学から金銭の助成を受けるかわりに大学名と肩書きを質に入れたようなものだから、著者自身が懸命に宣伝するのは質草を取り戻すために働いているのだろう。

そう考えると、同時期に出た経験豊かな「社長東浩紀」の掛け売りなしの現金取引な自主製作とは、ペアといっても反対の極かもしれない。

雇われ人の人生において、自由とは心の問題であり、言葉の問題になる。ものは考えようだから、ものの考え方を豊かにしよう。そうやって、上流と下流への分断が指摘される21世紀に雇われ人の中間社会を再生もしくは再編しようという提案なのかなあと思う。戦後20世紀後半の日本の中間社会発展期の評論家たち(音楽でいえば吉田秀和とか)が、旧制高校的な教養主義をサラリーマン読み物(音楽でいえばレコード鑑賞指南)に再編したのを思い出す。

(増田聡先生みたいな立ち位置の人こそが、こういう後進を断固応援しなきゃいかんのじゃないかな。死に舞をイジメ抜いた失敗を繰り返してはいけない。九州の増田や茨城の千葉が支えて吉田が高いところへ上がる、みたいのが美しいチームプレイだろうと思う。

思えば、スターとして天寿を全うしたフーコー、デリダと、復習教師から始めて役割を終えたと判断したときにこの世から自ら身を引いたドゥルーズの関係もそういうものだったんじゃないか。日本で「未来学」が言われたのとほぼ同時期のフランスに登場したポストモダン思想は、現在から振り返れば、「体制」「右翼」はもちろん「反体制」「新左翼」からもきわどく身を翻したところが受けているように思われ、だからポスト冷戦で帝国化した北米でも安心安全に使えた。ポストモダン思想は、ヨーロッパにも、日本と同じく北米の庇護の下での高度成長期があった証拠みたいなものかもしれない。だとしたら、21世紀の中間社会再生論として使うのが具合がいいんじゃなかろうか。レヴィ=ストロースのようなレジスタンスとレヴィナスのような宗教家が足を引っ張り合っていた戦時中の話をほじくり返すのは、もういいよ。浅田彰が、色々思うところはあるだろうけれども千葉雅也に合格を出したのは、『構造と力』を書いたころの鬱屈を思い出して、出口はそこだ、ようやくそこに気付いたね、と思ったんだろう。)

学芸員はどのように勉強するか

為政者に反抗することが正義である、という立場を採用すると学芸員を人文家がこぞって擁護することになるのだろうが、学芸員には、キモさを発症することなく勉強した人たちが少なくない気がする。

そして、「学芸員はガンだ」という話法は、むしろ、「文科省はガンだ」と公言してはばからない大学人の物言いとよく似ている。(日本会議の運動が新左翼を「勉強」して成功したようなものである。)

敵の敵は味方だ、みたいなオセロゲームをやっていると、議論はどんどん錯綜する。白黒入り乱れての内ゲバである。

どちらにしても、博物館法に沿って業務を進めている人たちには、あまり関係のない話なのではないか。

勉強の哲学 来たるべきバカのために (文春e-book)

勉強の哲学 来たるべきバカのために (文春e-book)

(iPhoneのスクリーンリーダーで「聴く」のに丁度良い文体で書かれていますね。)

参考:

……というエントリーを何かのリンクでいきなり訪れた人には、何がなにやら意味がわからないだろうから、3つ前に遡ってリンクを張っておく。

日本を「法人化」したい人々 - 仕事の日記
キモいバカの話 知と言語と共同体 - 仕事の日記
ビジネスの哲学 来たるべきビジネス・バカのために - 仕事の日記

ビジネスの哲学 来たるべきビジネス・バカのために

もしかすると、共同体から身を引きはがしてビジネスを勉強すると、2つ前のエントリーで書いたようにキモいカタカナ言葉と機械の自動返信のような受け答えをするようになったりするのだろうか。

だとしたら、一刻も早くそこを突き抜けた「来たるべきビジネス・バカ」に育って欲しいものである。というより、企業体(正確には公的機関や学校などのあらゆる組織を含む)の皆様におかれては、新入社員が十分なバカに育ってから外との対応に使って欲しいものである。敬語とか、他者へのアイロニカルな演技ではない敬意とか、そういう若者たちにとっては「キモい」のかもしれない事柄をちゃんと勉強しないと、来たるべきバカにはなれないよね。

(ビジネス啓蒙書に触発された千葉雅也の哲学=21世紀版の「オラ東京さ行くだ」を、アイロニカルではなくユーモラスにビジネスの現場に還流させるとしたら、たぶんそういうことになるはずだ。)

キモいバカの話 知と言語と共同体

疑問1: 周囲の共同体とは異なる知性の在り方を模索するのが「勉強」なのだとしたら、なるほどそれはキモさを発症しそうだが、周囲の共同体に備わっている知性を習得することを「勉強」と呼ばない理由はどこにあるのだろう。

疑問2: 知性が常に特定の言語と結びついている、と本当に言えるのだろうか。

疑問3: キモさを発症させたほうが、勉強している者とそうでない者を見分けるのに便利ではあるけれど、そこは常に色分けされていなければならないのだろうか。