近代集落としての「農村」

新潟が米所になったのは、総力戦総動員下の大規模な治水・灌漑事業の結果であるらしい(ブラタモリ情報)。九州の農村も、おそらく似たような経緯で今日に至っているのではあるまいか?

「失われた20年」の大都市での闘いに疲れた中高年がノスタルジックに語る「田舎」や「地元」は、総力戦総動員を土台とする高度成長の成果であり、都会の斜陽化した重化学工業地帯と同じような「近代の遺構」なのかもしれない。

「田舎」や「地元」への郷愁は前近代に届いていない。それは、せいぜい、高度成長の豊かな実りを収穫する「日本の秋」、70年代のディスカバー・ジャパンな「いい日旅立ち」を懐かしんでいるに過ぎないのではないか。

(「俺、安保反対運動とかやってるんだ」と言うと地元の親戚たちに鼻であしらわれる、というのは、別に、「田舎」が「都会」とは別の価値観で動いている、というのではなく、都会の親戚たちの集まりであっても、反応はたぶん同じだと思う。)

知ったかぶりと大人買い - 21世紀のうさぎとかめについて

学生や若手知識人が知識先行の経験不足になりがちなのは、そういうものなのだから、周囲も本人も、それを認めたうえで、あたかも経験豊富であるかのような「知ったかぶり」を強いたり期待したりしないほうがいいように思う。

高等教育の設計とは、知識先行で経験不足な人材をどこにどう配置しておくのがいいか、という話であって、擁護するにせよ批判するにせよ、経験不足を理由に知識人・高等教育を責め立てたり、「経験」などというものは知識が生み出す幻想である、という逆ギレ気味のポストモダンに知識人を追い込んだりするのは、逆効果なのだと思う。

まずは、「知ったかぶり」という過剰装備を解除できる環境を作ることだろう。

ただし、それじゃあそういう学生や若手の知識先行が、その後どのように推移するのか、という見通しに関して、当節は「大人買い問題」というのがありそうだ。

伝統的には、勉学の妨げにならないような「毎日30分」とか「お小遣いの範囲内で」とかいう形で、余暇や遊びの領域を用意して、これが積もり積もって、何かの「経験」になると想定されていた気配がありますよね。

若い頃にトップスピードで疾走するイソップ寓話のうさぎのような知識と、遅々として進まないけれども止まることのないかめのような経験が、中高年のどこかで同時にゴールする、というようなイメージだと思う。

でも、オタクが公認された、いわばポスト・オタク時代のクール・ジャパンには、これじゃあスピードが足りない、というので、若い頃はドーピング気味に寸暇を惜しんで「知識」を加速して、30代あたりで、こんどは、「大人買い」によって「経験」を同様にドーピング気味の猛スピードで摂取して辻褄を合わせるソリューションが用意されている印象がある。

(50代からジャズの人になった岡田暁生は「大人買い」の先駆者なのかもしれませんね。)

「大人買い」で得られたものと、余暇や遊びが長期間堆積したものを、量的・質的に同一視できるのかどうか。両者を同一視するか、しないか。そこが人文科学の未来像の分かれ道なのかもしれない。「大人買い」という時間の圧縮が可能かどうか、という観点からの余暇や遊びの分類・再編は、既に進行中なのかもしれませんし……。