死んだ過去としての20世紀と生前の思い出としての20世紀

21世紀に生まれた人たちが既に18歳になろうとしているわけだから、20世紀が今生きつつある者とは直接関わりのない「過去」(奥行きを書いた事実の記録)として扱われるのは、これはもうしょうがない。

その一方で、かつて20世紀が「同時代」であった頃の記憶をいつまでも反芻しようとしても、既に20世紀は「同時代」ではないのだから、そのような思い出話は色あせていかざるを得ない。

でも、それは「歴史の終わり」というような話ではなく、ようやくこれで、歴史=物語を立ち上げるための素材と条件が整ったということではないかと思う。

絶好の機会に立ち会えているのに、「既にすべては終わってしまった」と思ってしまう人がいるとしたら、その人は「歴史」に歴史ならざる何か別のことを期待して、そのような「歴史もどき」を弄んでいたんだろうと思います。

好奇心を刺激するような「20世紀音楽」のコンサートは、むしろ最近増えている。ようやくここまで来ましたね、さあ、いよいよこれからですね、という感じがします。

懸命にもがく見世物は「人間的」か?

自然主義リアリズムや私小説がドロドロした現実から目をそらさない近代の芸術だと言えるのは、それが諷刺・告発・批評として機能するからだと思う。

でも、懸命にもがく姿それ自体を興行・見世物にするのは、要するに奴隷と猛獣が闘うコロシアムを見物しているのと同じ構造だから、むしろ、ヒューマニズムに反する気がする。

「彼らは一生懸命やっているのだから、評価してあげてくださいよ」

という言い方があるけれど、それは情が厚いようにみえて、むしろ、いわゆる「上から目線」の高みの見物を博愛主義風に偽装しているだけだと思う。

この種の懸命にもがく見世物は大阪名物だと誤認されているところがあるようなのだけれど、ちょっと違うんじゃないかとわたくしは思っております。そっちへ突き進むのは止めて欲しいんだよなあ。

……というのが、尾高忠明のブルックナーを聴いた感想です。

大阪維新は、文化芸術に関して「吉本を見習え」というメッセージを発し続けているけれど、懸命にもがく見世物に活路を見いだしてしまうのは、やっぱりマズかろうと思う。

大阪フィルのバーンスタイン「ミサ」は、確かに一定の成果だとは思いますが、懸命にもがくヒューマニズム、という定型に回収して理解されそうな興行だったのは否めない。読売日響でメシアンのオペラを見たら、やっぱりこっちのほうがええわ、と思ってしまう。

私は日経でバーンスタインのミサの上演に関して「井上道義の本物志向」を指摘しましたが、そちらのほうが本線で、しばしば「トリックスター的」と評されてきた井上道義は、手順や段取りをすっとばす不意打ちで何かをやるので周囲に波風が立つけれど、出してくるものが「本物」だ、というところが大事なことで、彼の周囲に沸き起こる波風は副次的なことだと思う。

対応困難に見える波風をどうにか乗り切ったことは当事者にとって大きな体験ではあるのだろうけれど、周囲が、そういう一致団結の懸命さそれ自体に拍手を送る、みたいな回路ができて、それが常態化するのは、どうなのか。そういうのは過渡的な現象に留めて置いたほうがいいのではないか。

維新の登場で、大阪フィルも日本センチュリーも大阪市音も、みんなドタバタしたけれどその先がどうなるのか。

あくまで現状の暫定的な判断でこの先はどうなるのかわからないけれど、現時点では、ドタバタした先で落ち着いてきた日本センチュリーの「手堅いカペルマイスター」のほうが一歩先を行っているかもしれない。

飯森範親はチャラいマエストロというより手堅いカペルマイスターではないか

日本センチュリーの指揮者に就任したときは東京から司会にテレビのアナウンサーを呼んだり、いきなり定期演奏会を2日公演にしたり、毎回コンサートの帰りに「おみやげ」を配るスポンサーが付いていたり、ケバケバしく大量の花火が打ち上げられるのに辟易して、以来、このオーケストラは遠巻きに眺める感じでしたが、飯森範親の指揮者としての演奏スタイルは全然派手ではなく、むしろ、ガチガチに堅いと思う。

関西では、大阪音大のオペラハウスの指揮者として20世紀のオペラをやって、その流れでいずみホールの室内オーケストラで20世紀の音楽をやり続けているけれど、ひょっとすると、そういう仕事は彼の気質に合っていたわけではなく、できるかどうかギリギリのところで必死に食らいついていたのではないか。

日本センチュリーとの仕事で、ハイドンやベートーヴェンをやりすぎなくらい四角四面に整えたり、アマチュア・オーケストラがやりたがるような、演奏上のぎりぎりのアクロバットはないけれども一定の演奏効果のあがる作品が「勝負曲」だったりして、ようやく、飯森範親の良くも悪くも「堅い/硬い」ところがはっきり見えてきたように思います。

華やかでアクロバティックな音楽とか、ハッタリ気味に周囲をハラハラさせる企画とか、そういうのは、それが心底得意な人(例えば飯森範親の友人であるらしい藤岡幸夫とか)に任せて、あまり融通は効かないけれどもこうと決めたら梃子でも動かない感じの「堅さ/硬さ」が生きるレパートリーに取り組んでいけばいいのではないでしょうか。

実際、日本センチュリーの飯森範親の担当分はそういう選曲になりつつあるように見えるし、常任指揮者の職分は、それでいいのではないだろうか。

最近の音楽広報が大好きなtwitter、faceboook等々で「拡散」される「公式コメント」では、指揮者はほぼ自動的に「マエストロ」と呼ばれているが、私はそもそもあれが大嫌いです。いわゆる「思考停止」の典型だと思う。(個人を役職名や肩書きで呼ぶのは、「うちの部長」みたいな会社的発想に見える。おかしいやろ、そんなん。)言葉はもっと大事に使いましょう。飯森範親には、マエストロではなくカペルマイスターという言葉が似合います。

(今月の定期の後半の交響曲は、スカっと鳴らせばいいので、あんな感じでしょうが、前半のライネッケは、独奏とオーケストラの綿密なアンサンブルを意図したと思える作品なのだから、思い切って編成を小さくしたほうが日本センチュリーの特徴が生きたのではないかと思う。「魔弾の射手」は……。ウェーバーのドイツ音楽には珍しくチャラいところ、芝居がかって恐怖や焦燥や喜びをめいっぱいに発散させる音楽は、飯森範親には難しいようですね。

ウェーバーと言えば、先月の関西フィルの定期演奏会でウェーバーの「トゥーランドット」とヒンデミットの交響的変容が合わせて取り上げられていましたが、せっかくのドイツらしからぬチャラい企画なのに、大久保賢の解説が硬かったですね。)

黙殺と誇大広告のあいだ - 関西(の)弦楽四重奏(団)

1月に関西弦楽四重奏団のベートーヴェン全曲演奏企画の2回目があって、3月にロータス・カルテットがドイツから里帰りして後期四重奏全曲を神戸、シューマンの全曲を京都でやるのだから、今は「関西(の)弦楽四重奏(団)」の話をする恰好のタイミングだろうと思うのだが、ロータス・カルテットの神戸公演を誰も聴きに来ないというのはどういうことだったんですかね?

神戸新聞の大きなホールでカルテットをやるのは、ちょっとしんどいとは思うけれど、それにしても、ロータス・カルテットの3回公演は、客席に誰もいないコンサートでございました。1回目は、雑誌にレポートを頼まれた、とか何とかで「音楽クリティック・クラブ」な人が数名いましたが(あなたたちが客席で無遠慮にしゃべる声は大きすぎます! 横原、寺西、君たちのことだ)、初回を聞けば、彼らの演奏スタイルががらりと変わっていて、これは大変なことが起きているとわかるはずだと思うのだが、「音楽クリティク・クラブ」な人たちは次から来なくなったので、あの演奏を聞いて何も感知できないボンクラだったのでしょう。

(2回目はちょっと落ちる演奏だったように思うし、メンデルスゾーンのイ短調はベートーヴェンのあとに演奏したほうが選曲の趣旨にはかなっていたように思う。演奏するほうとしては、ベートーヴェンをあとにしたいのだろうとは思いますが……。)

概して、関西のクラシック音楽の「業界」なのか「楽壇」なのか、ともかく、招待状を回してワイワイやっている界隈の人たちは、大阪の室内楽の国際コンクールがどういう水準で、そこから出てきた人たちがその後どういう風に活動しているか、ということについては、自分たちの間でぐるぐる回っている情報の「圏外」だと思っているようで、これをほぼ黙殺する。

そうやって、自分たちになじみのホールの主催事業や、自分たちになじみのマネジメントの企画だけを「関西=私たちのセカイ」の出来事としてチヤホヤするのは、別に今はじまったことではないけれど、ここまで公然と誇大広告と黙殺が乖離すると、さすがに、あほらしい。

数年前に小菅優がベートーヴェンのソナタ全曲を企画したときに、途中から、いずみホールが突如として世紀の大事件みたいに誇大に取り上げたのは、これと表裏一体のケースで、症状としては同じ構造にはまっていると思う。

「あいだ」をきめ細かく追っていくしくみがないのか、あったとしても摩滅している印象です。

(これは、関西に古い体質が残っている、というのとは少し違うと思う。狭義のジャーナリズム・事実報道とは別の審級として音楽評論を立てようとする人たちのグループがあって、大学人を巻き込んで言論活動を展開する動きが前世紀の後半に一定の実績を重ねていた。そういう人たちが死んで、大学人があほらしいから撤退した先で、再び一度は死に体になった「談合」的な「身内びいき」が人と姿を入れ替えて、装いも新たに(あたかも昔からこういうものであったかのような顔をして)再生している。そういう劣化コピーのゾンビが、このままの形で長続きするとは思えませんから、遅かれ速かれ、別のところから別の言論が出現するでしょう。)

ちなみに、ロータスのベートーヴェンの1、2回目があった3/9、10は、「音楽クリティック・クラブ」や大阪府が賞を贈った井上道義が大阪フィルとショスタコーヴィチをやった定期演奏会の日で、みなさん、そちらに行かれていたようですね。退任が決まった途端に誉める、というのも、朝比奈隆が老人になってから誉められたのに似た「楽壇/業界」の症状で、この人たちは、二重三重に、反省がないんだなあ、昭和を反復することしかできないんだなあ、と思わざるを得ない。

(井上道義は、誉められようが誉められまいが彼の人生を全うするだろうし、いただけるものはいただくのが当然なので、彼が悪いわけじゃないですが。そんなことを言えば、周囲の朝比奈フィーバーはそれとして、朝比奈隆も、彼のペースで人生を全うしたのだろうし、そういう存在に対してどういう立ち位置で私たちに何ができるのか、ということです。)

ついでに言うと、翌日3/11は神戸文化ホールで神戸市混声合唱団が大澤壽人の作品を特集していて、3月はこの週と次の週の週末をずっと神戸で過ごすことになりました。

(放送音楽劇「たぬき」の朗唱のスタイルが興味深かったし、旧居留地があってキリスト教が根付いている神戸には、ABCホームソングのような「うた」がよく似合う。)

その前の週は、びわ湖ホールがワルキューレをやったので大津。(これは京都新聞に批評を書いた。)

福島・中之島・京橋だけが関西やないで、ということですな。関西弦楽四重奏団も、もともと、京都の小さな場所でスタートしたんでしょう?

片山杜秀の言う適正サイズを「関西」で探すとしたら、往年の朝比奈隆グループ的な誇大さと、「身内」の範囲を超えるものへの黙殺の「あいだ」に目を向けた方がいいと思う。

感触として、神戸や京都や大津ではそういうセンサーが普通に機能しており、大阪がダメなのかも、という気がします。

春休みに、わざわざビジネス街に足を運んで「儀式」につきあうのは、人情として億劫でしょう。季節が良くなれば、街を出て海や山へ行くでしょう。音楽会を会議室主導で進めると、そのあたりがおかしくなっていくんだと思う。春のうららかな季節に「会計年度」という妙な線を引く、とか。

近年「会社」感満点な応対へと収斂しつつあった日本経済新聞さんから解放されたのは、わたくしにとって、幸福なことでございました。

[追記]

「会社」的、ということで私が思うのは、事業体としての業務の手順と効率を最適化することと、出荷される製品の品質は相関しない、という当たり前のことをもう一度考えた方がいいだろう、ということです。業務の手順と効率をチューンアップしたら「社内」の風通しはよくなるかもしれないが、「社外」からその結果としての出力がどう見えているか、「社外」からのリアクションを取り込む機構を業務の手順と効率の整備過程で非成長部門として切り捨てがちになっていないか、というようなことだと思います。

「会社」から自動化された反応しか出て来ない場合、お客さんや外部の取引先は、自分がベルトコンベアに乗せられた「もの」として扱われているように思いますよね。

印象としては、いわゆる「失われた20年」に、「もの」と扱われようがどうされようが、とにかく仕事を得なければはじまらない、という優先順位で世に出た世代が、「人間」との接し方を知らずに業務に邁進しているんじゃなかろうか、と思う場面が最近よくある。

そういう風な「人材」しか採れない状況なのだとしたら、大阪の洋楽に関わる「会社」や「団体」の事業体としての体力や見識はそこまでのものなのかなあ、ということになるだろうし、だったら、まっとうな大学人が次々撤退するのもしかたがない。(自分たちの教え子は、そういうのではなく、もっと良好な環境に送り出したいと思うのが当然ですしね。)

あと、とりわけ、大阪の洋楽は、お客さんから見える「店舗」としては多様で数もそこそこ多いけれど、裏に回るとかぎられたリソースをやりくりしていて、業界としては狭く小さな規模だと思います。

だから、ひとつの店舗がこういうことを始めた、という情報があっという間に回って、みんな横並びで同じことをはじめたりする。

いずみホールでうまくいったことが自治体の公共ホールでも成功するかというと、ありかたが違うのだから怪しいものだし、日本センチュリーのやり方を見習えばスポンサーが付いたり山田和樹が来てくれる、とか、そういうことではなかろうと思うのですが、そこは、単に横並び、というだけでなく、ある種のシステムにのっからないと東京や国外とのパイプが作れない、という風な事情も絡んでいたりするのでしょうか。

誰が最初にこの消耗するゲームを降りるか、ということですかね。

ロータス・カルテットは、独立営業で大変ではあるのだろうけれど、その苦労は生産的で幸福そうに見えます。

イザベル・ファウストやシュタイアー(大阪の意識高い系メセナの代表いずみホールのお気に入り!)と同じ空気を吸って、同じ水準の情報・客層を相手に仕事をしているのは、若い頃の華々しい経歴からすれば地味としか言いようのないロータス・カルテットのほうだと思う。

没後100年

今年はドビュッシーの没後100年になるらしい。

第一次大戦末期に亡くなったことは知っていたが、第一次大戦から100年なのだから、なるほどそういうことになりますね。

ドビュッシーは没年より生年の印象が強い。1962年生まれだから、ほぼ自分の100年前に生まれた人だ、というのを前から時々意識していた。別に、ドビュッシーに自分をなぞらえるのではなく、20世紀の「60年代生まれ」なものだから、19世紀の「60年代生まれ」に何となく親しみを覚えてしまう。とはいえ、マーラー(1960年生まれ)やリヒャルト・シュトラウス(1964年生まれ)にそういう近さを感じないのは、この人たちの音楽や生き方があまりにも19世紀っぽいからでしょうか。

で、今年がドビュッシーの没後100年ということは、50代で死んだんですね。

19世紀前半のロマン派を代表する作曲家たちは30代、40代で相次いで亡くなるし、同世代ではマーラーがもっと若くに死んでいるし、少し上のブラームスやフランクやフォーレは、いかにも老人然とした写真が残っているけれど、フォーレが70歳を越えただけで、ブラームスとフランクは60代で死んでいる。ドヴォルザークもそうだし、チャイコフスキーは死んだときにまだ53歳、今の私の年齢ではないですか。

19世紀の終わり頃には、50代を「まだまだ働き盛り」とは言えなかった、ということなのか、やっぱり彼らは、働き盛りに惜しまれつつ亡くなったと見ていいのか……。あるいは、21世紀になっても、50歳を過ぎると、そろそろ、「おっさん」から「爺さん」に移行しつつあると覚悟せねばならないのでしょうか?

ドビュッシー (作曲家・人と作品シリーズ)

ドビュッシー (作曲家・人と作品シリーズ)

いずれにせよ、没後100年ということは、ドビュッシーを1960年代生まれの私(たち)より年長の「同時代人」たちが「同時代の音楽」として語るモードは、もう不可能でしょうね。

ドビュッシー―生と死の音楽

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2013年には、「現代」の原点としてのストラヴィンスキーは今もまだ新しい、というノリで「春の祭典」100年が喧伝されていましたが、もうそういうことではない気がします。同時に、2018年はバーンスタインや大栗裕の生誕100年(松本清張も生誕100年)。戦後の経済成長期に活躍した人たちが「歴史」に登録されつつある巡り合わせですね。

文学・音楽・造形

うた・メロディーは言葉に寄り添う行為・現象だから、音楽のかなりの部分は文学との関係で捕捉することができそうだけれど、20世紀の「前衛/現代音楽」が閉鎖的で孤立した奇妙な袋小路に見えてしまうのは、これが文学(言葉)から遠ざかって造形芸術と連帯する運動だったせいかもしれない。(小谷野敦の純文学論は美術にまったく言及しないけれど。)

音楽には、うた(言葉の抑揚)の技術という側面とともに、音・音響のデザイン・構成という側面があって、20世紀には、音・音響の形式化とその批判というようなことが、造形芸術(と舞踊)の前衛(具象から抽象へ、とか)を参照しながら追い求められたんだと思う。

詩にも言葉を形式化する技術という側面があるはずなのだけれど、日本の近代詩はそういう風に進んでいないから、なおさら、文学の側から音楽の前衛が不可解に見えてしまうのかもしれない。

(文学における近代がサタイア(諷刺)を「芸術的」とみなしたことと、造形芸術における近代の形式化とその批判は、批評性という点で同時代の並行現象だと見られてきたのだと思うけれど、本当にそういう理解でいいのかどうか。諸芸術の歴史は横並びに平行しているのかどうか。文学・音楽・造形等を「芸術」と総称する枠組をこの先も存続できるとはちょっと思えないし、諸芸術の関係をどう語ればいいのか、「芸術史」は、いったん、バラバラにして組み立て直したほうがいいのかもしれない。)

純文学とは何か (中公新書ラクレ)

純文学とは何か (中公新書ラクレ)

(ちなみに、オラトリオはヘンデルのメサイアのようなバロック期の反宗教改革から出てきた宗教音楽だから、「中世のオラトリオ」というのは、何か別のものと混同しているんだと思う。グレゴリオ聖歌を想定して、隠れキリシタンの伝承が「おらしょ」と呼ばれている、というようなこととごっちゃになったのでしょうか?)

追記:考えてみれば、純文学や実験音楽は商売にならないけれど、造形芸術のアヴァンギャルドは売れた。というより、印象派という前衛をビジネスとして回していくことで画廊・キュレーターという業種が発展したのだから、前衛美術は新しいビジネス領域を「創った」のだと思う。美術のキュレーションを見習え、というのが現在の芸術・文化領域におけるマネジメント/広報/アウトリーチの隆盛(専制)につながっている。

「芸術」と総称される諸領域は、20世紀においても横並びに対等ではなく、それぞれで違う事情があったということだと思う。そして「隣の芝生は青い」とばかりに、音楽が美術のマネをするからおかしなことになる。

(そういえば、私が日経から音楽評を依頼された頃の大阪文化部デスク(担当記者さんとご挨拶に来られた)は、その後、東京で独立して画廊を経営していると聞きます。芸術とビジネスの20世紀的なつきあい方としては、こういうのが正解・王道であったと言うべきかもしれない。)

記録の重要性

インターネット上で2018年3月12日以前に増田聡さんが

人文学とは「詳細に記録しておくこと」と「その解読」の仕方を学んで身を守るための技術

である、という趣旨の主張を行った記録を私は知りません。(ないことの証明はできないので、「ある」と言うならそちらが立証して下さい。)この主張は、2018年3月12日に急造された可能性が高く、あたかも以前からオレはそう思っていたかのように振る舞うのは、記憶の改竄であろうと私は解釈しております(=「解釈」とはこういう行為です)。

(文書はしばしば書き換えられます。だから、いつどこで誰が何をどのように書き換えたのか、というログを残しましょう。)

[追記: 増田さんが、当初は「公文書は無謬である」という建前に批判的な距離を置く発言をしていたのが、ある時点で「間違いはけしからん」へと論調が転換する、その変節をたどることができるのも、記録(twitterのログ)あってこそですね。]

書き換え前と書き換え後の2種の文書がどちらも残っていたのだから、むしろ、厳しい条件下で行政符はちゃんと仕事をしたと言うべきだろう。書き換えの「意味」を問うのは政治の領域であって、この事態を、行政がなっとらん、と見るのは、ためにする議論と言わねばなるまい。

総理の失点探ししかしない野党と、役所の失点探しで溜飲を下げる大学教員は、本来関係がない別のことをしているはずなのに、どうして、共闘できる気になってしまうのか、その政治感覚が私にはさっぱり理解できない。

行政符を糾弾する側が、行政符の担当者を死に追いやったのと同じ力学を利用しているかのように見えるのは、とても不幸なことです。

(高速道路脇の旅客機が真上を低空飛行する土地がどのような経緯で国有化されて、どのように運用されて、どのように民間への売却話が持ち上がるものなのか。どういう人たちがどういう立ち位置で関与するものなのか。増田先生には、当たりが付いているのだろうか。)

制度設計の要諦

もしも上から不当に「嘘をつけ」と言われても(比較的に早期の段階で)きちんとお断りしておいた方が後々全体にとって(下から上まで)よい、という認識がこれを機に共有されるのはよいことでしょう。

加えて、事故・過失の際に当事者を特定して詰め腹を切らせることで存続を測ろうとするシステムというものは、早晩、守旧的な閉じた虚構(fiction)に傾くに違いないので、こうしたシステムを当事者の頑張り次第で成功を得られる冒険的な実勢力(virtuality)と誤認することなく、できるだけ早い段階で縁を切った方が良い、ということも言えるかと思われます。

あと、文化芸術に関しては、ウソかホントか(真偽判断)の領域ではないので、むしろ、分不相応に自分を高く売ることの是非、というのがあると思う。相手が勝手に高く買おうと言ってくるのだから、喜んで受け入れればいい、のかどうか。この場合も、判断は致命傷になる前、できるだけ早いほうが身のためだろう。

張源祥の系譜 - 関西の美学者・音楽学者の批評

前のエントリーに揚げた1962年の音楽クリティック・クラブ結成を報じる記事を見ると、結成時のメンバーに張源祥がいる。京都帝大で美学を学んで関西学院に美学科を作った人だ。

大学教員が批評を書くのは、(いつからそれが当たり前になったのかわからないけれど)比較的ありがちなことと思われているようで、文学者が文芸批評、美術史家が美術批評を書くように、美学者・音楽学者が音楽批評を書くことがある。

そういうことがいつどのように「当たり前」になったのか、いつかちゃんと調べてみたいところですが、改めて考えてみると、関西で学んで音楽批評を書いている美学者・音楽学者は、ほぼ全員、何らかの形で張源祥と関わりがあるようだ。

張源祥は関学で谷村晃(関学教授から阪大教授を経て大阪芸大大学院教授)、畑道也(関学教授から関学院長)を育てて、あまり知られていないけれど、谷村晃も関西音楽新聞や京都新聞にいくつか批評を書いて、1970年代に大阪国際フェスティバル公演のプログラムに曲目解説を寄稿するなど、音楽評論家風の仕事をしていた時期がある。一時期毎日新聞で音楽評を担当していた中村孝義(大阪音大理事長)と網干毅(大阪音大教授から関学教授)は谷村の関学時代の教え子(さらに言えば中村孝義先生は張源祥が大阪音大に移って急逝したあとを受けて同大音楽美学の担当教員に採用されたそうです、ご本人が大阪音大の最終講義でおっしゃっていました)。朝日新聞で音楽評を書いている吉田秀和賞評論家の伊東信宏、岡田暁生は谷村の阪大時代の教え子、わたくしもいちおう谷村晃のもとで阪大で修士論文を書いた最後のひとりで、大久保賢はそのあと大阪に来て渡辺裕に学んでいるけれど、岡田暁生に気に入られて舎弟みたいに振る舞っていたから、張→谷村→岡田→大久保で曾孫弟子のようなものかもしれない。そしていま関西音楽新聞を切り盛りしている小味淵彦之は関学で畑道也に学んでいる。

大学の教員は特に地元意識をもつことなく赴任・異動するグローバルな職業だから、他に、たまたま関西の大学に赴任して批評を書く(書いている)という方もいらっしゃいますが、京都女史大の故中原昭哉は京都芸大作曲出身の音楽教育の人だし、京大/帝塚山の鴫原真一は音楽評論を書いているけれど英文学者。長く複数の媒体で「批評」を書いた美学者・音楽学者は、ほかには、根岸一美くらいかもしれない(根岸先生は東大美学出身で、大阪音大講師になったのはおそらく同大に元東大美学教授の渡辺護がいたからでしょう、その後、大阪教育大から阪大、同志社大で、同志社を退職したときに批評執筆も辞められた)。

張源祥が気になる。「阪神間山の手」的なものが昭和・平成の関西の音楽批評にどのような影を落としたか、というようなことが見えてくるのではないかと思う。朝比奈隆の周辺に旧帝大系の人脈があったこととの対比が興味深い。

[追記]

東大美学にも、張源祥と比較できるような人がいたのだろうか。海老沢敏や渡辺護は東大美学でどういう立ち位置だったのだろうか。

礒山雅や渡辺裕は、80年代に単体で突如出現したわけではなく、その背後にこういった人たちの姿が見え隠れする。(例えば、礒山雅の音楽学者としての一番の業績はバッハの私有されていた演奏譜を国立音大で購入して公開したことだろうと思うが、これは、彼個人の業績というより、かつて海老沢敏が学長だった国立音大の図書館長在職中の業務の一環だ。私有されていた演奏譜は、研究者が自力で「発見」したわけではなく、名前は表に出ていないが、どうやら原智恵子の遺品整理の過程で仲介業者が国立音大に話を持っていく、というような経緯であったように見える。)だから死者へのはなむけであるにしても「不世出」というような形容は適切ではないだろうと私には思われます。

個体の「死」というような偶然的な事件とは切り離してものを考えるとしたら、例えば、こういう見取り図を描いてみることができるのではなかろうか。

劇場・報道・批評

具体的な批評作文はこれから考えますが、先週末のびわ湖ホールのワルキューレを2日観て、この劇場は本格的に機能しはじめたなあと思った。オペラは洋楽受容という文脈で日本に入ってきたので長らく(制度や興行としても言論での取り扱いとしても)「音楽」の一ジャンルと扱われてきたけれど、びわ湖ホールや新国立劇場ができたあたりから潮目が変わって、ちょうど、バレエが音楽と舞踊の交差するところに独自の領域として存在しているように、歌劇が文学と音楽と演劇の交差する地点に独自に動き出しつつある感じがしました。

プロジェクション・マッピングは、(液晶ディスプレイにおけるCGといったビデオ・ゲーム等で主流の技術と隣接しながらも別の技術として)劇場空間で独自に急速に発展しつつあるようで、この技術を手にしたのが具体的には大きなことかもしれない。

あと、滋賀の大津の劇場が、関西圏のようでありながら中部や関東とのつながりがしっかりあって、鳴り物入りのスター主義とは違う形で外国の劇場とのつながりをしたたかに作りつつあるからワーグナーをこういう形で上演できているんだろうなあとも思う。

(考えてみれば、今は大阪フィルとかその競合在阪オケは「大阪の」オーケストラということになっているけれども、こちらも、実態は「大阪生まれの大阪育ち」という風にはなっていないですしね。)

なお、日経大阪版の音楽評を私が担当するのは3月(先の藤村実穂子評)でおしまいです。

昨年の年末回顧記事(これは全国版に出た)で、東京の読売日本交響楽団がそのびわ湖ホールでやったメシアンが関西のどの公演より良いと書いて、もう、「関西在住の音楽家による公演」なるものに固執するのは意味がないんじゃないか、と思い始めているタイミングでしたので、ちょうどいい頃合いではないかと思います。

また、音楽クリティック・クラブという親睦団体に2001年に入れていただいて今日に至っていますが、こちらには現在休会を申し出ています。

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1962年というタイミングで関西在住の「音楽評論家」を自任する人たちがこのような形で団体を立ち上げた経緯(同グループは現在1974年設立と称していますがこれは会則を決めた時期で、実際は関西音楽新聞1962年10月20日号に結成を報じる記事があり音楽賞をこの年から出しています)からその後の展開、現在のありようまで、それなりにその意義は理解しておりますが、現状では、「関西在住の音楽評論家」という概念が実質を失いつつあると私は認識しています。

社会的に意味のある団体として存続するためには、周囲からギルド的に扱われている状況を活かして本当に仕事ができる(若手中堅主体の)事実ベース・取材ベースで仕事をする音楽ライター集団に内実をシフトするか、さもなければ、音楽評論家という名目でやってきたことの延長で「音楽評論家」を名乗る者であるがゆえにできることを(関西以外の批評シーンと何らかの形で連携しながら)明確に打ち出すしかないと思いますが、どうやら、世の中が動くときこそ、じっと動かずに既定路線で現状維持、というのが現メンバーの大半のお考えのようで、わたくしとしては、つきあいきれないので距離を置くことに決めました。

(ただし、団体の性格を変えていくことに皆さんが同意したとしても、わたくし自身は「音楽ライター」的な仕事ができる人間ではありませんし、「生涯評論家一筋」と思い定めて「批評」の未來と心中するような生き方をしているわけでもありませんので、皆様におかれましては、わたくしの預かり知らないところで今後を模索していただければいいのではないかと思っております。)

京都新聞の批評は続きます。わたくしを1995年に最初に「音楽評論家」とクレジットしたのはこの媒体ですので、この仕事が続くかぎりは、「音楽評論家」ということでいくことになるかと思います。

音楽クリティック・クラブは「関西在住の音楽評論家の親睦団体」と自らを会則で定義しております。別に、この団体(会員の推薦を得て入会、という手順になっています)に入っていなければ音楽評論家ではない(「関西で誰が音楽評論家であるかどうか、ということをこの団体が格付けする」)というしくみではないはずですから。

(伊東信宏さんは音楽クリティック・クラブの会員で「音楽評論家」を名乗っていて、他方、岡田暁生はこの団体とは無縁で、批評を書くときにも「音楽学者」を名乗っている、というように、ある世代までは、音楽クリティック・クラブが何らかの形で「尊重」されていた気配はありますが、もういいでしょう。

かつては、関西で「音楽評論」をやるときに音楽クリティック・クラブの有力と目されるメンバーに手土産をもって挨拶にいく、というようなことが行われていた形跡がありますが、これも彼らがそれを求めたというより、周囲がそういう風にしたほうがいいのだろうと空気を読む/忖度する、ということに過ぎなかったようで、わたくしはそのような作法を経て音楽クリティック・クラブに入ったわけではありませんし、もちろん、誰かからそのように「挨拶」されたこともございません。)

[追記]

関西の「音楽評論」の歴史は、まだ誰もちゃんとまとめてはいないし、戦前のことは私も(まだ)よく知りませんが、1962年の音楽クリティック・クラブ結成は、おそらく1950年代に朝比奈隆グループ(関西交響楽団と関西歌劇団)が関西楽壇を席巻して、朝日新聞社が1958年に大阪国際フェスティバルにスタートする、といった動きと何らかの形で連動した音楽言論人のリアクションだったのだろうと思われます。

朝比奈グループ、特に武智鉄二を演出に起用した創作歌劇は関西の新聞等を巻き込む大騒ぎになりましたが、その時点の関西の新聞では公演評を新聞記者が書いていました。「音楽之友」のような東京の音楽雑誌の関西の消息を伝えるコーナーも関西の新聞記者が書いています。

文化人・音楽ジャーナリスト・音楽関係者等が、このように新聞記者(ほぼ全員が武智のオペラに批判的だった)に制圧された「マスコミ」とは違う意見を発表する場としては、当初は、関西音楽新聞のような公演主催団体のPR紙くらいしかなく、あとは、戦後新たに創刊された「音楽芸術」が「音楽之友」とは違う書き手を探しつつあって(のちに「音楽現代」を創刊した中曽根松衛が「音楽芸術」で活発に動いていた)、上野晃などは主にこちらに書いています。

また、大野敬郎は大阪労音幹部出身、小石忠男は神戸のラジオ放送局出身、日下部吉彦は朝日新聞から朝日放送に移った音楽プロデューサー/テレビの報道番組パーソナリティ出身で、このように見ると、新聞記者が批評「も」書く、という体制の外部から出てきた言論人によるパフォーマティヴな批判という機能が関西における音楽評論家グループの結成以来のアイデンティティだったように思われます。

(朝比奈隆は、関西交響楽団と関西歌劇団を切り盛りする過程で新聞/マスコミの弾幕の一斉射撃を浴びて、評論家・文化人という別の審級がなければそのまま沈没していたかもしれない時代をくぐり抜けていたわけで、晩年まで「音楽評論家」に敬意を払っていたと聞きます。私が大阪の音楽評を書くようになるのは朝比奈没後なので、直接何かを体験したわけではないですが。)

その後も、新聞社(記者クラブ)との関係、東京の全国規模の音楽ジャーナリズムとの関係で一定の存在意義を確保する、というのが、音楽クリティック・クラブの役割でありつづけていたように見えます。

でも、新聞や音楽雑誌の役割や意味合いが変われば、このグループの意味もかわっていかざるを得ない。

(現在では、(関西でも)広報・マネジメントを仲立ちにして実演家と報道機関が仲良くタッグを組んで興行を打つ枠組が急速に形成されて、いわば、パフォーマーと情報メディアの共同体が「公衆」を共同統治・共同管理しようとしているように見えます。そのような環境に、批評の場所はたぶんないでしょう。「歌劇」という情報誌を劇団が自前で出す宝塚歌劇のような自給自足の娯楽産業システムが、関西(とりわけ「維新」のお膝元で公的助成に頼ることのできなくなった大阪)では、興行全体に適用されつつあるように思われます。)

[例えば、現在では音楽評論家に「報道資料」と銘打つ文書が届くことが日常化しており、公演にご招待いただく場合も、所定の用紙に「所属団体」なる項目を記載するフォーマットが標準になりつつあります。批評というのは、所定の「団体構成員」として執り行う業務ではないわけですが(笑)。]

いずれにせよ、なんとなくありがたがられている人たちが「挨拶」や「忖度」で業界の片隅にいる、という風なイメージは、事実というより思い込みを多分に含む副次的な事柄だと思いますし、わたくしは、そのようなイメージを身にまとうつもりはないので、そのような正体不明のイメージの発生源から距離をとるのは、ちょうどいいタイミングであろうと思っている次第です。