昨日の世界

大阪フィル定期初日を聴いたら、インバルのマーラーの5番は四半世紀前のCDとほぼ同じテンポ、サウンドで、1980年代の「CD時代の幕開け」は、この人とかデュトワとか、もともと複製技術がなくても同一性を保持できる演奏家によってなされたのかもしれないなあ、そしてこの人のなかで、時間はそのときから今まで止まっているのかもしれないなあ、と不思議な感慨を覚えたわけだが、帰り道の淀屋橋大阪市役所前の交差点には、青信号になっても立ち止まったままスマホを操作するOLさんや初老のサラリーマンさんがいて、地下鉄構内では、若い男性が上司と思しき隣の男性に「やるなら天保山ですよ」などと言っており、やはり、20世紀末と地続きだったかもしれない夏休み前の「昨日の世界」とは異なる拡張された現実がそこにあった。私自身も、ミニリュウがそこに出たのを目当てに、わざわざ四ツ橋筋から御堂筋に回り道したのだから、他人をとやかく言えないわけだが。

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(なるほどこういう人たちの「CDでもライヴでも一緒」であるような演奏を聴いていたら、もうクラシックは終わったという気になるのも無理はないが、21世紀のクラシック音楽は、もはや別の風景を作り出しつつあるのだから、どっこい大したもの、かもしれない。少なくとも、アドルノや村上春樹で総括できるものではなくなっていると私は思う。おそらく21世紀は、短い20世紀を呪縛した精神分析を「昨日の世界」に放置して先へ進む。)

親の世代・子どもの世代

「初代ポケットモンスターに、当時のゲーマーたちは見向きもしなかった」という述懐を読んで、ああ、なるほど、と思った。10数年前、甥っ子たちはGBにハマっていたが、今は彼らが自分のスマホを持つ高校生・大学生になっていて、その親(私たちの世代)は、中学生の頃、喫茶店(ゲーセンではなく)のインベーダーゲームを体験して、そのあとのファミコンにはハマり損ねている。

ひょっとすると、悪所もしくは「自分だけの居場所」と結びついたものを歓迎する世代と、そういう閉所から日常・生活世界に浮上してきたものを歓迎する世代が10年刻みの交互になっているんじゃないか。

ゲーム・遊びの歴史は、その両方を見ないとうまく語れないのかもしれない。