ゴッドとコロニー

その組み合わせはアウグスティヌスですね!

俗世はコンピュータを神になぞらえないし、コロニーは文化・信仰の問題である以前に政治・経済の問題ですが、はじめに信仰ありき、で「真」を語る立場なんだったらしょうがない。この人はそういうひとだ、と。

終局の作法

八方ふさがりで打つ手なしの状態を(やや自嘲気味に)「詰んだ」と将棋用語で宣言する発言を最近SNSでよく見かけるような気がするのは、単に私がP情報を求めて、これまで足を踏み入れなかった領域をウロウロしているからだろうか。

「ゲーム的」だったのかもしれないゼロ年代的なものが「詰む」事案が頻出するご時世である、というようなことを、ひょっとすると言いうるのかもしれない。

売り出し中の若手の華やかな仮説が中年期・老年期に「詰む」、というのは、知・学問というゲームにおいては、このゲームの性質上、ごく普通に起きる日常に過ぎないとは思うけれど。

(知・学問は、この種の盤上ゲームのようにルールに従って「ここで終局」というのが一意に確定するとは限らないが、盤上ゲームのプロのプレイヤーには、これ以上悪あがきしても無駄、と決したところで自ら負けを宣言する作法がありますね。最近の AI は当然のようにこうした「投了」機能を学習しているらしいので、「投了」が人間固有とは言えないかもしれないが、21世紀の社交SNSで自ら「詰んだ」と宣言するのは、終局の作法として案外筋が良いかもしれない。)


囲碁では、それなりのスペースを確保して勢力を誇っていた一群の石が、目を2つ確保できずに相手に取られてしまうことを「頓死」と言うが、この言葉は別に囲碁特有ではないから流行らないか。

それにしても、Pの競技場で翼のはえた龍が日に日に強くなっていく様は壮観である。港で騒ぎを起こすことなくひたすら育てている人がいらっしゃるということですよね。まだしばらくは「詰まない」ようだ。

ワルツの19世紀

昨日は、モーツァルト(「ドン・ジョヴァンニ」)→ウェーバー(「魔弾の射手」)とシューベルト→ショパン→ヨハン・シュトラウス→チャイコフスキー→ラヴェル、という線で音楽としてのワルツ、聴くワルツのお話をさせていただきました。これまで鍵盤音楽史、舞曲史、管弦楽史の授業に組み入れていた話題をひとつの大きな流れとしてまとめることができて、私個人にとっても考えを整理する良い機会になりました。

本当は、モーツァルト、ウェーバーの先にウィーンのオペレッタがあって、何故か少女たちがアリアでワルツを踊るグノーや、パリが舞台のボエームにワルツを組み入れたプッチーニ、ラヴェル「ラ・ヴァルス」とほぼ同時代にはリヒャルト・シュトラウスのウィーンもの(ばらの騎士とアラベラ)があるのですから、オペラのなかのワルツのことも言わなければいけないと思いますが、これはまた別の機会に、と思っております。

(アデーレやムゼッタ、グノーのジュリエットがワルツで歌う、というのを視野に入れると、リヒャルト・シュトラウスの超人ツァラツストラのワルツの意味が変わる気がするのです。)

20世紀は舞踊の世紀だと言いますが、19世紀のブルジョワもそれ以前の貴族に劣らずよく踊りますね。

集合知への失望

俺がこの分野の代表だ、と言わんばかりの態度で世に打って出られるので、でしたら、そちらさまのおっしゃることが理解できるように当方としても諸々態勢を整えてみると、あっちこっちが隙だらけでがっかり。というのは、行列の出来る人気店が、行列を作らせて平気な接客態度ゆえに顧客満足度が低いのと似ている。

AIのディープラーニングが人類を変える、という議論は、そもそものディープラーニングが集合知への期待の上に成り立っていると思われるわけだが、集合知に関して指摘される限界について、どうして口をつぐむのだろう。

おそらく、ものを使う人にとっては口が軽く情報が高速に流れる状態のほうが快適だが、ものを作る人の口が軽いと、むしろ次々問題が起きる。人間の寿命が無限であれば、そのように「口が堅い人」(特定の人物にのみ情報を伝える態度)と「口が軽い人」の差異は相対的だが、人間の寿命は100歳をほぼ越えないので、特定の人物のみにある情報が伝わったところで情報源の人物が死に、その情報を伝えられた人もまた、特定の第三の人物のみに情報を伝えて死ぬ……という連鎖が想定される。こういう状態は数学的にどのように定式化されるのか。直観的には、「口の堅さ」を地上から駆逐するのは不可能だと思われるのだが。

同じことの言い替えだが、情報は平衡に達する、と言う主張は成員が入れ替わり、情報が絶えず新たに生成・消滅する開放系についても成り立つのだろうか。閉鎖系の理論モデルが、開放系で、たまたま今は成り立っているように見えているだけ、ということはないのだろうか。

AIの実用化で何かが変わるだろうけれど、ポイントはそこじゃない感がある。何か大きな勘違いがあるのか、あるいは、途方もない努力で何かをごまかして信じ込もうとしているのだろうか……。

無伴奏の台詞

主要人物が死ぬ前に必ず幻影を見るのはどういう意図なのか、ここだけは不審なのだが、今回は「軍勢をひとつの塊と思うな……」ですよね。見直すと、ここでBGMがピタリと止まって無伴奏になる。(「上田へ帰りたかった」のところは再び例の昭和風のギターが鳴っている。)

音楽劇の急所の台詞でオーケストラが止まる、という演出は、誰が最初にやりはじめたんでしょうね。リヒャルト・シュトラウスにあるのは記憶していますしプッチーニにはいかにもありそうだけれど、ワーグナーやヴェルディにもありましたっけ。主役の登場の第一声が無伴奏、というのは、オテロだけでなく、ベッリーニの Casta diva の前のシェーナとか、むしろイタリア・オペラの一つの型だと思いますが、ドラマ終盤の急所が無伴奏、というのは、もしかすると、一方でメロドラマ的な手法であり、他方で近代の無音楽の台詞劇(新劇)を意識しているのではないかと思うのですが。

(こういう話は、若者を高い意識で啓発する人たちには、泰平の世になっても「策」を考え続けて乱世にしか生きられない旧人に思えるかもしれませんが(笑)。)