岡田暁生「西洋音楽史 - 「クラシック」の黄昏」

(mixiの日記の加筆・再録です。)

岡田暁生「西洋音楽史 - 「クラシック」の黄昏」(中公新書) ISBN:4121018168

今の感覚で書かれた、日本語の適当な音楽通史がない、というのは、「音楽史」の授業をする時に長らく不便でたまらないことでしたので、出版を心から喜びたいと思います。

そして、私ごときが言うべきことではないですが、社会的な地位(京大人文研教授)からいっても、そうした地位に過不足なく反映されているような、経験・能力・筆力からいっても、2005年の日本で、「音楽史」を書くとしたらこの人だろうという気がします。

序文に、「私の(から見た)音楽史」であることを隠さない、とありますが、90年代に、エゲブレヒト「西欧音楽の歴史」という書物が、同様の姿勢を鮮明に打ち出して話題になったことがあり、岡田さんは、十年来、しばしばこの「私の音楽史」を口にしておられましたから、この前提も、岡田さんなら、そういう話になるだろうなと思いました。

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通読して、これは、音楽を「見るように聞く」本だと思いました。

冒頭で、音楽史を大海へ注ぐ川の物語として語ると書かれています。

それは、さしあたり、個々の人物、作品、用語ではなく、「歴史」が主役だということですが、「歴史」がそのような姿を現すのは、「私」が、読者の知識の濃淡という「遠近感」に配慮しつつ語ることによってである、とされています。この言い方は、どことなく、一点透視図法の絵画(無限遠点の彼方から、画面手前へ向かって、次第に太く流量を増す川が流れてくる)を連想させるのではないでしょうか。

中世からルネサンス、バロック、古典派という音楽様式それぞれについては、それらの音楽の姿を図示した、幾何学模様風のイラストが用意されています。まるで、「私」には、それぞれの音楽が、こんな風に「見える」というかのように。

また、18世紀サロンの音楽会と、19世紀の大衆(マス)化されたコンサートの違いは、126-127頁の見開き左右の絵を比べることで「一目瞭然」になる。

「比喩」として、説明をわかりやすくするために図像が挿入されているというのではなくて、すべての叙述が一枚の絵、イラストに収斂するというのに近い感じ。

図像こそが文章の「オチ・まとめ」であり、図像を出すことによって、音楽が、文字通り「像を結ぶ」、そういう本だなあと思いました。

岡田さんが、R・シュトラウス(「音を聞くと絵が見える」と言ったと伝えられている)の研究から出発したのは、やっぱり偶然ではなかったのかもしれない、と改めて思います。

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私も授業で映像や写真や図版をできるだけ多く使うようにしていますけれど、どうも、決定的に感覚が違うようです。

私は、図像を「オチ」というより「ツカミ」、話の「終着点」というより「出発点」として使うことが多い気がします。

図像をみせて、あれこれ説明しながら、そこに、目には見えないもの(音)が聞こえそうになる「錯覚」を期待する、というやり方。「見るように聞く」のではなくて、「聞くように見る」トレーニングのつもりで、音大生に図像を見せています。どちらかというと、音楽書では、こういう「聞くように見る」タイプの書き方が一般的だと思います。いわゆる「音楽が聞こえてきそうな説明」ですね。

この本は、情報や歴史観の点では、日本語で書かれた音楽書としては例外的なくらい「正統的」だと思います(日本的にローカライズされた「音大的」アカデミズムをすっ飛ばして書かれているので、「独自の説」を唱えているように見えて、ひっかかりを感じてしまう人がいるかもしれません。ドイツ人かフランス人が書いた本の「翻訳」のつもりで読むと良いかもしれません)。でも、この「見るように聞く」書き方は、決定的に新しいかもしれない。これは、なんとなく、西洋芸術音楽に対する、「設計されたもの=書かれたもの」という概念規定(4頁)と通底する態度のような気もします。

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もうひとつ、この本を読んで思ったのは、この本の「私」が、物事を断じて「構造化」しない人だということです。

音楽史が「大作曲家列伝」になってしまったことへの反省・反動として、特に戦後、音楽史を「構造」として語り直す試みがさかんだった時代があるように思います。

(フランス風「構造主義」だと歴史は括弧に括られてしまいますが、そこまで徹底した話ではなくて、手持ちのデータを整理するための、ドグマティックだったりプラグマティックだったりする仮説にすぎないものではありますが。)

代表的なのが、ルネサンスから前衛・実験音楽までの芸術音楽の歴史を、科学の歴史に似た「問題とその解決の連鎖」とみなす「問題史としての作曲史」という仮説。

それから、たやすく「学問的」に見せやすいからなのか、今も数多く試みられているのが、反映論とか、相対的自律とか、派閥は色々ありますけれど、音楽を政治・経済・風俗などとの相関関係でとらえる仮説。

それぞれ、ある程度の成果を上げていると思いますが、本書の「私」が引き合いにだすのは、そうした構造化の試みの本体ではなく、そうした仮説・知見が生みだす、いわば知性の花火みたいな「名場面・名ぜりふ」だけなんですね。

歴史を一望できる「特等席」からみた風景を、全体の「形式」や、遠景(中世とルネサンス)・中景(バロックと古典派)との距離感、前景(19世紀)の人物の表情やしぐさまで、きれいに活写するけれど、舞台の裏に回って、この眺望を成り立たせている「しくみ」をのぞく、というようなことはしない(だから、「楽屋落ち」的な裏話がないと息が詰まる、というタイプの人には、例えば渡辺裕氏の本などに比べて、読み通すのが辛いかもしれません)。その姿勢を通している点で、「私の音楽史」は、見事な人文科学(「精神の貴族」の書)だと思います。

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全編面白いのですが、やはり、19世紀(第五章)が、ひとつの「ハイライト」なのかな、と思いました。

ブルジョワ社会の俗悪でスノッブで成金な光景のこれでもかという描写にはじまって、ドイツの「まじめ」で「霊的」で「隔絶された」=「ロマンチックな」音楽の話に、ふっと転調したところで、

ロマン派音楽とは「ロマンチックな時代のロマンチックな音楽」ではなく、「どんどん無味乾燥になっていく時代だったからこそ生まれたロマンチックな音楽」なのである。

の決めぜりふが来て、ルール地方の畑の中でモクモクと煙を吐く工場の絵が入る。(169頁)

そして、19世紀の「身もだえする旋律」の数々や、シューベルト最晩年の「魂が震えるトリル」など、高濃度アルコールの一滴みたいな描写が立て続けにあって、章の終わりはワーグナー。

バッハの章や、ウィーン古典派(ベートーヴェン)の章もそうでしたが、ドイツ音楽の重要ポイントを書くときは、「図像なし」なのですね。特にここ(ワーグナーの部分)は、今まで鮮明に「見えていた」視力が無効になって、なにか途方もないことが起きている感じがしました。

で、世紀末(第六章)になると、R・シュトラウスの箇所など、山を下ってくるみたいに、再び印象的な図像が入って、視力が回復している。

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一方、20世紀は、「海へ注ぐ大河」の物語と最初に予告されていたわけで、確かに、水が海に流れ込み、ヨーロッパという川と他との見分けが付かなくなっている混沌が描かれているのですが、これは、「海」の「万物の母」的な大きさにたどりついたハッピーエンド、ではないのですね。

川が海にたどり着いたところで陽が落ちて(=「クラシック音楽の黄昏」)、その先がどうなったのか、「私」にはわからない、という結末。

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最後に、突然、無関係のような話ですが、

私は、いくつかの大学で十年来「音楽美学」(西洋音楽思想史)の講義(半期)を担当させてもらっていて、ここ数年、最後を北野武「座頭市」の話で閉じる、というアイデアを抱き続けています。(残念ながら、毎回、時間が足りなくなって、一度も実際には話すことができていませんが。)

「この映画の中で鳴り続けている乾いたリズムが聞こえますか?」

音楽の未来にとって、この蓮實重彦が「宇宙人との交信」と形容した「微かな音」を聞き分けることが大切なのではないでしょうか……というような話です。

考えてみたら、北野武は、初期作品のブルーの色彩で評価を得た、「海を撮る」監督。「座頭市」は、終始目を閉じていて、「視覚を失う」ことが(ワーグナーを頂点とするロマン主義におけるような)特別な出来事として特権化されたりしない世界の住人なんですね。

「ロマン主義=絶対音楽」は、どこかしら「宗教的」(神のいない時代の神)ですが、「宗教的」ではない闇が、この世の中には、ある気がします。ひょっとすると、それは、「盲目の皇帝=フォースの暗黒面」に通じてしまっているかもしれないですし(笑)、岡田さんが鮮やかに「可視化」してくださった「西洋芸術音楽」とは、もはや別の話ですが、「日没」の後の、もしかしたら、タイタニック沈没後のように寒々としているかもしれない大海原を、それでも生きようとするのであれば、それもひとつの選択肢ではないか。私はそのように思っています。

[追記]
おお、黄昏の西方の海を眺めるというのは、浄土信仰なのですね(コジツケ)。

2005年11月02日弱法師のランドマーク(内田樹の研究室)http://blog.tatsuru.com/archives/001344.php