出力を発信元に還流させない

最近のイベント広報では、エコーチェンバーなSNSを利用して「お客様の声」をリツイートやいいねでフォローするのが流行っているが、私はあれがどうにも好きになれない。

オーディオ・音響設計で言えば、スピーカーからの出力や会場内の反響をふたたびマイクで拾って、しかるべく処理して再出力する感じがする。そういう手法を音響技術のほうで何と呼ぶのか、ちょっと検索しただけではわからなかったのだが、人工的すぎて、クラシック音楽のような生音のライブには似つかわしくない/潔くない印象を抱いてしまう。私の感性と発想が古すぎるのかもしれないが。

そういう風に発信元にエコーを還流させる回路とは別に、バーンスタインのミサは、本格的に上演すると、あまりに情報量が多すぎて、1回や2回聴いただけでは何がどうなっているのか、いまだに印象が混沌としている。メモと記憶を頼りに、少しずつ解きほぐしている今日この頃である。

で、ひとつだけ、あまりにも多すぎるポイントに埋もれてしまいそうなので書いておくと、

「The mass is ended, go in peace.」というスコア末尾の記載を今回の上演では指揮の井上道義が自らの発話して、これがこの公演で最後に観客が耳にする「声/音」になったわけだが、初日にこれを聴いた時に、「ああ、グラントリノだなあ」と思った。

(指揮者が公演の「最後の一言」をピンマイクで発話する、というのを、以前、別のプロダクションでも目撃した記憶があるのだが、あれは何だったか思い出せない。それも井上道義だったか、佐渡裕か大植英次だったか、あるいはもっと別の誰かだったか……。指揮者はずっと黙って公演をコントロールしているから、最後に一言、というのは、声のトーンとかマイクの調整とか、やってみないとどういうテンションになるか予想できなくて、かなり難しいと思う。)

いま何が巨大化しているのか?

少し前にこういうことを考えて、いまいちだと思って引っ込めたが、

テレビを灯けると強くて巨大な生き物が映し出されて、それに立ち向かうのがヒーローだという世界観で制作された物語が展開されていたが、あれをみた人は、最も大きく最も強い存在に立ち向うことを善しとする価値観を植え付けられるのが普通だったのだろうか。

ギリシャ神話の英雄たちも、ルネサンスの世俗的な勇者たちも、アルプス以北の神話から呼び出されたロマンチックな人物たちも、たいてい、そういうのではないような気がするのだが。

ひょっとすると、この島の映画で西部劇がチャンバラと掛け合わされたときに何かの化学変化が起きたのだろうか。

男の子ワールドの機微はよくわからないのだけれど、こういうのを正のヒロイズムと呼ぶとして、その反転で負けるが勝ちみたいな負のヒロイズムがもう一方にあって、みたいなことになっている、という理解でいいのでしょうか。

それとも、こういうのは、既に正負が衝突して平和裡に対消滅しているのでしょうか。

だったら、もういいんですけど。

あるいは、最近は、巨大なものと向き合うのではなく、(主にエコーチェンバーのような場所で)自分自身を巨大化するのが流行っているのかもしれませんね。視界に入るあたり一面が自分自身であれば、何に向き合うとしても(定義上、自分自身しか見えていないのだから)恐くない、と。

そういう自我にはなりたくないものです。

分断・友敵関係の正体

研究については「博士号以前」の透明人間であることになっているらしいので、私は音楽の話をする。

研究会→音楽会にケチをつける人間と、翻訳→海外音楽家の招聘にケチをつける人間は、等しく下らない。少なくとも(音楽会運営も呼び屋も)自分でやった経験がある人間は、そんなことしない。あるだけありがたいと思うから。

それはそうなのだが、実際に音楽会に行ってみると、「あれは何だったんだろう」「あの音楽家はあれでいいのだろうか」と考え込まざるを得なくなることがある。そして「あそこは、主催者が言うのとは違ってこういうことだったのではなかろうか/同じことを繰り返すより、次があるなら、ここはこういう風にしたほうがいいのではなかろうか」と思えてくる。いわゆるPDCAサイクルはそうやって回っていく。

とりあえず回せ/とりあえず事を起こせ、が、脱デフレ・スパイラルのカンフル剤・緊急指令として有効だったとして、それを継続して回す仕掛けをどう作るのか。

「とりあえず回せ/とりあえず事を起こせ」の自転車操業はなかなか疲れるものだし、そこで使い捨てられた経験がある者は、もう二度とかかわるものか、と、離れていくので、経営者は歩留まり率が損益分岐点を下回らない匙加減を考えることになる。

民間で一生やっていくとしたら、「火を付けた」その先が正念場だろう。

バーンスタインがニューヨーク・フィルやスカラ座やブロードウェイで「事を起こした」あとでミサを書いて、井上道義が京都で東京で大阪で、様々に物議を醸したその先でミサ再演に成功したのは、「理想の経営者」とは似ても似つかない仕方で、何かを私たちに告げている気がします。

(朝比奈隆と大栗裕は誕生日が同じでずっと一緒に関西で仕事をしていたが、朝比奈隆はカラヤンと同い年で、大栗裕はバーンスタインと同年生まれだ。)

Externality

どう考えても、文科省職員は天下りで大学に来るのではなく、再教育の単位履修のために授業料を払って大学に来るべき。

これからは、そういう風に社会人が大学に学びに来るのを「天下り」と呼ぶことにしてはどうか。

経済学に外部性という言葉があるが、大学とその授業は、情報のエコーチェンバーの「外 external」に設定したほうがいいよね。エコーチェンバーに対する外部性。

踊るダンスと見るダンス:宮廷外交、ナショナリズム/異国趣味、モダニズム

19世紀のナショナリズムと20世紀の民族主義の違いが昔からずっとピンと来なかったのだけれど、ダンスのことを整理してようやく腑に落ちた。

踊るダンスと見るダンスの区別が鍵になっていて、19世紀のナショナルな舞踊=民俗舞踊(ドイツのワルツ、ボヘミアのポルカ、ポーランドのマズルカ)は各国の都市の舞踏会で踊られて、舞踏会での流行に追随して劇場のオペラやバレエに取り入れられた「踊るダンス」だけれど、インドの踊り/アラビアの踊り/中国の踊りといった(想像上の)異国の踊り=舞踊の異国趣味は、劇場の客席で「見る」だけで踊られなかった。

舞踊では、自らそれを踊るか踊らないか、という舞踊との身体的・知覚的な「距離」が、対話・共感し得る「国」と、対象として観察される「異文化」を分けていたのだと思う。上品な市民にとっては、他の「国」との舞踊の交換がノブレス・オブリージュだったのだろうし、その一方で、見るだけで踊らない(踊れない)異文化は、身体的・知覚的に「遠い」存在だったんだと思う。

(19世紀の市民が他の国の民俗舞踊を踊るのは、おそらく、宮廷舞踊でサラバンドやアルマンドやポロネーズやジグが踊られた習慣を引き継いでいるのでしょう。宮廷人が「諸国の踊り」を踊ることで他国への敬意=社交・外交を成立させたように、19世紀の市民は、他の国の民俗舞踊を踊ったのだと思う。

17、18世紀の「諸国の踊り」が振付を標準化した踊りやすいものに様式化されていた(「諸国の踊り」にはパ・ド・ガヴォットやパ・ド・ブレのような個々の踊りに固有の振付=「個性」が設定されていない)のに対して、19世紀の民俗舞踊はそれぞれに固有の振付があって、かつての宮廷の「諸国の踊り」とは舞踊としての在り方が変わってはいるけれど(=17、18世紀には乖離していた「国」概念と「個性」概念が19世紀に重なり合って、「諸国の踊り」=キャラクター・ダンスになってはいるけれど)。)

で、20世紀は、北米のジャズや南米のサンバが世界中のダンスホールで踊られるわけですね。異民族・異文化のダンスを踊る、というのは、20世紀ならではの人類学的経験なのかもしれない。異民族・異文化が、踊れてしまうものになって、身体的・知覚的な「距離」がいったん取り払われた。

20世紀に文化の人類学がさかんになるのは、踊るか踊らないか、という直感的な(=身体的・知覚的な)区別で文化との距離を測る時代ではなくなって、「その気になれば一緒に踊れてしまう他者」とつきあうことになったせいかもしれない。

(そしてそういえば、スキャンダルを巻き起こして評判になったリヒャルト・シュトラウスのサロメとエレクトラでは、プリマドンナがユダヤの王女、ギリシャの王女として「自ら踊り」ますね。バレエの国ロシアの「エフゲニー・オネーギン」のヒロイン、タチアナは、村人が踊る傍らで本ばかり読んでオネーギンへの恋心を拗らせていたが。)

中高年大学教員が「負けるが勝ち」話法に傾く理由

「私以外のすべての人は賢い」という命題は嘘つきのパラドクスと違って自己言及を含まないけれど、この命題が真であることを証明するのは、「私は世界で一番賢い」を証明というか実現するより難しい。

他人を誉めておけば指弾されることはないだろう、という戦略は、だから、問題の先送りなのだと思う。証明されねばならない検討課題を事実上無限に近い状態まで増殖させてしまうのだから、この命題はブラックホールだ。

ポパーの主張は「われわれの世界は真理を実証できる世界ではなく、誤りを反駁できる世界である。しかし世界は存在するし、真理も存在する。ただ世界と真理についての確実さは存在しえない」コンラート・ローレンツとの対談の序文。(小谷野敦)

そして既に一定の地位を得た者には、怠けるインセンティヴがある。

デフレは貨幣価値を高める=持てる者をさらに富ませる/貧乏人をますます貧乏にする、なので、持てる者が脱経済成長だのもはや成長はできないだの清貧だのと説くのは利己的トークとして合理的ではある。仕事にあぶれた若いのとか貧乏人は死ねと言っているに等しいが、利己的には合理的ではある。(栗原裕一郎)

ただし、たぶん、怠け者が怠けたままでも、その傍らに勤勉の正のサイクルを構築すれば、全体として経済が上向くことがありうる気がする。(というか、実際いまは徐々にそうなっているよね。)

そしてたまたまエコーチェンバーで発見された「優雅な怠け者」をつるしあげてひとつずつ潰していっても、そのような勤勉のサイクルは回らない。時間の無駄(すなわち「優雅な怠け者」の思うツボ)である。

「優雅な怠け者」は放置して、ワアワアうるさかったら、「うるさい」と言えばいいだけのことである。

(たぶん、反証可能性、という難しい言葉で言われているのは、うるさい奴には面と向かってうるさいといいなさい、絡め手から締め付けるようなことをしても、システムが複雑になって事態が膠着するから、エコーチェンバーにエコーを足す徒労はほどほどにしときなはれ、ということだと思います。

「優雅な怠け者」には、うるさい、と指摘されたときの人間らしい適切な応対・礼儀作法だけ覚えてもらえばそれでよろしい。成り上がった「優雅な怠け者」が困るのは、往年の貴族と違って、マナーが悪いことであり、問題はほぼそれに尽きる。)

近所の大学とグローバルな大学

「世界で闘える博士を育てないでどうするか」と、東大生が耳元で叫ぶのを正直うっとうしいなあ、と思ってしまうのは、私が、路線バスで通える家から一番近い大学に行ったに過ぎないからかもしれない。

(それじゃあ、いま自分が大学生だったら立命館茨木キャンパスに通ったかというと、それはどうだかわからないけれど。)

北摂の住人が阪大へ行くのは、阪神間の子弟が関学や神戸女学院へ行くのとそれほど違わないし、京都の子は京大に行って、東京の子は東大や慶応に行くんだろう、くらいに思っていたのだが、随分、東大的価値観が幅を効かせる世の中になったんだなあ、と思う。

なんとなく、軍国主義の類似品としての東大主義という感じがある。

「お洒落でハイソでかっちょいい暮らし」をしている人が街のどこかにいるのは確かだが、かつては誰もがそれを目指していた、というのは違う気がするけどなあ。

マスコミがかつてそういうのを煽った時代があって、マスコミ志向の人はそういうのを意識せざるを得なかったのかもしれないけれど、今ではマスコミもミニコミもそういうことを言わなくなったなあ、ということなのではなかろうか。

(他方で街中の老舗のデパートに行けば、いまでも普通に「お洒落でハイソでかっちょいい暮らし」をご提案してもらえると思いますよ。たぶん。)

私が住んでいた高槻の団地では、小学校の高学年になると男子は放課後、球技ばっかりやっていて、女子は家でお人形遊びか習い事だった。そして私は目が悪いので男子の球技にはまったくついていけず(体格的には運動音痴というオタク特性に該当するわけではなかったのではないかと今振り返ると思いますが)、いつも女子に混じっており、その流れでピアノをはじめたにすぎません。

昭和後期の都会の団地は社会階層が極端に同質化して、ほぼすべての世帯が30代サラリーマンの核家族であり、ブルデューがフランスの文脈で指摘したような隠微な階級のディスタンクシオン(カルチュラル・スタディーズな人たちにとって好都合な)よりも、性差が前景化していたように思います。

80年代の華やかさは、そういう環境で育ったわたくしには、なるほど世間にシュミラークルな仮死の祭礼(←今は誰も知らない言葉か?)というように「お洒落でハイソでかっちょいい」フランス思想のノリで語られてしまいそうなイメージが氾濫してはいたけれど、女子の活躍の場が少しずつ広がって街の感じが変わっていったことが大事かなとも思います。かつて太陽族だったおじさまたちは、そういう女子を割と歓迎しましたよね。

90年代の不景気で、世間は随分、むさくるしくなったけれど、それでも死に絶えなかったのが「女子力」、ということで今日に至るのではなかろうか?

そして私が育った環境では、女子の多い場を選べば、別にキモくなることなく普通に「勉強」してよかったように思う。

モテを含めて、ホモソーシャルな何かを背負った男子たちと大量に遭遇したのは、阪大進学以後のことだ。あれは本当に馴染めない男だらけの環境だった、笑。

就職とサークルでのお嫁さん探しを目的とする男の狩人たちは4年(理系は6年)でさっさと大学からいなくなったので、これでやっと「勉強」ができるかな、と思ったら、今度は、文部省から「博士号を取れ」という指令が降りてきて、先生たちがそういう指導をするようになったので、結局、大学院に進んでもずっとザワザワして落ち着かない環境だったですね。

夫婦別姓論と博士号至上主義

小谷野敦が、夫婦別姓論は、一見リベラルに個人の尊厳を主張しているようだが、実態は家名存続を願う保守主義だろうと繰り返し発言しているが、

大学・高等教育のヒューマニティーズ、リベラル・アーツを博士号至上主義で再編せよ、という主張も、同様に、博士号の下での平等を主張する理想主義のように見えて、実態は、形を変えた東大至上主義だろうと思う。本当は東大生が東大生だけとつきあう場を作りたいのだけれど、博士号をもっていれば東大生ではなくても話を聞いてあげましょう、というシモジモの凡人への「有り難い譲歩」(笑)だ。

実際のところ、安定して人文学の博士を育成できる環境があって、それにふさわしい人材が集まる場所は、せいぜい旧帝大と有力私大くらいであろうと見積もられていますよね。

戸籍制度を止めて住民登録一本で国民・居住者を管理する形に切り替えないと、家名存続の欲望(それは外国籍差別とも裏腹だろう)を根治することはできないだろうし、

大学と呼ぶには問題がありそうな機関を「大学」に含めている状態をどうにかしないと、エリート教育の明快な制度設計は難しいんじゃないかと思う。

大学を減らして、学位授与機能をもたない専門学校的な何かを充実させるのが、着地点じゃないかと思うんですけどね。

そしてそのように誇りと尊厳を回復した人文学博士の先生方に、落ち着いた環境で、大学以外でのヒューマニティーズ/リベラル・アーツ教育の有効性を理論的(啓蒙的)・実践的(アウトリーチ的)に考えていただくのが、いいんじゃないか。

大学から大学ならざる機関へ人材を派遣する、という形態であれば、博士号取得者の働き口をどうするか、という話も、往年の「学閥による系列化」みたいな隠微な形ではない人員配置の問題になりますよね。創発的な研究は難しくても、アウトリーチ的な復習教師としては有能な人というのはいるわけだから。

キャリア・デザインは、一本の長い道 serie ではなく、行と列の賢いやりくり matrix であったほうがいいに決まっているのだから、大学・高等教育が率先してそうすればいいのに、何をぐずぐずしているんだろう。

私は、後ろ向きであれ前向きであれ、右であれ左であれ、上から目線であれ下からの突き上げであれ、「口先だけで実態が伴わないええかっこしい」が大嫌いだが、基本的には、もっとやれ、と思っている。たぶん、その線でおおむね主張は一貫しているはずだと思いますが、どうでしょう。

[追記]

男で東大出身の研究者が東大教員になるのが狭き門になりつつある。

なるほど、そうすると、博士号至上主義は、戻るべき故郷を失った東大博士たちのシオニズムの色調を帯びている可能性があるのかもしれませんね。

阪大美学は、木村重信が京大美学に戻れなくなった芸術学の同窓生を集めて作った。そのとき助教授をすべて京大以外からスカウトしてシオニズムを回避したのは、山崎正和がそのことを自慢しているけれど、結構偉かったかもしれませんね。(音楽学は、山口修が渡辺裕、根岸一美と2人続けて東大出身者を招いてどうなることかと思ったが、根岸先生が伊東信宏を阪大に引き上げて事なきを得た。大学の人事は、学問政局のメイン・フィールドですねえ。)

ショパンとスクリャービン

小学生の頃、団地の別の棟に住んでいた先生にピアノを習いはじめたのは、妹が習いたいと言うので「だったらついでに」ということに過ぎず、はじめてみると凝り性なのでそれなりに進歩したが与えられた曲を次々こなすゲームや遊びのようなものに過ぎなかったので、先生から「今度の発表会で弾きたい曲はないか」と聞かれても、与えられた課題以外何も知らないのでそう答えると、先生に随分びっくりされた。

私としては、先生がびっくりするのが逆に驚きで、「音楽というのは、ただピアノを弾いてそれで面白がっているだけの遊びではなく、色々な曲を聴いて、そのなかから自分なりの好みを見つけるものなのか」とそのときはじめて知った。

それからFMでクラシック番組を聞くようになったので、私にとっては、音楽というのは弾くのが先で、聞くのはあとから人に言われて覚えたに過ぎない。

(吹奏楽も、吹くのが先で、そのうち指揮をさせられるようになったが、あの世界は、今でもなかなか、人の演奏を聴かないですね。聴衆の権利、みたいなことを主張する意見がいまいちピンとこないのは、こういう育ち方のせいかもしれない。)

少しずつクラシック音楽/音楽史の様子がわかった頃、午前中の番組をリアルタイムに聞いていたから学校が休みの時期だと思うが、ラジオで2日がかりでショパンの生涯をたどる番組があって、初日はただ聞くだけだったが、2日目はラジカセで録音した。

バラード第4番といえばコルトー、マズルカといえばルービンシュタイン、ソナタ第3番はペルルミュテール、と思ってしまうのはその番組の録音テープを何度も聞いたからだが、そのとき、op.55-2のEs-durのノクターンも、誰の演奏だか覚えていないが、ラジオで流れたのを聞いた記憶がある。

ショパンのノクターンのなかで、最初に知ったのは後期のEs-dur、ということになってしまって、この曲のことはずっと気にかかっているのだけれど、なかなか誰も弾かないんですよね。

この曲のめくるめく感じはノクターンの趣向としては例外的で、いわば「特別な夜」の音楽なのだろう、どういう種類の「特別な夜」なのか、というと、上声のメロディーに、現れたり消えたりする形で内声の第2の声部が絡みつく書法がそれを示唆していて、これはつまり、「二人がほぼひとつに融け合ってしまうような状態の夜」ということなのだろう、ということがわかってきたのは随分あとだ。

(人から紹介されて、院生時代にショパンの曲を有閑マダムと一緒に楽曲分析する不思議なアルバイト(家庭教師?)をしていたことがあって、24のプレリュードを1曲ずつ見たりしていたのだが、さすがに、このノクターンをそこで取り上げる勇気は、わたくしにはありませんでした。逆に言うと、その頃は既にこのノクターンがどういう曲なのか、理解できていたことになる。京都新聞の記者から、批評を書いてみないかと言われたのは、この有閑マダムのご自宅の近所の喫茶店だったので、1994年か95年のことになる。)

たぶん、スクリャービンはショパンのこういう書法の意味がわかっていた人で、スクリャービンの官能的なピアノ書法はショパンの先にあるんだと思う。

19世紀のピアノ音楽にはベートーヴェン派とモーツァルト派があって、そもそも手の構えからして違う。リストは前者でショパンは後者。さらに言うと、ベートーヴェン/リスト系のピアノのつかみ方は、機能(コードネーム)でハーモニーを捉える(つかむ)ワーグナー流の発想と親和性が高いだろうし、ショパン/スクリャービンの減衰する残響をポリフォニックに制御する書法は、ブラームスとは違ったやり方で通奏低音の延長でハーモニーを捉えているように思う。

そういう大きな構図を作っておくと、スクリャービンにつながるものとしてショパンのop.55-2を公然と解説しても大丈夫かもしれない。

そう思って、スクリャービン自身のピアノ・ロールのCDなどを使いながら授業を組み立ててみたら、それなりに話がまとまった。

時と場合を選ぶ話題なので、そう何度もあちこちで話すことはこの先もできないだろうが、積年の宿題を、またひとつ解決した思いである。

構造と価値転倒:モダニズムという名のサイコロのからくり

バレエ・リュス(春の祭典)でストラヴィンスキーが学んだのは、常識・因習を反転させるとパリの観客が大喜びする、ということではないかと思う。

発想・技法としては、コロンブスの卵である。

それ自体としては、いかにもいつか誰かがやりそうなことだが、プラスの価値とマイナスの価値には互換性があるとみなす「構造」の発見と結びついて、色々な帰結を生んだことで、これが事後的に「事件」と認定されるようになった。

そしてバレエの踊り手たちには、舞踊を「構造」として捉え直すことができるだけの技術と経験の在庫があったから、バレエが20世紀に再起動できた。

二重三重の偶然である。

20世紀末のオタク文化・サブカルチャーにも、きっと同じように偶然を「画期」と事後的に認定できる契機・要素があるに違いないと信じて、日本の博士たちは日夜サイコロを振り続けているわけだが、どうなることか。

カミオカンテに微少な粒子が降るのを待つのと、「事件/画期」の到来を夢想するサイコロ振りは、似ているけれど何かが違うし、この違いを理系と文系の違いであると強弁するのは詐欺じゃないかと思うし、詐欺を見抜く自浄作用がないんだったら、博士コミュニティも底が知れていると私には思われるのだが。