リアリズムの条件:オペラの20世紀/テレビの20世紀とのつきあい方

一連のエントリーで考えたことは、リアリズムといっても文学(自然主義)と演劇(いわゆる新劇)と放送(実況中継)は、互いにリンクしているけれど存立条件が違っている、ということかと思う。

19世紀に隆盛を誇ったオペラ劇場が20世紀に凋落したときのてこ入れ策が色々あって、20世紀のオペラには自然主義文学も新劇もテレビ・放送・ビデオ映像も全部試みられて、でも、まるでスペクトル解析のように、オペラに入ってくると「リアリズム」といっても文学の影響、新劇の影響、テレビ・放送・ビデオの影響は、全部現れ方が違っている。

ひとつのジャンルが凋落する様子が「社会を映す鏡」になることがあるようですね。

テレビの凋落(それに付随する各種芸能の凋落)に付き従って、そこに「研究」の素材を見つけようとする人たちが21世紀にはたくさん出てきそうな気配だけれど、「オペラの20世紀」との息の長いつきあい方が、何かの参考になるかもしれないね。

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

読み替え演出のパントマイム的な演技

オペラの読み替え演出は言葉(歌詞)が指し示すのとは別の物語が進行するわけで、そういう舞台を見て何がどのように読み替えられているのか観客が受信できるのは、言葉なしに所作(と舞台美術)からドラマを読み取っているからだと思う。所作(と舞台美術)が、言葉を消してもドラマを成立させているわけで、読み替え演出の演技はパントマイムのような受け止められ方をしていることになる。

(そして演劇史的には、オペラの読み替え演出が、「言葉の演劇」に対する20世紀の反発、という系譜に連なっているということだろうと思う。)

……というところまでは、少し前に考えていて、この話をうまく展開していくことができないものかと思っていたのだけれど、

私たちは、このようなパントマイムが、言葉(や歌や音楽)と同期していなかったり、予期せぬ回路でリンクしてしまったりする様を楽しんでいるわけだから、ひょっとすると、読み替え演出の舞台は、全体として、「口パク」に近い何かになっているのかもしれない。

言葉と歌と音楽(とドラマ)が同期していないことに苛立つ人もいるけれど、通常の上演(それらを何とか同期させようとするような)を知らないお客さんは、むしろ、「読み替え」を何の抵抗もなく楽しむことが多いと言われている。

それと関連するかもしれないし、別の話かもしれないけれど、

舞台上の演者の言葉(台詞)と芝居が同期・シンクロするリアリズムは、舞台パフォーマンスとしても、むしろ、後発ですよね。

古代ギリシャでも、コロスや口上は演者自身の言葉として受け止められただろうけれど、ドラマがはじまると演者は仮面を付けたわけだから、仮面の背後で「口パク」しているようなものかもしれない。

日本の仮面劇である舞楽や能と、仮面をつけない狂言は、どうやら別の由来と文脈で展開してきた可能性があるようだし、演者が台詞を語る(=演技と台詞が同期する)歌舞伎には人形浄瑠璃が先行している。

それに、韻文の演劇(旧来演劇とはそういうものだった)や歌う演劇(オペラですね)においては、はたして、特有のリズムで進行する台詞や歌が、役者の演技・所作とシンクロしていると言えるのか。どうやら、そうではないような気がします。

視覚情報と聴覚情報、音と身体が同期している状態というのは、むしろ、そっちのほうが無数の約束事の上に成り立つ人工的なパフォーマンスなのではなかろうか。

(かつての劇場は暗くて、語ったり、歌ったりする演者の口元は、仮面のない素面だったとしても、観客からよく見える状態ではなかっただろうし。)

言語中心主義への批判をキリスト教批判として展開する、というクリシェがあるけれど、世俗領域で、演劇・ドラマにおける現前の再検討として展開するほうが、むしろ問題を整理しやすくなるかもしれませんね。事実、ドラマや現前の問題は、映画という20世紀のニューメディアの研究が色々な成果を出しつつあるわけだし。

テレビ世代の口パクに対する特異な感受性について

ラジオとかテレビとか新聞とか、団塊ならびにそのジュニアの感性に縛られていてダルいよね。

ミュージカル映画の歌やダンスのシーンはトーキー初期からずっと口パクだし、アニメーションは歌だけでなく台詞も全部口パク(アフレコ)なのですが……。

むしろ映像コンテンツでは、音と絵を後付けで組み合わせるほうが常態で、音と絵の同時/同期収録のほうが後発で特殊なのではないかと思う。

音と絵の同時収録(かつ生放送)を前提にスタートして、これが常態なのは、テレビ放送(と同じ技術を使ったビデオ)だけではないか。そして「口パク」に違和感がある、という感性を持ちうるのは「テレビ世代」だけなのではないだろうか?

既に老人である団塊というテレビ世代は現在のこの島では各種言論の上得意客だから、この人達の感性を基準に言論を組み立てる、というのも、ありといえばあり、なのかもしれないけれど。

(アニメで育って「新人類」と呼ばれた世代がいましたが(笑)、今、かつての「新人類」の子どもたちの世代にとって「口パク」が当たり前なのだとしたら、それは、団塊ジュニア世代の60年代を反復するような数十年がようやく終わって、「新人類ジュニア」世代が動き出した、ということなんじゃないですかね。)

[追記]

そういえばテレビ放送(スタジオ外からの中継)でも、昭和の頃は、放送衛星を利用した外国からの中継「衛星中継」では映像と音声がズレるのが普通だった。

落雷時にピカと光ってから少し怒れてゴロゴロという音が聞こえることの連想なども相まって、声が遅れて届くところに、中継地との「距離」が現れている、という風に受け止められていたと記憶します。これもまた、映像と声の同期が常態で、両者のズレは特殊な状況だ、という枠組で捉えられていたわけだけれど、技術的に考えれば、たぶん、映像の受信と音声の送受信が同じしくみではなかったからそうなっただけのことだったのではなかったか。

あと、インターネットが世間に出回りはじめた90年代半ばに、坂本龍一が、ネット回線で地球をぐるりと一周して戻ってきた情報をディレイとして利用してパフォーマンスする、というのをやっていたけれど、音声のズレ/遅れに距離・遠さを知覚する、というのは、案外、ウソっぽいことなんだよね。

フェアネスの実践:「相互補完的なヒエラルキー」の成立条件

長木誠司『オペラの20世紀』のケージ「ユーロペラ」を論じた節、625-626頁には、増田聡『その音楽の〈作者〉とは誰か?』で展開された「近代美学」批判に対する批判的な読解が含まれている。(初出は、未確認ですが『レコード芸術』の連載だと思われます。)

「作者」として名前が出ることのない演奏者たちは必ずしも作者の「犠牲になっている」わけではない、という長木誠司の主張を受け入れるかどうか、鍵となるのは、ヒエラルキーの下位が上位の「犠牲になる」わけではない「相互補完的なヒエラルキー」という観察モデルを認めるか否かだろう。

フェアな作法でなされた問題提起だと思う。(この大著自体が、よくぞこの課題をこういう態度で書ききったものだと感嘆する。)

増田聡本人であれ第三者であれ、この件に関心をもち、何らかのリアクションを言葉にしたいと思う人は、私の知ったことではないので、私のこのエントリーとは関係なく、長木さんの著作を読んだうえで、長木さんの著作へのリアクションとして当事者間で進めて下さい。

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

演奏史譚「第三十五話 大阪にオペラを〜朝比奈隆と武智鉄二〜」

東京の人がこの話題を事実関係等についてノーミスで書いているのを初めて読んだ。読むべき資料に全部目を通していないと、こういう言葉遣いでこの話を書ききることはできないと思う。

朝比奈隆の欧米視察の力点がオペラにあったことをさらりと書ける人って、本当に少ない。彼の足跡、彼が書いた文章を読めば自ずとそう思えるのに……。

「夕鶴」と「修禅寺物語」(←たぶんこの歌劇は「善」ではなく「禅」の字を使っているはず、「お蝶婦人」のほうは、「蝶々夫人」ではなく関西歌劇団公演時の外題をちゃんと使っているのに惜しい!)に初演キャストによる録音があるのは当時の雑誌記事から把握していましたが、山崎さんは入手していらっしゃるのでしょうか。聴きたい!

演奏史譚 1954/55

演奏史譚 1954/55

このあたりの本の関西関連の箇所と読み比べれば、思い込み・決めつけ(&孫引き)で書いている人とそうではない人の違いがわかるはずです。

日本オペラ史 〜1952? 1953〜? 特別セット

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キーワードで読む オペラ/音楽劇 研究ハンドブック

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  • 作者: 丸本隆,荻野静男,佐藤英,佐和田敬司,添田里子,長谷川悦朗,東晴美,森佳子
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こういうことをやっていると、「大学」の信用は落ちる。

有産階級の言論

一昨日ゲンロンカフェでの対談後、東さんや土居さんと深夜二時過ぎまで呑んで話して(私は時折寝落ち)改めて気付いたんだけど、二人とも話の前提が「経営者」なんですよね。話題に上る人達(津田さん等)も同様。「被雇用者」は私だけw。対話や交流に値する人達が、どんどん大学から離れていってる。

ここで言われている「経営者」は有産者ということだから、大学の現状云々というより、言論の担い手としての「市民」(ブルジョワ)という階級概念が再発見されているのだと思う。

サラリーマン/被雇用者(プロレタリアート)の自分語りをぐるぐる回すことに知識人は退屈しつつある。

(ちなみに、わたくしはこの夏、ノアンに行く機会を得ました。ジョルジュ・サンドの実家、というか所領があった村ですが、彼女はポーランド王の庶子でルイ15世時代の大元帥だった貴族の末裔で、ショパンの伝記にも登場する彼女の息子モーリスはノアンの村長を務めたこともあって、いまでは、サンドとその一族の痕跡が「村おこし」のシンボル的な存在になっているようでした。ショパンがこの村に滞在したことは、そのようなサンド家の数世代にわたる名望を彩る「数多くのエピソードのひとつ」に過ぎない。そのような印象を受けました。)

愛の妖精 (中公文庫)

愛の妖精 (中公文庫)

(そんなサンド「愛の妖精」の邦訳を学習院の篠沢先生が手がけているのですから、19世紀フランスや20世紀日本に「市民」の文化としての文学/小説、というのがあって、音楽は(ちょうと「うた」が「ことば」に支えられて存立するように)文学に随伴する、というのが、そのような「市民」文化の布置であったと見積もるのがいいのではないかと思われます。)

ショパンとサンド

ドラクロワが描いたショパンの肖像とサンドの肖像が、もともとは彼のアトリエから没後発見された一枚の絵で、ピアノを弾くショパンの背後にサンドが寄り添う構図だったらしい。

シルヴィ・ドレーグ=モワン『ノアンのショパンとサンド』(原書1988年)では、ショパンの絵とサンドの絵が、1枚の画布の右側(ショパン)/左側(サンド)であるとの出典注記を添えて掲載されており、

ノアンのショパンとサンド

ノアンのショパンとサンド

  • 作者: シルヴィドレーグ・モワン,Sylvie Delaigue Moins,小坂裕子
  • 出版社/メーカー: 音楽之友社
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ジル・サムスン『ショパン』(原著1996年)の場合、(原著のレイアウトは未確認だが)翻訳書では、ショパンとサンドの出会いの経緯を扱う章の本文中にサンド、ショパンそれぞれの肖像を掲載して、二人の出会いを語り終えた章末に、この肖像のためのスケッチを掲載して、今では切り裂かれて失われた原画のありようを推測できるように配慮されている。

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

ジル・サムスンは、サンドからショパンへの手紙が失われてしまった経緯を紹介して、二人の関係が「実際はどうであったのか」、どのような手段を講じようとも知り得ない領域が残ることを示唆している。

「ショパンのピアノを聴くサンド」というドラクロワの原画(二人が出会った頃の絵であるらしい)が切り裂かれて失われてしまったことは、サンドとショパンの関係(生前リアルタイムに毀誉褒貶があり、後世には、サンド側に相当不利なバイアスをかけて語られてきた)を象徴するエピソードに思える。

音楽之友社が1992年に出した「ノアンのショパンとサンド」の翻訳では、表紙に、失われたドラクロワの絵の後世の復元が使われているが、原書もこういう装丁だったのだろうか?

「ドラクロワのショパンとサンド」というようなワードで検索すると、すぐにこの後世の復元の画像が出てくるが、Wikipediaを含めて、この復元が誰の手によるもので、いつ公開されたのか、よくわからない。

切り裂かれて今では失われて知り得ない領域がある、というのが肝心なところだと思うのだが、「集合知」は、そういう裂け目に耐えることができないんだなあ、と改めてがっかりする。

大著が次々出る

ゼロ年代には学者が薄い書き下ろしの新書を量産したけれど、

(そして岡田暁生の本は単行本もこうした新書同様に一晩で読み切ることのできる分量・文体なわけだけれど、)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

最近は厚い本が目立つ気がする。

(それもあって、机の上に広いスペースがないと仕事がはかどらない。)

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

天才作曲家 大澤壽人

天才作曲家 大澤壽人

武満徹の電子音楽

武満徹の電子音楽

いわゆる「クラシック音楽」も同様に厚い本が出るようになった。

シューマン 全ピアノ作品の研究(上)

シューマン 全ピアノ作品の研究(上)

シューマン 全ピアノ作品の研究 下

シューマン 全ピアノ作品の研究 下

ベートーヴェン像再構築

ベートーヴェン像再構築

これもまた、ペラ紙の「書類」を「プレスリリース」して「イベント」の体裁を整える音楽ビジネス(そしてそのようなペラペラな紙の集積が口コミやインターネットに流される「情報」のソース・典拠であると見なされているのだから、このような営みの物理的な基盤は呆れるほど「薄い」、一昔前であれば「吹けば飛ぶような」と形容されたであろうように)への抵抗の形なのでしょうか。

一方、決定版的な大部の評伝の翻訳は時流と関係なく粛々と刊行されていて、

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

ショパン 孤高の創造者 人・作品・イメージ

そのなかで、ショパンのこれは、日本語版の体裁は重厚だけれども、たぶん原著はむしろ薄くスピーディに読める本で、大著というより、最新の研究成果を見通しよくまとめた本と言うべきかと思いますが。

世界史のなかの西欧音楽

学生さんたちのレポートを採点しながら、現在のグローバルな情報ネットワークの海を検索ツールでサーフィンしながら「クラシック音楽」(東アジアのひとたちが20世紀後半に参入しようと夢見た「音楽の国」ですね)について語ることは極めてお手軽簡単なことだけれど、だからこそ、20世紀に形成されたこの観念を解体して、ヨーロッパの音楽の歴史を語り直す方法をきちんと教えなければいけないと思う。

「古代」が存在しないヨーロッパ亜大陸(大西洋に突きだした、いわば大きな半島ですよね)で中世に成立した音楽文化は、最初から東や南のより進んだ文明(たとえば楽譜という「紙の文化」はヨーロッパに外から伝わったと考えたほういいですよね)の肩の上に乗っているし、大航海時代=近代の躍進や植民地と連動した勤勉革命(産業革命)は上手に「外部」を利用していたし、20世紀にヨーロッパの音楽文化がグローバルな「クラシック音楽」に変換・昇格する過程では、ロシア東欧とアメリカ(そして東アジア)の役割を見逃すことができない。

もはや「世界の中心」という観念など持ち合わせていない現役の伝承者たちが肩の荷を降ろして音楽に取り組むためにも、21世紀の西洋音楽史が要ると思う。

バーンスタイン(「パン・アメリカ」の申し子は晩年に「パシフィック」の理念を打ち出した)と大栗裕(「大阪のバルトーク」といういかにもヨーロッパを仰ぎ見るかのようなレッテルを最後の10年で乗り越えた)の生誕100年、というのは、そういう構図をくっきり描くのに悪くないタイミングかもしれませんね。

大栗裕「管弦楽のための協奏曲」の謎

本日神戸で大栗裕「管弦楽のための協奏曲」が演奏されました。

資料からわかること、推測できることは解説に書かせていただきましたが、実際の音を聴くと、なぜ大栗裕はこの時期にこういう曲を書いたのか、改めて色々気になることが出てきました。

1960年代はいわゆる「現代音楽」の最盛期で国内外各地の音楽祭等で色々な作品が出て、日本のオーケストラも様々な機会に日本の作曲家の新作を取り上げて、オーケストラの書法が劇的に変化した時期だと思う。大栗裕のデビュー当時の「大阪俗謡による幻想曲」や「赤い陣羽織」「夫婦善哉」は恰好がついているし、1963年のヴァイオリン協奏曲はかなり頑張った「バルトーク様式」だけれど、「管弦楽のための協奏曲」は、やや苦しい。1970年のオーケストラ音楽としては色々足りない印象が否めないと思います。

で、ひょっとすると、無理矢理にでも一曲書かなければならない外的な事情があったのか、と心当たりを調べ直してみたのですが、どうやら、そういう形跡はなさそうです。

例えば、この作品はハープとチェレスタを使う贅沢な編成で、今回の大阪フィルの演奏会は、最後に「くるみ割り人形」組曲を置いてハープ、チェレスタを有効活用していましたが、朝比奈隆が1971年に「管弦楽のための協奏曲」を東欧で指揮したときのカップリングは、あまりそういうことを考えてはいなかったようです。

1971年1月8、9日ワイマールの演奏会は、大栗裕のオケコンのあとにグラズノフのヴァイオリン協奏曲が来て、後半はブラームスの交響曲第3番。(たぶん、かなり長い演奏会になったと思う。)

1月14、15日コトブスの演奏会は、大栗裕のあとがドヴォルザークのチェロ協奏曲とレスピーギ「ローマの泉」。(協奏曲のあとに休憩だとしたら前半が長すぎるし、協奏曲の前に休憩だと後半が長くなる。バランスの取りにくい3曲ですね。)

そして2月16、17日エアフルトは大栗裕のあとにハイドン「太鼓連打」で後半はブラームスの交響曲第3番。

3月1、2日ドルトムントの演奏会は、大栗裕のあとにラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が来て、後半がシベリウスの交響曲第2番。(これも長い演奏会という印象ですが、なんとコンチェルトが今回の大阪フィルと同じです。しかもソリストはホルヘ・ボレット。)

こうして演奏会のプログラムを見直すと、どうやら、大栗裕の新作には、「大阪俗謡による幻想曲」などと同じように10〜15分程度の序曲、コンサート冒頭のオードブルが期待されていたように見えます。

ところが大栗裕は20分を越える全3楽章の作品を書いた。

なおかつ、朝比奈隆はブラームスやドヴォルザークと組み合わせて、ハープやチェレスタは大栗裕のみで曲目を組んでいます。ブラームスの3番がメインだとチューバも要らない。エアフルトの「ハイドン/大栗/ブラームス」というプログラムだと、大栗作品だけが突出して大がかりですね。

どうやら、作品のサイズ(演奏時間・編成両面の)等を指定したオーダーがあったわけではなく、「たぶんまたオーバーチュア・サイズの単品を書くのだろう」と思って朝比奈隆が待っていたら、予想外に大きな作品が出てきてしまった。大栗裕が(誰に頼まれたわけでもなく)大きいものを「書いてしまった」、ということだったように見えます。

事前に国内で演奏されていないのは、おそらく、ギリギリまで書き上がらなかったから国内での演奏をセッティングしようにもできなかった、というでしょうから、そうすると、期日が迫るなかで、大栗裕が「今書ける/書きたいのはこういう曲で、他のアイデアはない」という風に(珍しく)我を通したのでしょうか?

出来映えの如何にかかわらず、オケコンを1曲書かないとここ(=「大阪のバルトーク」みたいに言われてしまう環境)から先に進めない、という心境だったのかもしれませんね。

(大栗裕の1960年代は、自身がほとんどなじみのない京都の六斎念仏で1曲書く企画を朝日放送のプロデューサーから持ち込まれて「雲水讃」を書き、これがきっかけで「大阪のバルトーク」と呼ばれてしまう、という「巻き込まれ型」な状況ではじまって、そこからの流れは、「大阪万博」に忙殺された年の終わりの唐突で謎めいた大作であるところの「管弦楽のための協奏曲」で半ば強引に断ち切られる。そういうストーリーを想定することができるかもしれません。そして、そのあとの70年代の大栗裕の仕事は、歌劇「ポセイドン仮面祭」にしても、「大証100年」や「聖徳太子讃」のような交声曲にしても、大阪国際フェスティバルのためのバレエ「花のいのち」も、ほとんど知られていない曲ですが「飛翔」(朝比奈隆音楽生活40年のお祝い)、「樹海」(大量の邦楽器を使うコンチェルト・グロッソ)のような管弦楽曲も、大阪市音楽団のための「神話」も、異形の大作が妙に状況にはまる幸福な新展開と見ることができるのかもしれません。)