ミューミュージコロジーの前提:北米の知識人がヨーロッパにアイデンティファイした時代

ニュー・ミュージコロジーのアンソロジーにしばしばタラスキンの論文が収録されているのが、前から疑問だった。

タラスキンがロシア/ソ連の音楽に関する知見をベースにして展開する議論は確かに的確で、その前の世代を乗り越える視点を含むとは思うけれど、そんなことを言えば、1970年代80年代の音楽学者たちだって、冷徹な実証と現代音楽に刺激を受けたのであろう醒めた作品分析で、その前のフリードリヒ・ブルーメあたりの戦後第一世代を乗り越えたわけだから、学説が正常・順当にアップデートされただけのことではないか、ことさら「ニュー」ミュージコロジーというほどの画期ではないんじゃないか、と思うのです。

(そして1990年前後の日本からの留学生がメンデルスゾーン(星野)やリヒャルト・シュトラウス(岡田、広瀬)や華麗様式のピアノ・コンチェルト(小岩)の研究で成功できたのは、1970/80年代の研究者たちが処理・アップデートしきれなかった領域を機敏に見つけて食い込んだからだと思う。そういうのは、ごく普通の「学問というゲーム」のプレイだと思う。)

でも、タラスキンの京都賞講演や新聞のインタビュー記事と比較しながらチャールズ・ローゼン(北米の大学の音楽学コースでは主著が必読書になっているらしい)のざっくばらんなレクチャーを見ていて、思い当たったことがある。

ローゼンが7歳で最初に聞いたコンサートはトスカニーニとNBC交響楽団のベートーヴェンだったそうで、大学ではロジャー・セッションズなど1930年代以来の重鎮に学んだらしい。第一次大戦後に人とものが欧州から新大陸に大移動して、「世界システム」のヘゲモニーが合衆国に移転した時代を現在進行形で目の当たりにした世代なんですね。

ローゼンは、欧州の音楽・文化を「自分たちのもの」として語る。

北米に居ながらにしてトスカニーニやシェーンベルクやラフマニノフを聞くことができたこの世代には、欧州人より欧州的にものを考える「世界市民」の自意識があるんじゃないかと思うのです。

たぶん、こういう自意識が20世紀の「新体制」を支えたのだろうし、そのことへの抵抗・違和感が「ニュー・ミュージコロジー」というスローガンなのでしょう。

日本の「近代」の知識人は近代化と西洋化を混同しがちで、西洋化を近代化と混同する舶来信仰・ハイカラ趣味は日本の近代の恥部だ、みたいな自虐的日本批判(屈折した日本人論の変種)があるけれど、北米の知識人のなかにも近代化と西洋化の混同はあったし、第一次世界大戦後の北米が欧州に勝ったかのような世界情勢は、地球規模でその種の混同を助長したのではないか。

そして「ニュー・ミュージコロジー」というスローガンは、1960年代以後の北米知識人の「上の世代」への反発が、「上の世代」のロールモデルであったところの欧州への反発に転移してしまっているんじゃないか。

(だから、日本の文脈で、「戦後文化人」なるものへの反発とくっつけることができてしまうのではないか。)

でも、学説のアップデートと、その種のアンビヴァレントな「御家騒動」風の感情は、分けた方がいいと思うんですよね。

「ミュー・ミュージコロジー」なる運動は、「20世紀北米音楽文化論」(北米知識人たちの「御家騒動」)として語られるべき案件と、西欧芸術音楽論のアップデート(学説史)に分解したほうがいい。

大阪フィルと大栗裕

大栗裕の没後30年記念演奏会は2012年の命日(4月18日)に近い4月20日にザ・シンフォニーホールで大阪フィルと大栗裕記念会の共催で行われましたが、今年は生誕100年で、誕生日(朝比奈隆と同じ7月9日)に近い7月11日に大阪フィルが神戸の演奏会で「管弦楽のための協奏曲」を演奏してくれます。朝比奈隆が欧州で数度演奏しただけの作品なので今回が日本初演です。

没後30年演奏会は東北の地震の1年後、大植英次が3月までラスト・イヤー興行をやって大阪フィル音楽監督を退任した直後のタイミングでした。

今回は、既に首席指揮者を退任している井上道義が最後の力を振り絞るように大阪フィル創立70年記念興行としてバーンスタイン「ミサ」をやった翌年で、しかも、北摂で地震があった直後というタイミングになりました。

没後30年演奏会の指揮は手塚幸紀さんで、今回は秋山和慶さん。大阪フィル2代目音楽監督の大植英次は、ラスト・イヤー2011年の大阪クラシックで「大阪俗謡による幻想曲」を取り上げてくれましたし、そのあとを受けた首席指揮者の井上道義は、2015年の大阪音楽大学100周年記念吹奏楽演奏会で「俗謡」吹奏楽版を指揮しましたが、3代目音楽監督の尾高忠明も、いつか大栗裕にアプローチしてくれるでしょうか?

何度か書いていますが、大栗裕が亡くなった1982年頃から朝比奈隆はオペラと縁を切って、「シンフォニー一筋」になります。そしてこれは、大阪フィルが劇場のピットに入らなくなり、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーのオーケストラになったのがこの頃からだ、ということでもあります。放送局の管弦楽団のメンバーを引き抜いたり、京都の映画撮影所の仕事をしたり、オペラをやったりしていた関西交響楽団時代の痕跡が消える転機ですね。

大栗裕は、大阪フィルにとって、そして朝比奈隆にとって、「関響時代とは何だったのか?」ということを考えるための参照点のような存在なのかもしれません。

もちろん、こういう風にアニヴァーサリーの「格好が付く」のは天然自然現象ではなく、そのように物事を進めようと意志を持って動く関係者がいるからです。ありがたいことです。

例えば、生誕100年にちなむ演奏会は他にもいくつかあって、そのパンフレット等をみながら、最近のコンサートのプログラムは写真を多用して見た目が華やかになったなあと思います。没後30年の前後にご遺族が「大栗文庫」に寄贈してくださって、それで、大栗裕の色々な写真をこうしたパンフレットで使うことができるようになりました。

音楽会(音楽界)の周辺でこうしたインフラをコツコツ整備することは大事ですね。

書物は、なるほど「産みの苦しみ」を伴うだろうが、所持・保管するのも大変です

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6月18日朝の居間の写真。左に見える大栗裕と関西の洋楽関連の資料ファイルの棚は無事でしたが、「近代日本をカルスタ・ポスコロ!」系統の本をまとめて収納している本棚が倒れた。家具調にガラスの引き戸(もちろん粉々に割れた)が付いていたので、復旧に手間取る。

大阪北部地震(という呼称でいいのでしょうか)は、大半が阪神淡路大震災以後に書かれたもので、東日本大震災を契機に刊行されたものを含む著作の山のなかから、尾原宏之『大正大震災』を発掘してガラスの破片を払う貴重な体験をさせていただける機会となりました。

大正大震災 ─ 忘却された断層

大正大震災 ─ 忘却された断層

音楽史関係の書庫にしている奥の部屋の復旧はこれから。

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写真に見えるスキャナーを含めて、パソコン等の機材が無事だったのは幸いでした。

震源が近い今回の地震のほうが、震源が遠い1995年より被害は軽い。

それにしても、「耐震設計」を謳う最近の建物では収納スペースが作り付けで、住居に本棚やCD/DVDの棚(仕事部屋のオペラDVDと大判楽譜の棚も倒れた……)を置く者を時代遅れの危険人物としてあぶりだすかのようになっているのは嫌な感じですね。

(茨木市は、80年代に川端康成記念館を作り、90年代に中央図書館を新設して、「文学の街」を演出しようとしたこともあったんですけどねえ。)

書物の著者が「産みの苦しみ」を共有する者同士の(どこかしらカトリック的な)共同体を欲する奇妙な時代は、同時に、書物を所有する者たちが生命の危険にさらされる時代にもなりつつある。

いずれにせよ、人は、著者と対話することを目的として、そのための手段として書物を読むわけではないのだから、著者が偏屈であったとしても、「ああそうですか、どうぞご勝手に」ということだと思いますが。

[追記]

本棚が無事だったので、床に散乱した本を所定の場所に戻すだけでよく、書庫の整理は半日で終わった。

その間、改めて手持ちの本を1冊ずつ手に取ることになったわけだが、ポピュラー音楽関係の本は、ここ10年くらいで一気に増えましたね。

ポピュラー音楽関係の本は、(現状ではまだ)体裁・装丁としても内容の密度としても学術書と一般書の中間と言うしかないものが多い。書棚の上のほうにまとめて置いていたせいで、これらの本は一番最後に落ちたようで、床の上の本の山の表面をポップスが覆っていた。しかも高いところから落ちたので広範囲に散らばっており、大切に保管したい本の上に、一応持って置いたほうがいいのだろうけれどもなんだかなあ、という本がばらまかれる結果になった。

もう一度高い棚に上げるのは大変なので、これからは、ポピュラー音楽関係の本は床の端っこに積み上げることにする。ゼロ年代を査定した結果の降格人事である。申し訳ないけれど、大切な本から塵や埃、落ち葉を払って、床を掃くような感覚でございました。

学問として成熟したら、ポピュラー音楽研究もこれからは事情が変わっていくのでしょうか。

『物語のディスクール』の人類学的ディスクール

ジュネットの Discours du récit という本が日本では『物語のディスクール』の題で訳され、英語では Narative Discourse と訳されているようだが、ジュネットの序文をとりあえず日本語訳で読んでみると、やはり récit という言葉が問題であって、これは直訳すれば「語られたもの」だけれども、同時に文学ジャンルとしての「小説」(フランスでこの本を手に取るような読者層であれば即座に1ダースくらいの既読作品が思い浮かぶであろうような)を指すわけですよね。

序文の最初の、 récit は曖昧な言葉だ、というのは、19世紀フランスが誇る散文文学ジャンルが「語られたもの」というそっけない言葉で総称されているのは奇妙ですね、ということだと思う。

で、著者は récit という言葉のそうした曖昧な通常の用法を異化して、この言葉を「語られたもの」の意味でしか使えないところに追い詰めていくわけだが、そのための仕掛けは、récit の分析のための実例として、通常 récit には分類されないであろう叙事詩オデュッセイアを持ってくることだと思う。著者は、何の断りもなく、いきなり、当たり前のことのようにホメロスを実例として参照しながら、本書の基礎概念を手際良く説明する。そうして、récit という(フランス語の文脈では)扱いがやっかいな言葉を、histoire を指し示すシニフィアンであり、naration という行為によって生成される、というような、典型的な構造主義記号論の枠組に鮮やかに収めてしまう。

「文学ジャンルとしての小説」を指し示す言葉だったはずの récit が、「出来事(histoire)」を指し示す記号としての「語られたもの」になり、そのような記号作用を発動する行為として「語り(naration)」が浮かび上がるのは、「物語 narative 」の典型ではあっても「小説 récit」とは呼べないはずの叙事詩の古典の側から近代の récit を捉え直したからだと思います。

(まだ「メタレプシス」のところは読んでいないけれど、ホメロスの側から小説を論じる「人類学的小説論」なのだとしたら、古典的なレトリックの術語が出てきても不思議ではないですね。)

récit という言葉のフランスにおける用法に依存した著者の語りの力業を外国語に訳すのは大変だろうとは思うけれど、それにしても、普通にタイトルを訳すとしたら「小説のディスクール」だろうと思うし、日本語訳にせよ英語訳にせよ、「物語/narative」という本書が文中の語りによって一歩ずつアプローチしようとしている事柄をあらかじめ書名に掲げてしまうのは、翻訳推理小説がタイトルを「意訳」して犯人の名前を翻訳タイトルで明かしてしまっているのに近いのではないかと思いました。

あと、histoire / récit / natation の訳語は、やっぱり「出来事/語られたもの/語り」くらいにするのがいいんじゃないのかなあ、と思った。

(ホメロスの側から近代小説を読み解くジュネットに刺激を受けてゲームの構造主義分析をやるとしたら、その参照点となる、遊びの文化のホメロスは、いったい誰なのでしょうか。この参照点の深度によって、ゲームの物語分析は本格的にもなれば、ちゃちにもなるんだろうなあ、構造主義と呼びうる人類学的広がりを確保するには、ビデオゲームのはるか以前からあるなんらかの遊びの典型を召喚することになるんだろうなあ、と思いました。

サブカルチャーは「雑食」なのだから研究態度も雑食に、使える道具をつぎはぎで組み合わせていいのだ、という同語反復風で論点先取風の居直りがどこかに出てきてしまうことがあるけれど、人類学的視座で析出された分析概念はきちんと人類学的視座で使う、というような骨太の議論を私は読みたい。そういうやり方で、「王」と「民衆」の立場を越えた地平を開くことこそが知・学問の力だと私は信じているので、サブカルチャー論が「王」(もしくは20世紀新体制の王であるところの「大衆」)を喜ばせる「社交のレトリック」に安住するのを見るのは不快です。)

文字も読めるし楽譜も読める vs 文字は読めないが楽譜は読める

無文字社会が紙と出会ったときに、文字の読み書きはしないが楽譜(音の記譜)は読み書きする、というように、文字と音が別立てで紙に記載される文化が成立した、という事例はあるのだろうか。

そういう事例が存在すれば興味深いことだと思うし、ひょっとすると、20世紀初頭のヨーロッパのインテリが黒人音楽(ジャズ)に魅了されたのは、アフリカの太鼓ことばのような「言葉ならざる音コミュニケーション」に似た、言葉とは別立ての音の文化が現在進行形でここに生きている、と思ったのかもしれないが、どうなのだろう。

少なくとも西欧の記譜法は、文字の読み書きが大文字小文字の使い分けと分かち書きを実装して、かなり高度化した段階で教会のなかで生まれているので、「(文字は読めないが)楽譜なら読める」というのはなくて、「(文字が読めるし)楽譜も読める」人々が教会のなかに、そしてのちには宮廷の周囲に現れた、という順序だろうと思う。

そう考えると、ギリシャの音楽論の中世教会への導入は、「理論(musica)」としてはボエティウスだからかなり早いことになるけれど、聖歌の実践にそうした「理論(musica)」が適用されるのは、かなりあとだと考えた方がいいのではないか、という気がする。

ムシカ・エンキリアーディスのような例はあるにしても、ひょっとすると、ネウマ譜に基準線が導入されるまでは、まだ、聖歌の実践とギリシャの理論の関係が確定していなかったのではないだろうか。

ヨーロッパの「紙/文字の読み書き」は、中世後期からルネサンスには、自分たちより進んでいたイスラム文化の導入=翻訳のメイン・フィールドだったようだが(翻訳を容易にするために分かち書きが一般化した、という説があるほどに)、聖歌の記譜もまた、すでに最初から(神の)秩序が浸透して形の定まっていたものを記録・記述したというよりも、ギリシャの理論(ユダヤの文化とは由来からして異質であるような)との関係が曖昧であった「うた」を理論に対応づけて再定義したんでしょうね。

別に目新しい話ではないと思うけれど、「紙メディアと音楽」という話の出発点はそういうことなのでしょう。

音楽の様式史として記述されてきた話を、音のメディア論的な布置の変化として語り直すことは、このあたりまで遡って、一度徹底的にやっておいたほうがいいんでしょうね。

芸術と修辞:「論理がないならレトリックを使えばいいじゃない?」

前のエントリーの続きです。

東大や京大の「文学部」が(かつて?)そうであったように哲学の一領域として美学・芸術諸学を立てるときに、美学、感性論が哲学の一領域だということは(本当にそうなのか吟味しはじめるとややこしいにせよ)なんとなく納得していいように思える一方、芸術諸学はどうすればいいのか。アートは論理的ではないけれども高度なレトリックを駆使しているのだから尊重すべし、というように、修辞学に保証人として裏書きしてもらう戦略が有望視されているのだろうか。

芸術学において修辞学が肝である、というのは、西欧で伝統的にもしくは遅くとも近世以後は一般的にそうなのだ、と言えるのか、日本のように芸術が哲学の軒下を借りている状況が強いる制度的な事情に過ぎないのか、私にはよくわからないのですけれど、ともあれ、論理という存在証明の知ではなく、修辞という効果の戦略に賭ける、という態度があり得そうだということですね。

佐々木健一の美学は演劇の台詞のレトリック分析から出発していたし、礒山雅は、(いちおう)バッハをはじめとするドイツのカントールたちの音楽修辞学の研究から出発したことになっている。ゲームの修辞学が21世紀に提唱されるのは、そういう系譜としてわかりやすい。

でも、レトリックにフォーカスしてアートを語ると、どうしても「バロック的」になりそうな気がしないでもない。帝王学っぽい気がするんですよね。

立憲君主国の研究者は、そこに安住の地を見いだすのが穏当なのかもしれないけれど。

(文学におけるレトリック論の極北として、成功した作家が手遊び風の「文章読本」を書く、というのがこの島の昭和の風景だったようだし。)

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

この文学研究で評価の高い本がどのように論を立てているのか、便利なタームをつまみ食いするのではなく、ちゃんと読んでおいたほうがいいのだろうか。

[追記]

ちなみに、なにかと東大に対抗しがちな京大系美学には、少なくとも昭和の頃には「我々は小手先の口舌の徒ではない」というポリシーみたいのがあったような気がします。美学に関しては、東大系のほうが都会的にレトリカルで、京大系のほうが愚直に芸術の存在理由を論証しようとしていたようです。恩師谷村晃の「人文科学としての音楽学」「音楽をめぐる思考ではなく、音楽による思考」というスローガンもその系譜でしょうね。

(私が阪大の大学院に入ったころは、古株の院生に、「存在の開け」とか言う人がまだいたし。)

芸術の存在論の試みは、成功したと言えるのかどうか難しそうで、少なくとも最近は人気がなくて、谷村門下からオペラとヴィルトゥオーソという音楽のレトリックの打ち上げ花火を賞賛する岡田暁生が出て、渡辺裕が阪大でシニカルなレトリックに腐心する弟子たちを育てたので、そのあたりは、もう見えにくくなって久しいですけれど。

でも、繰り返しになりますが、芸術学において修辞学が肝である、というのは、西欧で伝統的にもしくは遅くとも近世以後は一般的にそうなのだ、と言えるのか、日本のように高等教育機関における芸術研究が哲学部門の軒下を借りている状況が強いる制度的な事情に過ぎないのか、私にはよくわからない。

文芸批評でジュネットは重宝されているようだし、「ニュー・ミュージコロジー推し」の福中冬子が20世紀のオペラをジュネットで分析しようとするのを日本音楽学会のシンポジウムで見かけたことがあるし、ゲームの分析もジュネットだと吉田寛は主張するし……、最近の人文科学では、ひと頃の構造主義記号論のようにジュネットがもてはやされているようですね。

アートとはレトリックである、というのは、ほぼ、アートを「遊び」とみなすルドロジーだから、そういうことを知識人が喧伝するのは、大衆が「アートは理屈ではなく感性だ」と受け止める俗情を、逆なでするのではなく、むしろ裏書きしてしまう。

(手品のトリックを種明かしして、それ以上のことは何もありません、と片付けるようなものだ。)

間違ったことが主張されているわけではないけれど、倫理の問題として、それは、「近代」がアートに期待したような批判・諷刺(=批評)とは違う道なのだろうと思う。

(ドン・キホーテの散文的ユーモアを近代文学の始祖と崇めた時代は終了しました、ということですね。)

ルドロジカルな修辞学でアートを擁護する、というのは、ネオリベ的な北米流(映画をメイン・フィールドとするナラトロジー、つまりは「現代の神話」をメディアミックスでグローバルに発信すれば勝ちだよね、の思想)への対抗軸ではあるかもしれないけれど、同時にそれは、何かを断念した先に出てきた「ヨーロッパの断捨離」(現代のプチ・トリアノン)という感じがします。それで上手くいくのかどうか、まだ、よくわからん。

(そういえば、昨年、六本木ヒルズの森美術館で「マリー・アントワネット展」というのをやっておりましたが……。)

言葉で遊ぶ/パーソナル・コンピュータで遊ぶ/携帯通信機器で遊ぶ

ビデオゲームをめぐる議論に小説論を介して弁論術の概念が移植されて有望視されているらしい、と聞くと、話のつながりがすぐには見えないからびっくりするが、弁論術や小説(文学)とは言葉で遊ぶことである、と言ってしまっていいのだとしたら、人類の遊びの一大領域であり続けてきたと思われる「言葉遊び」には、パソコンで遊ぶビデオゲームを考えるうえで参考になる知見があっても当然か、という気がしてくる。

(90年代の和製ビデオゲームの隆盛は出版社(=言葉遊びを活性化する装置)が主導するメディアミックスだったようだし。)

そして「パソコン遊び」こそが遊び/ゲームの一大画期であり、ここに照準を合わせることで「ゲーム研究」が「学」として成り立つ、という見通しでやっている人たちが、ケータイを使った遊び(ソシャゲとかポケモンGOとか)の勃興を前にして戸惑うのは、「遊び」においてパソコンの登場が本当にそこまでの画期だったのか、立ち止まって考え直す頃合いがきている、ということなのではないかとも思う。

ゲンロン8 ゲームの時代

ゲンロン8 ゲームの時代

  • 作者: 東浩紀,井上明人,黒瀬陽平,さやわか,吉田寛,橋野桂,イバイ・アメストイ,ランディ・アウ,坂上秋成,アレクサンダー・R・ギャロウェイ,松永伸司,今井晋,オレグ・アロンソン,エレーナ・ペトロフスカヤ,上田洋子,許煜,仲山ひふみ,プラープダー・ユン,福冨渉,速水健朗,辻田真佐憲,市川真人,海猫沢めろん
  • 出版社/メーカー: 株式会社ゲンロン
  • 発売日: 2018/06/07
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「ゲームの時代」というタイトルにおいて、「ゲーム」は「進行中の現在」の換喩なのか、それとも、「私たちが熱かったあの懐かしい90年代およびゼロ年代」(ということは、ほぼ「平成」(←来年で終わってカウンターがリセットされることになっている))の換喩なのか。

元号の(メタ)ゲーム的リアリティ、ということを、ひょっとしたら語りうるのでありましょうか。

あと、ゲーム研究はレトリックを参照するのがグローバル・スタンダードなのだとしたら、ゲーム研究を標榜する高等教育機関に、俳諧連歌や川柳、さらに遡って漢詩や和歌、といった言葉遊びを教えるスタッフを抱えるのが望ましい、というような見通しになっていくのでしょうか。

歌手・言葉が前にせり出す「歌謡曲」の起源

「J-POPは歌謡曲と違ってサウンドの快楽を優先する」というのを、曲が先にあってあとで歌詞を付ける製作プロセスとリンクさせると、なるほど、と思えてしまうけれど、今ではむしろ、「かつて歌謡曲では歌手・言葉が前にせり出してバンドのサウンドが背景に退けられていたのは何故か」ということのほうが謎のような気がします。

黎明期のレコード歌謡は単一のマイクで収録されていたようだから、その頃の録音バランスが長く標準になっていたのか、とも思ったのだけれど、いわゆる「洋楽」は、たぶんそれほど歌手・言葉を前にせり出させないのだろうから、レコード歌謡のバランスは歌手を強調するのが標準である(伝説のクルーナー唱法以来レコード歌謡とは歌手・声重視のジャンルなのだ等々)とは言えなさそうだ。

声をバンドのサウンドより重視するバランスの起源を黎明期のレコード歌謡に求めることができないとしたら、どこに鉱脈を探せばいいのか? レコード歌謡の誕生以前から日本古来の感性は「声重視」なのだ、みたいな神話的な起源を主張すべきなのか、それともレコード歌謡誕生以後のどこかにポイントがあるのか。

オカルト的なナショナリストでないのであれば、後者を探索すべきでしょうね。

似た事例として、以前、「刑事コロンボ」のオリジナルと日本の吹き替え版を比較したら、日本版ではオリジナルよりSEやBGMの音量が絞られていた。映画でもこうしたことがあるのだろうか?

でも、映画では、日本の作品でもかならずしもSEやBGMを極端に絞っているとはかぎらないように思うので、これは、洋物を字幕ではなく吹き替えで放送したテレビ特有のバランスだったのではないかと思う。

「歌謡曲」の歌手・言葉が前にせり出すバランスは、もしかすると、まだステレオ放送が実現していなかった時代の貧弱なスピーカーのテレビ(ということは1950年代から1970年代)の感性なのではなかろうか。

承前:アメリカ合衆国が移住先に選ばれた理由

去年、女性ピアニストの系譜を整理したときに、マイラ・ヘスとかワンダ・ランドフスカとか、戦後LPを通じて日本でも名前が知られていた鍵盤奏者たちが、どうやら第二次世界大戦中に、ナチスと闘う聖女、のイメージで喧伝されていたらしいことを知ったのですが、第二次世界大戦中の欧州の音楽家たちの合衆国への移住を、ステレオタイプに「ナチスを逃れて自由の国アメリカへ」という物語に収めてはいけないかもしれない。

ストラヴィンスキーが「ダンバートン・オークス」で元外交官のブリスとコネクションができて、ハーバード大学に招聘されてそのまま移住、という経緯を見ていると、移住は理念主導の政治的アクションというより、もっと実際的な縁の積み重ねで実現したのだろうと思えてくる。

バルトークの場合、シェーンベルクの場合、コルンゴルトの場合、ヒンデミットの場合、等々、それぞれを個別に見て、「創られた人民戦線神話」を崩しておいたほうがいいんでしょうね。

(その一時代前のロシア革命後の亡命/再帰国といった音楽家たちの複雑な動きについては、最近、随分慎重に取り扱われるようになったような気がしますが、第二次大戦中の移住をどう捉えるか、というのは、少なくとも私には、まだ全貌がよくわからない。)

関連して思うのだけれど、「自由の国アメリカ」への移住は「正義」であって、彼らが脱出せざるを得なかった帝政ロシア/ソ連やナチス時代の欧州は「悪」もしくは「闇」である、というイメージは、ひょっとすると、冷戦後の「ニュー・ミュージコロジー」なるスローガンにも影を落としているのではないでしょうか。

この運動は、要するに、音楽における「悪の枢軸」であるところのドイツを北米の音楽学者が成敗する、戦後アメリカが建国した傀儡政権としての「西ドイツ」による自助努力ではまったく不十分である、サダム・フセインをイラクから排除したように、これからはアメリカが欧州の音楽を直接統治するから覚悟せよ、みたいな話なわけですよね。

カルスタ・ポスコロには20世紀文化史の見通しを良くする効用があると思いますが、それは一周回って、ニュー・ミュージコロジーに対するカルスタ・ポスコロを要請するところまで行きそうな気がします。

コープランドやバーンスタインもその一翼を担ってしまった「パン・アメリカ」の理念などは、既に批判的な吟味の対象になりつつあるようですし……。

北米のパトロン:ダンバートン・オークスのロバート・W・ブリス

ダンバートン・オークスというと、音楽好きにはストラヴィンスキーのコンチェルト・グロッソで、現代史好きには国連憲章の草案が作成された実務者レヴェルのダンバートン・オークス会議。

外交官のロバート・W・ブリスが引退後の住居として広大な土地を購入したのだけれど、のちに土地と住居を母校ハーバード大学に寄贈。そうこうするうちに、第二次世界大戦に合衆国が参戦することになって、引退していたブリスは国務省に呼び戻され、国務長官の特別補佐官を務めたらしい。国務省の特別職にあったから、旧邸を国際会議の場に提供する段取りをつけられたのでしょう。

一方、パリ大使館にいた1920年代に当時結婚した妻とともに芸術作品の収集に手を染めて、ハーバード大学には邸宅とともに収集品も寄贈されたらしい。パリの芸術家たちとの縁ができて、ナディア・ブーランジェ経由でストラヴィンスキーに作曲を委嘱できたのは、このあたりのルートからなのだと思われます。

ブリスの経歴は、第一次大戦後に、それまでの欧州社交界にかわって、北米の要人たちが芸術のパトロンになる好例ですね。

「アメリカの台頭」は、決してニューメディアと新体制による大衆化だけではない、と。