「ソ連はキモい」

都留重人の留学記には、1940年前後の留学中に、ハーヴァードの学生がソ連のことを「It's so weird.」といった、という話が出てくるらしい。山崎正和が1980年代の回想のなかで披露している話だが(オーラルヒストリー、220頁)、「ソ連はキモい」というのは、冷戦時代の西側の気分をわかりやすく言い表しているように思う。

東浩紀が「他者」の語を避けて「観光」概念を立てたり、稲葉振一郎が「政治の理論」を慎重に書き進めるのは「ソ連はキモい」という言説がある(あった)ことを前提にしているだろうと思う。

ゼロ年代がなんとなく薄い感じがするのは、「ソ連はキモい」という言説を見て見ぬふりしてスルーしたところに、ヴァーチャルな未來を開くことができるかのように振る舞ったせいではないか。SEALDs への連帯で政治を動かそう、の2015年は、「キモい」世界をスルーして「つながり」でアソシエーションをアップデートしているつもりが、実は一番古くて「キモい」筋が動いていた。

「キモい勉強」で共同体を出よう、という千葉雅也のメッセージは、その文脈を踏まえて読んでいいのでしょうか。浅田彰の「逃走」が新左翼の「闘争」のアップデートだったように。

山崎正和

最初の章の満州時代でいきなり引き込まれて、まちきれないので、途中をとばして、阪大美学科ができた頃1970年代後半の章を読む。

『演技する精神』は、阪大美学の演劇学普通講義をやりながらできた本だったと知る。(教科書に指定されていて、年度末にこの本を読んで論評するのがレポート課題だった。)当時、音楽学と演劇学は制度上「音楽演劇学」とひとまとめになっていて、演劇学普通講義は音楽学専攻生も必修で、まだ専攻に振り分けられる前の2年生でも受講できたのだが、私は3年生で受講登録しておきながらサークル活動に夢中で途中で放棄して、4年生のときにレポートだけ出して単位をもらった。

(私は、山崎先生のリズム論はちょっとおかしい、というようなレポートを書いて、成績はあまりよくなかったと記憶する。語りおろしのライフヒストリーによると、どうやらリズム論は、「演技する精神」=山崎演劇学の大事なポイントであるらしい。申し訳ないことをしました。いつか読み返します。)

当時はニューアカ・ブームの80年代で、「モラトリアム」でくそ生意気な文系学生に、山崎先生は、いわば、世間に受ける「客寄せ」としてここにいるんだろう、と思われていた気がします。実際、大学院に進んで、文学部大学院自治会(既に形骸化して前例踏襲で行事を回すだけになっていた)の幹事役が回ってきたときに、他大学の先生と交渉するのは面倒だし、山崎先生に講演をお願いして、当日生協の食堂などでチラシを撒いたら、文学部の院生ではなく他学部を含む一般学生で会場が埋まってしまい、自治会総会で文句を言われた。「灯台もと暗し」で、文学部院生はいまこそ山崎正和に耳を傾けるべきだ、みたいな発想の講演会として、お手軽なだけでなく、企画意図は悪くない、何なら、これこそあり合わせでやりくりするブリコラージュ、知の最前線ではないか、と強弁できそうに思ったのですが……。80年代の文学部大学院生は、まだ、観客動員数だけでイベントの成否を判断する、というポピュリズムに染まってはいなかったのです。

(ふと気になって調べたら、このとき一緒に自治会の幹事をやったフランス哲学の杉山直樹(一緒に山崎先生の研究室にお願いに行って、宣伝チラシは彼の手持ちのワープロ専用機で作ってコピーした)は、学習院の哲学の教授らしい。ベルグソンが専門だったのか。)

既に大学志望校が決まっていた高校3生の頃(1982年後半か?)、山崎正和がテレビで何か話していたので、死んだ父に、「阪大にはこの先生がいるんだ」と言ったら、しばらく黙って画面をながめていたが、あまり良い印象を持たなかったようだ。父がなんと言ったか、具体的には覚えていない。「いかにも評論家風に調子の良いことを言っているが、感心しない」ということだったような気がする。

父は芝居がかったことをしないし好まない人だから、ああそうですか、と当時の私は少々ウンザリしたのではなかったかと思う。

山崎正和は昭和9年生まれ。私の父よりひとつ下で、京都に生まれたが、祖父が熊本医大の二代目の学長で、短期間、親戚を頼って熊本の小学校(戦争中だから国民学校か?)に通ったことがあるらしい。熊本は性に合わなかったらしく、色々面白おかしく話しているが、そういえば、父は熊大教育学部卒で、戦後だが熊本に4年下宿したと聞いている。同年代で、この人が何をやろうとしているのか、おおよそわかるけれども好かん、ということだったのかもしれない。

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

京大美学の同窓生を集めた阪大美学各講座の初代教授たちのなかで山崎正和は一番若くて、他の先生方は私が大学院修士課程にいた3年の間に、恩師谷村晃を含めて次々退官されたので、接する機会はあまりなかったけれど、華やいだ雰囲気を醸しだす人たちだったのを思い出す。

私は修士課程を終えてすぐに1年間ドイツに留学させてもらったので、留学前と留学後で、阪大美学科の雰囲気ががらりと変わった、という風に認識している。岡田暁生や伊東信宏は美学科初代教授陣が現役だった時代の学生で、増田聡や大久保賢は、この先生方が退官されてから阪大に来た。(山崎正和も東亜大学に誘われて停年を待たずに1995年に退官した。)

山崎先生の父方は土佐の鄕士、代々藩医だったそうだから、医者学者の家の人だったんですね。

リバーダンス以前

ビル・ウィーランが1994年のユーロ・ヴィジョンの River Dance でブレイクする13年前、1981年のユーロ・ヴィジョンで Time Dance というパフォーマンスの音楽を担当していたことを教えていただく。

イメージとしてのケルト/アイルランドをバレエ風のステップで展開するパフォーマンスを1994年の例のダンスと比較すると、さらに色々なことを考えるきっかけになりそうだ。(おおまかな印象で言うと、1981年の Time Dance は、「演歌/日本の心神話」の取り扱いに悶々としながらデビューを模索する輪島祐介、1994年の River Dance は、踊る昭和歌謡のドドンパを発見して晴れやかな現在の輪島先生に相当する気がします。)

Eurovision 1981 - Interval - TimeDance - YouTube

ケルトの深度 - 仕事の日記
リバーダンスのヘクサメーター - 仕事の日記

愛情の有効範囲

広瀬大介さんのお仕事は、ドイツ語とドイツ文学についてであれ、オペラについてであれ、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスについてであれ、対象への愛情を率直に表明する形になっているところが、美点でもあり、ときとして弱点に転じるのかなあ、と、傍目に思う。「なぜそこがそうなのか?」と問われたときに、歴史が大好きだから、そういう芝居が好きだから、という一点でどこまで押し通ることができるものなのか。行けるところまで行ってみよう、で、随分遠くまで来ることができてしまったのが今現在なのかなあ、という風に見える。

(「愛情の有効範囲」というアイデアは、実は、広瀬さんを「批評」しようと思って考えついたのではなくて、昨夜、大植英次が大阪フィルで「カルミナ・ブラーナ」をやって、やっぱりこの人はツボにはまると希有な能力を発揮するなあと感心しながら、でも生きづらいだろうなあ、とあれこれ考えてたどりついたことだったりしますが……。

舞台上のパフォーマーが「対象に愛を注ぐ人」として生きるのは、バーンスタインのような巨大な先例があって、さらに遡るとフランツ・リストもそうだったのかもしれず、ヨーロッパの近代音楽の一種の系譜・伝統だと思う。でも、研究や学問は、これもまたひとつのパフォーマンス(行為)である、という立場がありうるけれど、そこに尽きるとは言えないところがありそうで、困難に遭遇したときにどうするか、というのは、それこそ「愛の問題」ですから、第三者がどうこう言うことではないんでしょうねえ。)

[以上、「誉め批評の是非」という当世風かもしれない問題設定を、内田樹(彼の場合は、レヴィナスを参照して絶対的他者への思慕を語りつつ、案外、根にあるのは自己愛に見える)の圏内に絡め取られないようにズラして考えてみた。]

ドラクエの怪

佐村河内/新垣が騒ぎになったときに、吉松隆が「シリアスな芸術鑑賞とは別に、オーケストラ・サウンドの快楽に浸りたい欲望が広く薄く存在するのだ」と言って擁護していたが、芸術鑑賞ではないオーケストラ・コンサートの可能性に関心がある人は、ドラクエ・コンサートを調べるといいんじゃないかと思う。今ではものすごく大きな市場に育っていて、東条碩夫を焼け太らせた「地域創生」型オーケストラ運動の後期高齢者的徒労感とはまったく別の景色が、そこには白々と広がっているようです。

東条碩夫が岸田繁の交響曲に「おととい来やがれ」的な罵声を浴びせるのは兆候的で、自分が(自分も)ディレッタントなものだから、痛いところを突いてくる成り上がり現象に過剰反応しているわけだが、彼はドラクエには(行くことがあるかどうかはわからないが)たぶん好意的だろう。各地のオーケストラがドラクエに手を染めるのは、そのあたりの機微を敏感に察知していると思う。

少し前までだったら、武満徹や伊福部昭もそういう構図で仕事をしていたのだから映画などの劇伴とシリアスな芸術鑑賞の関係を考えていればよかっただろうが、現在のオーケストラ文化の「地図」を描こうとしたらドラクエは欠かせないかもしれない。

すぎやまこういち現象は、ゲーム音楽論でうまく説明できるのだろうか。歌謡曲から来た人だし、ここでは、吹奏楽(をオーケストラ編曲するとか)とも少し違うことが起きていると思う。

計画立案

いつまでも気が若い中堅大学教員さんたちの言論は同じ所をグルグル回ってだんだん退屈になってきたし、ポケモンGOは♂♀ペアでだいたい揃ってやることがなくなってきたし、今年は演奏会に多めに行ければと思う。

ここ数年で、日本のプロのオーケストラの定期演奏会の配布物は、どこももはやペラペラの紙を束ねたものではなく、分厚く立派に製本されるようになった。これは、ある意味で歴史上の特異点かもしれないと思うので、Konzertführer/Program Note とは何なのか? 歴史と国際比較を5年か10年かけてやれたら面白いかもしれないなあと思う。たぶん19世紀にはチラシ以外の配布物を毎回作ったりはしていなかったはずで、Konzertführer は独立した書物として別に存在した。今起きていることは、オーケストラ文化が西欧から北米や東アジアに流れ着いて100年が過ぎた末の(もはやその先がなさそうな)終着点ではないかという予感がある。ヨーロッパの石造りの建物を音で潤すものであったと思われるオーケストラが、東アジアのはずれに来ると、関係者が大変な手間暇をかけて紙をやりとりする営みに変貌したわけだ。

(「東条の登場」(奇しくも駄洒落だ)は、毎月こんな分厚い印刷物の準備をしなければならない羽目に陥っているオーケストラ事務局の現状と無関係ではないと思う。東京基準の画一化をグローバル化と誤認する、という現象が、てざわりのいい上質の冊子、という、まことに東アジア的な具体的形象に結実している印象がある。)

その一方で、関西の洋楽史は、関西における音楽批評の歴史と系譜をまとめておいたほうがいい頃合いかもしれない、というドメスティックな思いもあります。

計画なので、どれがものになるか、やってみなければわかりませんが。

里帰り公演

先月、中村恵理が東京オペラシティの「B→C」に出て、東京と西宮で演奏会をやっていたが、彼女は今回の帰国でスザンナを歌ったらしいですね(新国立劇場)。

「B→C」のプログラムには先の出演予定は書かれていなかったので、私は何も知らないままに、

ルトスワフスキーのかわいらしい「歌の花と歌のお話」で、ほほえみながらも決して媚びないのがいい。喜劇的な場面で毅然としている彼女の姿をオペラ本編でも見たい。

と日経の批評に書いたが、オペラ(しかも喜劇オペラ)への期待を高める締め方で正解だったようだ。一寸先は闇と言いますが、ときには結果オーライな幸運もある。シリアスなプログラムに1曲だけコミカルな作品が入っていて、それで強く印象に残ったのだが、彼女自身が既に「今はオペラ・ブッファ」な気分だったのでしょうか。

提携公演

由緒ある大阪国際フェスティバルの公演だと思ってそれなりの恰好をして行ったらホールには平服の学生さんらしき人たちがたくさんいて、会場で流れるアナウンスには「大阪国際フェスティバル提携公演」と「提携」の語が入って、しかも影アナさんは、私の聞き違いでなければ、「東京都音楽団」と言っていた気がする。フェスティバルとしての独自のプログラムのようなものはなく、『月刊都響』2017年4月号を入り口で受け取った。内容は、先日行われた都響4月定期Cプログラムと同一であるようだ。2013年や2015年の大阪公演もこうだったのだろうか?

地下鉄肥後橋駅からリニューアルされた地下道で「フェスティバル・シティ」に行けるようになっていて、道を隔てた向かいの新しいビルは、美術館なんかも入って、休日で華やいでいましたね。

楽曲解説をどう書くか

東条さんのように、「お客様へのわかりやすさ」を錦の御旗に掲げる人たちが、惰性と前例踏襲にこだわるあまりに、むしろ堅苦しい「教養」を手つかずに温存してしまい、反対に、「わかりやすさ」とは違う価値に着目する努力のほうが、教養の堅苦しさを別の姿に組み替えていく場合がある、ということだと思います。

古語・雅語を字幕でどう翻訳するか - 仕事の日記

と書いた先の文章の直接の話題は字幕の翻訳だが、コンサートの曲目解説にも似た問題があると私は思っている。

昨日の西宮のオーケストラ演奏会の曲目解説は東条執筆だったが、エルガーの2つの大作が並ぶコンサートの解説としては、「わかりやすさ」を目指して「第2楽章は夢のようにきれいです」と書くだけでは、かえってお客さんを音の大海に放置する不親切なガイドになってしまうのではないかと思うのです。

(エルガーやラフマニノフのように保守的と形容されがちな20世紀前半の音楽家は、書いている音が、いかにも東条が気軽に語れそうに「わかりやすい」一方で、彼らの置かれている立場や彼らが頭のなかで考えていたであろうことが面倒くさい人たちだと思う。もしかすると、当人はごく自然にそういう風に振る舞って、そういうことを考えたのかもしれないけれど、それから100年経った現代人に事情を説明には手間がかかる。私は、一昔前まで国民楽派と呼ばれていたドヴォルザークやチャイコフスキー、グリーグやシベリウスのあたりから、そういう種類の、音を聴くのは簡単だけれどもその背景を納得するのが難しく面倒臭い音楽/音楽家の系譜がスタートしていると思う。

もし、現代のコンサートに「解説」を添える意味があるとしたら、そういう風に、音だけ聴いたらスルーできないことはないけれども、そこからこぼれおちてしまうであろう事情を伝えて、彼らとその音楽を現代に架橋することを目指す以外に道はないと考えています。そうじゃないと、現代のコンサートは歴史から浮き上がった「バカ」が音に酔い痴れるだけの非生産的な遊び場になる。そういう遊びを好む老人たちからお金をむしりとるだけむしろとって、それでよしとするのは、商行為としては不正ではないだろうが、人間としてどうかと思う。もちろん西宮の演奏会に通っていらっしゃるお客様は「バカ」ではありません。「バカ」ではないお客様が、まるで「バカ」であるかのような枠組に収められてしまっていいのか、というのが、ここで私の言いたいことです。)

音盤やコンサートの訳詞や字幕が法人から個人への外注であるように、曲目解説も、通常、主催する法人が個人に外注する。「効率」と「わかりやすさ」に還元できない不採算部門を全部、外部の個人におっかぶせる体制だと言えなくもないでしょう。

字幕・訳詞の問題は、現在の日本のクラシック音楽の「法人化」の歪みのかなり重要なポイントだと私は思います。

(他方で先日のMBSが大阪フィルを扱った番組(まだ番組ホームページの視聴可能期間中だ)は、たしかにオーケストラが「法人」として振る舞う昨今の動向のなかにあるし、たぶん、「法人」としてのオーケストラの宣伝戦略の一環と位置づけた事業報告が可能な案件なのだろうけれど、番組としては、舞台に出る指揮者と奏者はもちろん、スタッフの福山さんも清水さんも家さんも服部さんも、すべての登場人物を専門職の個人として扱うところが「オトナ」の態度だったわけですよね。)