大澤壽人はウルトラモダン(近代の超克)ではないし、フランス派でもない

片山杜秀がゼロ年代に大澤壽人を市場に投入したときに、世間は大澤壽人を「知られざるモダニズムの最終兵器」、いわば、零戦や戦艦大和(戦前の日本の近代化の到達点であるにもかかわらず敗戦によって海の藻屑となった悲劇のヒーロー)の音楽版みたいな位置づけで興奮したわけだが、

今日、いくつかの作品をまとめて聴く機会があって、これは別にウルトラモダンではないし、パリでの成功は「1930年代にヨーロッパと対等に渡り合える日本人がいた」というよくある話(国際的な業績をあげた自然科学者の神話化とか、蓮實重彦が中村光夫を誉めるときの論法とかみたいな)とは違う、と改めて思った。

大澤壽人はボストンで学んだわけで、大澤壽人の猛烈な成長を支援し、讃えたのはボストンの楽壇だった。既に1920年代のジャズ・エイジを経験して、クーセヴィツキーがヨーロッパの前衛たちと連携しながらコンサートを展開していたボストンには、モダニズムを限界までチューン・アープして加速する土壌があって、大澤壽人はその流れにうまく乗った、ということだと思う。

(1918年生まれのバーンスタインも、大澤壽人がボストンを去るのと入れ替わりくらいに1930年代後半にボストンで急成長して40年代にニューヨークに乗り込むわけですね。)

ボストンで大澤壽人が学んだのはボストン流にアカデミックなスタイルであって、なるほど個々の技法が新しかったり、アイデアを盛り込む密度が高く、解読が大変ではあるけれど、既存の音楽を解体して組み替えるようなことはしていないと思う。

どの曲も、ほぼ型どおりのソナタだし、概して最近の大澤壽人の蘇演は、ちゃんと楽譜を読み解かずに、なんとなく凄い感じのハッタリを効かせすぎていると思います。一昔前の「現代音楽」演奏会では、演奏家が作品を理解できずに、気合いとハッタリで乗り切ろうとする傾向がありましたが、あの「現代音楽」の悪弊が、なぜか、大澤壽人の演奏ではまかり通ってしまっているようです。

「ウルトラモダン」などと言い訳するのではなく、ちゃんと楽譜を読めば、筋の通った「音楽」になるはずです。(山田和樹がやったように。)大澤壽人はヴァレーズじゃない。むしろ、それぞれの作品は、大澤壽人の風貌と同じく、基本的には、細身の繊細なメロディーラインがきれいに横に流れていて、そこに、オーケストラ風にさらにいくつかの線を重ねていった結果、譜面が複雑に見えるだけのことだと思います。

(そういえば40年代にシェーンベルクやストラヴィンスキーが北米に移住したときにも、当地の人たちはヨーロッパのアヴァンギャルドと奇妙にすれ違いましたよね。シェーンベルクやバルトークが北米で堂々と調性音楽やソナタ形式を復活させたのは、「ヨーロッパ的」と言われたボストン交響楽団やストコフスキーのフィラデルフィア、さらに遡れば、ドヴォルザークを歓迎したニューヨーク(先日、大阪フィルは例のチェコのおじいちゃんとNYで初演された「テ・デウム」をやった)のように、「クラシック音楽」があたかも普遍的な規範であるかのように営まれていたからじゃないかと思う。なんだ、これでいいのか、と思えたんだと思う。大澤壽人も、そういう安心感のなかで猛勉強したんだと思います。)

で、大澤壽人のパリ行きは、日本人の欧州遠征ではなく、新大陸の音楽家たちの大西洋横断、という、これも第一次大戦後によく行われた流れに乗ったんだと思う。コープランドもヴィラ・ロボスもヒナステラも(ガーシュウィンさえもが)パリに行ったじゃないですか。大澤壽人は、パリで「日系アメリカ人」のように振る舞って、だからうまくいったんだろうと思うのです。

そして日本のアーチストが北米経由で欧州に進出した例は、大澤壽人だけじゃなく、むしろ、それ以前もそれ以後も、色々と事例がありそうですよね。ニューヨークのノヴェンバー・ステップスが海外進出の足がかりになった武満徹がそうだし、小澤征爾も、フランスでコンクールに通ったあと、ちょっと動き方が複雑ではあったけれど、まずはボストンでしたよね。帰国後はフランス派として活躍した堀内敬三もボストン帰りですよね。

ひょっとすると、日本は、なにも戦争に負けたからアメリカの属国になったわけじゃなく、明治の開国以来、アメリカ経由で物事を進めるほうがうまくいくような情勢をずっと利用し続けてきたんじゃないか。大澤壽人は、音楽におけるその好例と見るのがいいんじゃないかと思うのです。

(太平洋戦争の「敗戦」は、大日本帝国の栄光を語れないものにしてしまった北米による抑圧の始まりであると長らく言われてきたけれど、そうではなく、GHQの占領があったせいで、実はそれ以前からずっと続いていたはずの北米との関係をむしろ隠蔽することになってしまったんじゃないでしょうか。実は昭和のはじめからずっと日本にジャズがあったのに、ひと頃は、まるでGHQがはじめてジャズをもたらしたかのように米軍キャンプの思い出を語る戦後育ちのミュージシャンが幅を効かせていましたよね。大澤壽人は、確かにその種の「戦後神話」への解毒剤になるけれど、大澤壽人によって蘇るのは、「大日本帝国」ではなく、「戦前のアメリカニズム」だろうと思うのです。日本のキリスト教も、カトリックはさておき、プロテスタントは北米から牧師やシスターが派遣されて広まったのだし、パリ帰りというより「ボストン帰り」の大澤壽人が戦後中間音楽の可能性を探ったのは、米軍占領時代に大日本帝国時代の重厚長大から軽佻浮薄なデモクラシーに転向した(大木惇夫みたいに)というのではなく、「ボストン帰り」がボストン的な感性を素直に発揮した=「ボストン帰りの男がボストン時代に戻った」のではないでしょうか。)

日本歌曲と日本の詩歌の歴史

日本の詩の流派を「浪漫派」とか「シュールレアリズム」とか、欧米の芸術運動になぞらえて分類するのは、それぞれの詩人の立ち位置を考えればそういうことになるのだろうけれど、

ドイツやフランスの歌曲と比較しながら日本歌曲を勉強するときには、むしろ、七五調を「韻律」と言えるのか、言えるとしたら、それは「うた」においてどのように機能するのか、そして七五調からの脱却は「散文詩」に相当する意味をもったと言えるのかどうか、とか、あるいは、語彙の選択において、雅語と日常語の区別が漢字や仮名といった文字の選択と連動していたりしていなかったりする日本の言語芸術の特性をどう位置づけたらいいのか、とか、そういうことを整理しておくほうが役に立ちそうな気がする。

そういうことを視野に入れて、とりあえず、思えばずいぶんな分量と歴史を積み重ねつつあるかもしれない日本歌曲の詩の出典をひとつずつちゃんと特定して、一覧できるような書誌学的な仕事を誰かちゃんとやったほうがよさそうですね。

(山田耕筰は第一次大戦直前のベルリンでドイツ・リートの最先端に感化されて、帰国後、三木露風や北原白秋に作曲したわけだが、第一次大戦後にドイツ留学した信時潔は、帰国すると、与謝野鉄幹の短歌、という微妙な立ち位置の定型詩に作曲して、そのあと、与謝野晶子のこんどは短歌と口語詩の両方に取り組んでいる。定型詩と自由詩の区別に対して山田耕筰は無頓着で、信時潔のほうが「意識が高い」ように見えます。)

メディア論、エクリチュール論と北大西洋条約機構

世紀前半のアメリカニズムの総仕上げみたいな感じに視聴覚メディアが普及して、「書き言葉」=出版文化の地位を揺るがす可能性が見えてきたところで、お隣のカナダのしかも工業化で潤ったフランス語文化圏という微妙なポジションの司祭が、カトリックを「声の文化」だと主張してこの流れに乗っかろうとした。そうすると、そもそもエクリチュールは声と紐付けることを必須としないシステムであろう、とフランス本国の左翼が第三共和政以来の政治風習の延長で政教分離のアップデート版の論陣を張って切り返した。

大西洋を挟んで、新大陸東海岸と旧大陸旧宗主国がやりあったのが、20世紀後半のエクリチュール論、メディア論、ポストモダン談義の正体だと見てよさそうに思う。

(フランスはNATOに参加するか否か、みたいな括弧付きの「国際政治」ですね。そうこうするうちに、NATOの前提だった冷戦自体が消滅しちゃった。)

まあしかし、言葉の運用はヒトの生物としての基本能力のひとつなのだろうから、キリスト教vs共和制、旧大陸vs新大陸みたいな小競り合いと絡めるのはいかにも近視眼的な矮小化だし、この近視眼的な矮小化の色眼鏡は、どこかしら、「日本人論」=日本特殊論のうさんくささに似ている。

議論のスコープをこの水準に設定してワアワア騒ぐ欧米の言論のモードと「日本人論」は、その意味で同時代現象だったのかもしれない。

いずれにせよ、このままでは、次の世紀の学問の基礎にできる代物ではないよね。

メタモ

ポストモダンが「ポモ」だとしたら、メタモダニズムはメモなのだろうか。「メタモ」のほうが、体脂肪率の高くなりすぎてダイエットが必要なモダニズムの終末期、という感じでいいかもしれない(=流行るまえに先回りして略称を考えてしまうメタモダニズム言説の実践)。

詩を歌う vs 歌詞が楽曲に従属する

JASRACは歌詞なる言葉の連なりを楽曲に従属するその一部として取り扱っているらしいのだが、詩を歌う、とか、詩に曲をつける、というとらえ方と、歌詞が楽曲に従属する、というとらえ方の違いは、かなり広範囲に影響が及ぶ大問題なのではなかろうか。

ここ数年、歌曲演奏会の解説をしようとすると、手足を奇妙に縛られているように不自由で、意味不明の拘束を解きながら準備を進めると異様に時間がかかってしまうのは何故だろう、と考えるうちに、現在の日本には、「詩を歌う」という行為を実践したり、それについて語ったりすることがどうにも難しい文化的な状況があるんじゃないか、と思い至った。

(堀朋平のシューベルト論が異様に執拗で長くなるのも、ひとつには、そういうことがあるんじゃないか。)

明治以後の「詩」という概念の奇妙な展開が、洋楽としての歌曲の取り扱いと掛け合わされて、そこに、北米流の音楽産業が入ってきて、しかもそこに、「詩を歌う」などという発想は音声中心主義だから超克すべし、と言わんばかりのポスト構造主義批評が右斜め上から降ってきたところにJ-POPの大成功があって、そうした一連のトピックが日本のそれ以前からの伝統と絡まりあっているように思う。

音楽著作権といえば増田聡がトップランナーだ、みたいなしょぼい装備のままで、はたして、このあたりを読み解くことができるのだろうか?

大きなスパンで言えば、「文学」を中心に据える古典的教養の衰退という(主として京大系の)人文学者や教育学者が好きな話(ほぼ旧制高校への郷愁)でもまだスケールが小さすぎて、視覚優位の大衆情報社会が従来の五感のいずれとも関連しながら文化・文明の中央に君臨した「言葉」の地位を脅かす流れがいつから決定的になったのかという話だと思う。

(たぶん19世紀半ばあたりが大事だろうと私には思えます。演劇という「言葉の芸術」がスペクタクル化に舵を切ったのがその頃以後なので。

ちなみに、岡田暁生のオペラ論では、音楽劇のスペクタクル化におけるグラントペラの役割がクローズアップされているが、厳密に言うと、マイヤベーアあたりのグラントペラでは、まだ、音楽劇のスペクタクル化がパリの特産品(パリの劇場の「個性」)と受け止められていたのではないかと思う。「スペクタクルにあらざれば演劇(オペラ)にあらず」という雪崩現象が起きるのはマイヤベーアのあと、音楽をスペクタクルに対抗できる「サウンド」という聴覚的効果に再編した後期ワーグナー以後のことだろう。)

官僚とポストモダン

前の一連のエントリーのアイデアを暫定的にまとめるとしたら、官僚やその補助学としての高等教育関係者各位には、「官僚的」に(=エセ教養主義的な「なんちゃって治者」として)ポストモダンと戯れて心のバランスを保とうとするよりも、粛々とモダニティ(19世紀後半がその基礎(←fundamentです!)を整えたような)のアップデートに取り組んでいただくほうがいいんじゃないか、そして、liberal なのか radical/revolutional なのか、議論は分かれるにせよとりあえず「ポストモダン」なのであろう運動は、モダンなインフラに寄生するのではなく、別の場所で展開したほうがいいんじゃないか、と思う。

(たとえば「社長東浩紀」のゲンロンって、そんな感じに官僚や大学ときっぱり縁を切っていますよね。「全体主義的」なのかもしれない時流に解毒剤が必要なのだとしたら、そういう処方箋になりそうな気がします。)

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

19世紀半ばの構造転換

ハーバーマスの言う「公共性の構造転換」は、既に19世紀終わりのドイツ帝国あたりから初期近代の「対話的公共性」は機能しなくなったという話だったはずで、だからあれば、「音楽の現代」は19世紀半ばの第二帝政期にはじまった、というフランス文化史で言われる話と同じことだと思う。小岩信治の言う「ピアノ協奏曲のスタンダードの終焉」、ブラームスとサン=サーンスで音楽における「教養主義」が確立した、という見立ても同様の転換の話だろう。

美学的な言い方をすると、18世紀から19世紀にかけて「美しい諸技芸」が定冠詞のついた単数形の「アート」に再編されるときに要請された「天才」という観念が、既に19世紀の半ばには事実上失効していたのではないか、ということだと思う。蓮實重彦なら「凡庸」と言うのだろうけれど、「教養」という概念は「勤勉」と相性がよくて、「勤勉」なる「凡人」たちがなしとげた「業績」を前にして、「天才」は、一方のビジネス上の特権(著作権)と、芸術至上主義的な奇人=ダンディに分解する。

近代の天才概念が大陸的なオーサーシップを法的に基礎付ける、というのが長く法学の定説だったらしいけれど、それは「長い19世紀」がその内部で構造の転換・組み替えを成し遂げていることが注目されていなかった「短い20世紀」のバイアスがうみだした神話ではないかと思う。

19世紀をよくもわるくも一枚岩と見てしまうと、20世紀を語るスタンスまでもがおかしくなる。

21世紀の歴史的なセンスとして、このあたりが結構重要になってくるんじゃないかという気がします。

さてそして、このように世紀の真ん中あたりで何かが組み変わったと思われる19世紀の世俗領域と、2つ前のエントリーで書いたようにオルガンが演奏され続けて、スペイン・ソレム派のグレゴリオ聖歌への取り組みがローマでオーソライズされたり、チェチリア運動がドイツで起きるカトリックの19世紀は、順接するのか逆説するのか。

世俗領域と宗教領域の連立方程式に、フランス第三共和政はひとまず「政教分離」という解を与えて、音楽分野ではオルガンと早々と縁を切っていたかに見えるドビュッシーやラヴェルがスターになっていくわけだけれど、事はそれですっきり片付いた、というわけでもなさそうですよね。

1930年代にメシアンが登場して、プーランクのような在野のピアノ好きがオルガンや教会に(第二次世界大戦中に)急接近するのはどういうことなのか。

「短い20世紀」はそろそろ終わりそうだという頃合いになって発表されたメシアンのオペラが、まもなく日本で(演奏会形式なのが残念ですけれども)上演されようというときなので、このあたりのことを一度整理しておくのも悪くなさそうに思います。

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

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音楽の「現代」が始まったとき―第二帝政下の音楽家たち (中公新書)

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帝国の陰謀

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凡庸な芸術家の肖像 上 マクシム・デュ・カン論 (講談社文芸文庫)

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十字架と三色旗―もうひとつの近代フランス (歴史のフロンティア)

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プーランクは語る―音楽家と詩人たち

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……というのは、前から少しずつ考えていることで、今は、ユダヤの王ダヴィデがジョスカンの詩篇モテットやドイツの詩篇歌集出版でにわかに脚光を浴びて、近代になるとシューベルト、メンデルスゾーン、リストからレナード・バーンスタインまで、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教にまたがる作例があるような、詩篇の朗唱と詩篇への作曲の歴史を大急ぎで調べているのですが。そして、フランスにおけるオルガンがせいぜい1990年代的なナショナリズムの参照項なのだとしたら、詩篇の音楽は21世紀のグローバリズムを視野に収めて考えないといけない素材だろうなあと思っていますが。

詩篇の音楽 旧約聖書から生まれた音楽  寺本まり子/著

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ウィキペディアによると、詩篇23番「神は我らの牧者」は、映画「エレファント・マン」や「戦場のメリークリスマス」でも唱えられていると言うではないですか。

東大法学部的なもの

大学院改革の過渡期に、新制度に乗ってまず博士号を取得した者と、旧制度を利用して博士号取得を待たずに研究職を得た者が併存したのは、要するに、過渡期だからそうなるのもしょうがないし、その後、順当に新制度が軌道に乗るにつれて、当初は「抜け駆け」的なメリットのあった「学位なし就職」を選んだ人がうまく立ち回れなくなっていくのも、制度がそういう風に変わっちゃった結果なのだから、まあ、そうなるだろうなあということでしかない。

博士号取得者がうまく動けるように制度が整備されていっているのだから、博士号取得者のほうが非取得者より成果をあげやすいのは、制度への適応/不適応という状態観察以上の何か(博士号を取得した者のほうが個体としての能力が高い等々)ということを意味しないだろう。

もしかすると、せっかく取得した(これからの人たちにも取得を薦めたい)博士号の「御利益」を喧伝するためには、「博士号取得を目指すことこそが、個体の能力を発現させる最良の生き方である」というようなことが具体的に証明できたほうがいいのかもしれないが、残念ながら、博士号取得者と非取得者のその後の研究者としての業績、というのは、そのまま直接、そうした証明の材料にはならないと思う。

(普通に考えれば、そうだよね。制度が博士号取得者に有利に設計されているのだから、そのバイアスを補正しないと使える統計データにはならない。)

リアルな個体の振る舞いとしてはそのように制度に最適化して生きている人たちが、観念的には、制度を越えて、超越論的な視座へ到達したかのように思い込みがちだ、というのは、兆候的ではあると思う。

柄谷行人が、東大法学部は官僚養成コースなのにマルクス経済学を教養課程でたたき込まれる設計になっていて、それが何らかの形で「日本的経営」の定着に寄与したのではないか、とどこかで言っていたように思うが、考えてみれば、それは別に「特殊日本的」なことではなく、教養主義というのはそういうものですよね。ヘーゲルを法学部で学んだ者たちがプロイセンの官僚になったのと、事態はほとんど変わらない。ヘーゲルがマルクスに代わり、さらにマルクスがアドルノや北米ポストモダン文化左翼に置き換わっただけだ。

たぶん、ポストモダンを語る大学教員、というのは、現時点では、かなり典型的に「官僚的」なんだと思う。

フランスのオルガンと「長い19世紀」

ドイツのピアノ音楽はクララ・シューマンを中心に据えると読み解くのが容易になる、という思いつきに続いて、フランスの鍵盤音楽は、まず何よりも、カトリック教会が王党派や共和主義者と同じくらい強い国におけるオルガンの伝統、「19世紀のオルガン」に着目するのがいいんじゃないかと考えて、今年は折に触れてその話をしている。

試みに、19世紀の作曲家を、誰がオルガンを弾いたりオルガン作品を書いて、誰がオルガンと無縁だったか、と色分けしてみると、国や音楽のスタイルを横断する面白い図柄が見えてくると思う。ブルックナーはオルガン弾きだが、マーラーは管弦楽にオルガンを加えるのみで、自分では(たぶん)弾かなかった。ドヴォルザークはオルガン学校に学んだけれど、ブラームスがオルガンに取り組んだという話は聞かない。あるいは、メンデルスゾーンは結構ちゃんとオルガンに取り組んでいたはずだけれど、シューマンのオルガンへの取り組みは、何だか地に足がついていない印象を受ける。そしてシューベルトは古い教育で育った人なので少年時代に教会でオルガンを弾いた。等々。

そしてサン=サーンス、フォーレ、フランクはいずれも教会のオルガン弾きだったけれど、次の第三共和政世代のドビュッシーやラヴェルはオルガンを弾かない。

チェンバロが忘れられていた「ピアノの一人勝ち時代」は、実は18世紀末から古楽復興の19世紀末までのせいぜい100年のことに過ぎないし、そのように世俗世界でピアノが覇権を誇っていた時代にだって、教会ではオルガンが弾かれ続けていた。単に、そこに足を踏み入れなかった者と、そこに軸足を置いた者の違いがあるだけだったのではないか、と思うのです。

そういう風に考えると、改めて19世紀は分厚く長いと思うし、安全に前後の時代から切り離して省略できるようにはなっていない。

「短い20世紀」のスピード感は、借金をチャラにするように強引に19世紀を矮小化して捨て去ったことによるドーピングだったのかもしれない。

(19世紀という「借金」をチャラにしてしまうと、音楽の著作権というような概念もまた、随分身軽で軽快になりそうだが。)

恩師に忖度

そういえば前回京都で音楽学の全国大会があった時には当時の礒山会長がシンポジウムに登場して、今回も会長の出るシンポジウムがあった。いずれも関西在住の弟子の企画だ。

まるで西田敏行をよいしょするドクターXの3人のタカシのような振る舞いだが、阪大の卒業生教員がこんな太鼓持ちキャラになったのは、関西の伝統というわけではなく、ごく最近の特定の時期の在校生たちの発想に過ぎないことは、念のために指摘しておきたい。

意味不明の伝統は、勝手に創られる前に潰すべし、である。