ウィキペディアの使い方

神戸女学院、音楽史の授業で学生に配布した文章です。いずれ、3webのサイトの方に、こういった文章はまとめて公開しようと思っていますが、ウィキペディアは何かと話題ですし、日頃、演奏会の曲目解説を書かせていただく時に感じていたことでもあるので、ひとまず、こちらに出してみました。

この文章は、「ウィキペディアは信用できない」という趣旨で書いたわけではありません。ウィキペディアは、現状でも、使い方を心得ていれば十分すぎるくらい便利です。

けれども、大学の音楽科に入って、音楽について専門的に学ぼうとする人には、コンテンツを利用する「ユーザ」になるだけでなく、コンテンツの成り立ちを知って、コンテンツを自分で「作る」力を身につけて欲しい。そう思ってこの文章を書きました。


● 1. 情報の出所を確認する習慣をつけましょう。

課題について調べる時に、皆さんは、事典や伝記、ウェブサイトなどを利用すると思います。この場合、一番大切なことは何でしょう? 一番に心がけて欲しいのは、

「情報の出所は何か?」

ということです。インターネット上に公開されている百科事典「ウィキペディア」を例に、具体的に説明してみましょう。

● 2. ウィキペディアはどのように作られているか?

ウィキペディア日本語版 http://ja.wikipedia.org/wiki/

ウィキペディアは、数多くの有志の協同作業。多くの人が、ボランティアで情報を持ち寄り、項目を執筆してできあがっています。音楽関係の項目も充実しており、ベルリオーズなどの項目もあります。でも、実際に読み進めていくと、奇妙な表記があることに気がつくのではないでしょうか。例えば、ベルリオーズの青年時代の経歴を書いた次の部分

ベルリオーズ青年は解剖学の途中で気がひるみ、それから1年後に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。パリ音楽院に入学して、オペラと作曲を学ぶ。(Kamien 241)

エクトル・ベルリオーズ - Wikipedia

この最後に記された「Kamien 241」とは、いったい何でしょう?

● 3. 引用と参考文献の読み方・使い方

ヒントは、「ベルリオーズ」の項目の一番最後の「参考文献」欄にあります。

  • Memoires, Hector Berlioz; Flammarion; (first edition: 1991) ISBN 2082125394
  • The memoirs of Hector Berlioz; Everyman Publishers (second revised edition: 2002) David Cairns (ed.) ISBN 185715231X
  • Kamien, Roger. Music: An Appreciation. Mcgraw-Hill College; 3rd edition (August 1, 1997) ISBN 0070365210

ここには、3冊の書物が紹介されています。日本語に訳すると、次のようになります。

  • 『回想録』、エクトール・ベルリオーズ、Flammorian社(初版、1991年)、ISBN(国際標準図書番号)2082125394。
  • 『エクトール・ベルリオーズの回想録』、Everyman Publishers社(第2版改訂版、2002年)、デヴィッド・カイアンズ編、ISBN 185715231X。
  • ロジャー・カミエン『音楽・鑑賞の手引き』、Mcgraw-Hill College社(第3版、1997年8月1日)、 ISBN 0070365210。

最初の2冊は同じ書物。ベルリオーズ本人が書いた「回想録」です。リンクをたどると、1冊目が、原語(フランス語)のペーパーバック。2冊目がその英訳本だということがわかります。そして、3冊目がRoger Kamienという人の作った資料。ここに「Kamien」が出てきます。これは、ロジャー・カミエンという人名だったわけです。
実は、「(Kamien 241)」は、論文で資料を引用する時の書き方です。

[著者名 資料の該当ページ]

上の文章が、Kamienが作った資料(Music: An Appreciation)の241ページを参考にして書かれたことを示しています。

ちなみに、引用の書き方には何通りもやり方があります。そして、日本語の論文で文献を引用する時には、上のやり方よりも、

著者名(出版年)

という書き方が一般的です。この書き方は、俗に「ハーヴァード方式」と呼ばれています。

ハーヴァード方式:「田中(1980)によれば……」というように著者名と発表の年(同じ著者が同じ年に発表した幾つかの文献を引用するときには,1980a,1980b,……のようにする)をしるし,文書の最後(長い文書では各章末)に第1著者の姓のABC順またはアイウエオ順に各文献の書誌要素をならべる.(木下是雄『理科系の作文技術』、中央公論社(中公新書)、162頁)

上のウィキペディアの文章を、この「ハーヴァード方式」で書き直すと、次のようになります。

ベルリオーズ青年は解剖学の途中で気がひるみ、それから1年後に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。パリ音楽院に入学して、オペラと作曲を学ぶ(Kamien 1997: 241)。

あるいは、

Kamien(1997: 241)によると、ベルリオーズ青年は解剖学の途中で気がひるみ、それから1年後に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。パリ音楽院に入学して、オペラと作曲を学ぶ。

となります。(言い忘れましたが、ハーバード方式では、ページ数を「: 」のあとにつけます。)参考文献の書き方や文献引用の方法について、詳しくは、各自で調べてみてください。

● 4. 「参考文献」欄から文章の信頼度を推測する。

「参考文献」にどういう資料があがっているかをチェックすることは、非常に重要です。本文の内容がどれくらい信頼できるのか、参考文献から推測することができます。上のウィキペディア「ベルリオーズ」の項目の場合はどうでしょうか?

ベルリオーズ「回想録」:ベルリオーズの「回想録」は、作曲家本人が書いた書物です。ウィキペディアの本文の一部は、ベルリオーズ本人の証言をもとづいているようです。作曲家本人の証言だからといって、全部、そのまま信用できるとはかぎりません。記憶違いもあるでしょうし、作曲家によっては、自分の人生を美化している可能性もあるので注意が必要です。しかし、とりあえず、「回想録」にもとづく部分は、作者本人にもとづくわけですから、素性のはっきりした情報と考えていいでしょう。

もう一冊の本「Music: An Appreciation」はどうでしょう。そもそも、これはどういう資料なのでしょうか?

カミエン「音楽・鑑賞の手引き」:インターネットで検索すると、Music: An Appreciationは、Roger Kamienが編集したCD-ROM版音楽事典だということがわかります(版元Mcgraw-Hill Collegeの紹介ページhttp://catalogs.mhhe.com/mhhe/viewProductDetails.do?isbn=0072936630)。第8版(8th Edition)まで出ていることから、かなり人気のある書物だということがわかります。けれども、一般向けの音楽事典のようです。どの程度、内容が正確なのか、これだけではわかりません。

● 5. ウィキペディアの「丸写し」は避けましょう。

では、ウィキペディアの記述を発表資料で引用したいと思った時には、どうすればいいでしょう?ここで重要なのが、一番最初に書いたこと。「情報の出所は何か?」ということです。

「参考文献」欄から、「ベルリオーズ」の項目は、このページを書いた人が独自に調査した内容ではなく、2つの本の内容をまとめ直したことがわかりました。想像してみてください。このページの書き手は、もしかすると、もとの文献の内容を誤解しているかもしれませんし、誤植や間違いがあるかもしれません。私たちが、何のチェックもせずにウィキペディアの文章を丸写しすると、そうした間違いを広めることになってしまうかもしれません。

それは、「科学的な」態度とは正反対のやり方です。不確かな噂話を広めるかもしれない「丸写し」、人から人へ伝わるうちに話が変わってしまう「伝言ゲーム」の危険があります。そういうことは、極力さけて下さい。

● 6. まとめ:オリジナル資料は情報の宝庫

幸い、ベルリオーズ「回想録」は、日本語訳が出版されています。

H・ベルリオーズ著、丹治恆次郎訳『ベルリオーズ回想録1・2』、白水社

せっかく翻訳があるのですから、ウィキペディアの中に、発表やレポートで紹介したいエピソードが見つかった時には、オリジナルの「回想録」から、その箇所を探し出して、そちらを引用するべきです。
今回のベルリオーズの発表では、そこまで詳しいエピソードの紹介はありませんでしたが、今後の発表の参考に、少し具体的に説明してみます。もういちど、ウィキペディアの文章を見てください。

ベルリオーズ青年は解剖学の途中で気がひるみ、それから1年後に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。

「解剖学の途中で気がひるみ」というのは、具体的にどういうことだったのでしょう。「回想録」の日本語版、目次を見ると、「4. ……骨学(解剖学)の勉強……」という章が見つかります。そして本文に、こういう記述があります。

「ある日の朝、ロベールが一つの研究資料(すなわち屍体)を手に入れたからといって私をはじめて慈善病院の解剖用大教室へつれていった。[……以下、教室と屍体のグロテスクな描写が続くので省略……]ついに私は恐怖のあまり大教室の窓から飛び出して、全速力で走りに走り、息せき切って部屋へもどった。」(44頁)

どうでしょう。この文章を読むと、ウィキペディアの冷静な記述よりも、ずっとリアルに情景が思い浮かぶのではないでしょうか。そして、このベルリオーズ本人の文章には、ウィキペディアではわからなかった様々な情報が含まれているのではないでしょうか。例えば、

  1. この断片的な文章を読むだけでも、ベルリオーズが(シューマンに負けないくらい)文章が巧みだったことがわかります。
  2. 医学を志す、というのが屍体解剖を許されるくらい「本格的」だったということ、=ベルリオーズが医学部に入学できるエリートであったことがわかります。
  3. あまりに生々しいので引用しませんでしたが、ベルリオーズは、解剖教室や屍体の様子を、目をそむけたくなるくらい具体的に書き連ねています。ベルリオーズは、音で情景を描写する天才でした。ベルリオーズが書いた文章を読むと、彼が、医者(科学者)を志すほどの緻密な観察眼の持ち主だったことがわかります。また、ベルリオーズの音楽には、ギロチンや魔女の饗宴など、非常にグロテスクな情景が出てきます。解剖の情景を平然と書き連ねるところに、彼のグロテスク趣味が現れているようにも思われます。

情報の出所を調べることは、決して、ただの「お勉強」ではありません。オリジナルの資料には、間接的な「又聞き」ではわからない生の情報が含まれています。そして、オリジナル情報にたどりつくには、何も特別な「コネ」や「才能」は必要ありません。必要なのは、「引用」や「参考文献」の書き方/読み方、利用の仕方を知ることだけです。あとは、糸をたぐり寄せるように、紹介されている「参考文献」をたどっていけば、限りなくオリジナルに近い資料にたどりつくはずです。

補足:

ここでは詳しく説明しませんが、ウィキペディアの多くの記事には、もうひとつ注意しなければならない問題点があります。参考文献がすべて英語なのは、実は、ウィキペディア日本語版の音楽関連記事の多くが、英語版Wikipediaの翻訳だからです。ベルリオーズの項目は次のページをそのまま日本語に訳しています。

http://en.wikipedia.org/wiki/Hector_Berlioz

つまり、ウィキペディアの音楽記事の多くは、「コピーのコピー」だということです。

参考文献の内容 → Wikipedia英語版 → ウィキペディア日本語版

日本語の文章に意味がよくわからない箇所がある場合は、日本語訳のミス(誤訳)かもしれません。疑問があれば、元の英語版の記事と比較して、確認する癖をつけてください。