増田聡「その音楽の<作者>とは誰か」

増田聡さんの新著、ひとまず、最初の方を拝読しました。

増田聡「その音楽の<作者>とは誰か - リミックス・産業・著作権」(みすす書房)ISBN:4622071258

特に、クラブ・ミュージック小史は、知らないことばかりで面白かったです。

ただ、後半の核になっている「作品」概念の分析美学については、効力が限定的なのではないか、ポピュラー音楽という領域だからこそ有効だったのではないか、という感想を改めて持ちました。

序論で示唆されているところによると、「作品」や「作者」といった概念はポピュラー音楽の実践の「可能性の中心」を射るものではない。確かに存続し、一定の役割を果たしているけれど、こうした概念が現象を主導しているわけではないようです。

そうした、いわば「作品」や「作者」のゾンビ(決して貶めていっているのではありません)のありようを交通整理するには、言説の経験論的分析は有効でしょう。

けれども、例えばヨーロッパの「芸術音楽」のように、21世紀になっても(もしかしたらこの先も)「作品」や「作者」という概念を、いわば民間伝承のように、文化の主成分として存続させようとしている事例を対象にするときには、それでは済まないだろう、観念論の現状を内在的に見ていかないと仕方がないだろうと思うわけです。

そういう話を、増田さんとは、10年来ずっとしてきたように思います。

増田さんがこのたび、おそらく卒業論文以来と言ってよい長年のご考察を単著にまとめられたので、

厚かましく便乗して(笑)、思いついたことをメモしておくことにします。

(話はくどいです。本の感想めいたことは、最後に間接的に出てくるだけです。)

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カール・ダールハウスが主導したような戦後西ドイツの芸術音楽研究では、大文字の「作者」ではなく、

「美学的な作者」と「経験的な人格」の区別

が前提されていたように思います。(増田さんが引用されているエゲブレヒトは、そういう流れの中で、やや守旧派だと思います。)

  • 「作者」とは、あくまで、「作品」と相関的な観念である。
  • 大文字の「作者」(大作曲家)は、伝記から浮かび上がる人格ではなく、音楽作品の向こうに浮かぶ幻影(3Dのだまし絵のような)である。

ということです。

そしてこれは、

  • 音響を「作品」として聴く聞き手の関与を必要とする。(=だまし絵は「聞き手」にしか見えない。)

ということでもあると思います。

つまり、近代的な意味での「芸術音楽」は、音楽家が公衆に「作品」というデータを発信する

音楽家(作者) -> [作品] -> 公衆(聞き手)

というリアルでブロードキャスティング的なコミュニケーションではなくて、

音楽家と公衆が、「作品」を介して「作者/聞き手」というフィクションと戯れるゲーム(「想像の共同体」?)なのだと思います。

音楽家 -> [作者 <- [作品] -> 聞き手] <- 公衆

「作者」や「聞き手」というのは、生きた人格としての私やあなたといった、現実の人格のことではなく、虚構の存在、経験的にそこに「いる」のではなく、想像的に「なる」ものなのだ、ということです。

こういうことを言うと、すぐに「ロマン主義だ」とラベリングする人がいます。

でも、人は、別に、「ここではないどこかへの憧れ」や、非現実のユートピアへの願望といったロマン主義の世界観をもたなくても、読書や観劇、音楽鑑賞に夢中になり、「時が経つのを忘れる」ことができる。

虚構はロマン主義とは独立して存立しうるし、ヨーロッパの芸術は、18世紀の古典主義から20世紀のモダニズムまで、ほぼ一貫して、「作者/作品/鑑賞者」の虚構の時空に生息していたと言えるように思います。

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ドイツの音楽研究では、フランス文芸批評風の「作者の死」はほとんど話題になっていない印象を受けます。むしろ、作者を「殺す」ことなく、いわば「棚上げ」することで切り抜けようとしているように見えます。

例えば、ドイツの音楽研究で、作曲家の経験的な人格が問題になるのは、「作品」の歴史的背景であるかぎりにおいてだ、と言ってよさそうです。

また、美学的、作品研究的な言説では、「作者」概念の存在感はかなり希薄です。ハンスリックからエゲブレヒト、ダールハウスまで、音楽の美学を語るときには「作品(形式)」が話題になっており、ロマン派(ワーグナーなど)のように、「作者」(ベートーヴェンの偉大さなど)を無防備に語ることはないようです。

そして、音楽教室にバッハやベートーヴェンの肖像画が掲げられているのは、彼らが「偉大な作者」として認知されていることの「傍証」ではない。むしろ、「偉大な作者」は、そうした図像や言説の中にしかいない。「作者」は、虚構の相関概念であるがゆえに、イコンとして表象されるしかない、ということなのだと思います。

大文字の「作者」は、今では、犯罪捜査なみに精緻な実証研究(「経験的な人格」を対象とした)と、ともすればロマン主義と誤解されがちな虚構的作品論(「美学的な作者」という相関概念を必要に応じて召還するような)とに分割されているように思います。

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もちろん、これは、ドイツの音楽研究者たちが「作者」概念にこだわっていないからではなく、逆に、何としてもこの概念を存続させようという、ほとんど不合理な、屈折した情熱だと思います。

では、なぜ、ドイツの論者たちは、そこまで「作者」の虚構に固執しているのか?

ひとつは、「芸術音楽」(作者/作品/聞き手の三位一体の虚構)が、教養主義以来の、いわば郷土芸能として今なお存続しているからでしょう。

そしてもうひとつは、ほとんど同じことですが、「芸術音楽」が、娯楽・観光資源であり、国家の公共事業として確立しているからだと思います。

でも、ドイツの音楽研究が、ドイツの現実を踏まえつつ模索しているのは、「芸術音楽」という虚構をいかに軟着陸させるか、ということであって、現実の作曲家を「虚構の作者」として再び特権的に顕揚しようという動きはないように思います。(音楽学教育は、ルネサンス以前の音楽、20世紀の音楽を一緒に教えることで、近代の芸術音楽を相対化できるように務めている印象があります。)

作者概念は、大陸合理論だとよく言われます。

けれども、そう考えると、戦後西ドイツの音楽研究が蒸留して再構築したタイプの合理論(「作者」とは虚構にすぎない)は、著作権思想の出発点とされる経験論(そこでの複製権は商取引の慣習/契約にすぎない)と同じくらい無害だと思います。

問題が発生するのは、両者の臨界面。ちょうど、等価交換から利潤が発生するように、「作者」概念が商取引に導入されて、

「作曲家=作者」

という、自明なようで実はかなり大胆といわねばならない等号が提唱されたことにあるのではないかという気がします。

ただし、これは、通俗的な音楽産業批判のように、無垢の「作者性」が先にあって、20世紀の大衆文化がこれを汚した、ということが言いたいのではありません。私はむしろ、19世紀に、芸術音楽と産業音楽は同時に表裏一体のものとして生まれたという感触を持っています。

よく知られているように、バッハの「作者性」は事後的に見いだされたものにすぎません。モーツァルトやベートーヴェンについても事情は曖昧です。

そしておそらく、19世紀になっても、作曲家が「作者の権利」(オーサーシップ)を貫徹しようとすることは、ベルリオーズが自伝的な標題音楽を書いたり、ワーグナーがオペラ劇場に「単一の作者」として君臨しようとしたのと同じくらい挑発的で、前衛的なことだったのではないかと想像します。

増田さんも指摘しておられるように、音楽のように多くの人が重層的に関与する芸能で、単一の人格が「作者」を名乗ろうとするのは、相当な無理、横車と思います。

また、だからこそ、そうした「作曲家=作者」という主張は、落差が利潤や刺激を生み出す、いわば、「ハイリスク・ハイリターン」の試みだったはずです。

とすれば、「作曲家の作者性」という思想は、観念(ロマン主義)としてだけでなく、産業としても、近代のはじまり、19世紀が最盛期だった可能性があるのではないか、と思うのです。

そういう見込みがあるので、もし私が音楽の著作権について考えるとしたら、文化・観念としての近代芸術音楽を参照しながら、現代の産業音楽を語る、という構図ではなく、近代と現代の産業音楽の連続性、非連続性を整理する、という作業からはじめるだろうなあ、と思います。(できるかできないかは、わかりませんが。)

しかし、いずれにしても、

今、「作者」概念が拡散しつつあるとしたら、それは、「作曲家=作者」という等号の落差が摩滅して、そこから利潤や刺激をうることができなくなったということなのでしょうね。