いずみシンフォニエッタ大阪第15回定期演奏会「管楽器とパーカッションの魅力」

[追記3]
ショスタコーヴィチ談義に続編を追加しました。

id:tsiraisi:20070203#p3

だらだらシツコイとお思いでしょうが、考え始めると行くところまでいかないと気が済まない性格なのです。すみません……。

[追記2]

この日行ったもうひとつの演奏会について、エントリーを追加しました(ショスタコーヴィチ談義つき)。

id:tsiraisi:20070203#p2

はてなのシステムはちょっとややこしいですが、このエントリーの下かどこかに出ているはずです。

[追記]

改めまして、私が「白石知雄さんという方」です。はじめての方には、はじめまして。

さて、ちょっと新鮮に感じたので「山尾敦史さんという方」を見習いまして、面識のない方に対しましては「○○さんという方」という呼称を使わせていただくことにいたしますと、

「山尾敦史さんという方」様は、いずみシンフォニエッタの後半の曲目、特に、音楽監督でもあらせられる「西村朗さんという方」の作品などは、どのようにお聞きになったのでしょうか?

わたくし、こと「白石知雄さんという方」といたしましては、「飯森範親さんという方」が20世紀の音楽の指揮者としてイマイチだな、と常々思っていると同時に、この「西村朗さんという方」が、ミュージック・トゥデーを思わせる企画をコーディネートしたり、ロンドン・シンフォニエッタの向こうを張る名前の団体(高い志を感じます!)を音楽監督するのに、本当に適任なのか、毎回プレトークを聴き音楽観や音楽史観の一端をお伺いするかぎりでは、微妙な思いを抱いてしまっているのですが……。

(ちなみに、「西村朗さんという方」が作曲家としてどのような活動をしてこられたかというご実績に関しましては、かつて、作品展を聴き、批評を書かせていただいたこともございますので=「サントリー音楽財団コンサート 西村朗(1998年3月20日、いずみホール)」『京都新聞』夕刊1998年3月31日9頁、改めてご説明いただくには及びません。……そういえば、「飯森範親さんという方」が指揮された東京交響楽団の演奏会(客席のすぐ近くには「西村朗さんという方」が座っておられたような記憶)の批評を書いたことがあったのを今思い出しました=「サントリー音楽賞記念コンサート(1998年8月12日、ザ・シンフォニーホール)」『京都新聞』夕刊1998年8月26日9頁。このあと、東京交響楽団定期の曲目解説を一年やったので、東京で「飯森範親さんという方」がどんなポジションで活動していらっしゃるのかというのも、漠然としたイメージはあるつもりです。)

それにいたしましても、いずみホール様におかれましては、かつて、「白石知雄さんという方」なる人物の発言に対しまして、「この人、誰」という、非常にわかりやすい反応が内部にあったと伝え聞いておりますし(笑)、

(京都の新聞に出た小さな文章は、まあ、大阪のホールにとって存在しないも同然。これは当然のことです。「いずみシンフォニエッタ大阪デビュー・コンサート(2000年7月8日、いずみホール)」『京都新聞』夕刊2000年7月29日、7頁。)

今回改めて「白石知雄さんという方」という慇懃な呼称を頂戴いたしまして、さすが「I教授」のホール、その場に足を踏み入れた者を知らず知らずのうちに「山の手」な物腰へと誘導する空間であるな、と感心させられるところでございます。(と同時に、このホールは建物の一階にコンビニが設置されているなど、ビジネス空間らしい的確な実用性も兼ね備えております!)

とはいえ、このような回りくどい書き方は面倒であることも否定しがたく、あえて直裁に申しますと、

いずみシンフォニエッタは、山尾さんも折に触れて書いていらっしゃるようにユニークで色々な展開の可能性があると思うのですが、変えていかなければいけないところもだんだん見えてきて、そういう意味では、次へ向けた脱皮の時期なのかな、と思っています。だからこそなおさら、要注目。

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午後、いずみホール。「音楽雑誌」の「演奏会評」(主に「音楽評論家」とされる人が書く)では「全然情報が伝わってこない」そうなので、

僕は前から関西のオーケストラやコンサートがおもしろいとニラんでいて、それでも取材の機会なんかまったくないため勝手に行っていたんですが、関西フィルはしばらく聴いていなかったんです。他人が書いた(そして全然情報が伝わってこない)演奏会評なんか読んでいても仕方ないので、

http://yamaonosuke.blogzine.jp/honke/2007/02/post_0231.html

少しは、情報かもしれないことも織り交ぜつつ。

しかし、なんといいますか、東京の編集部が作った、地元の事情を知らないし、そんなことには興味もないと思われる音楽雑誌の地方関連記事がどうしようもない、というのは昨日今日のことではなく、

発注される側から言わせてもらえれば、「なんでこの演奏会を取り上げるの」という選択にしても(雑誌によっては広告を出した演奏会のみ取り上げるという経営方針なんだろうなあ、と推察されるケースあり)、「どうしてこの人? 会場でほとんど姿を見かけないのに?」という人選にしても(地元の事情と関係なく、編集者が知ってる人、というので選ばれているからでしょうか?)、「この分量、体裁で何が書けるねん」というフォーマットにしても、覚悟を決めて思い切り乱暴狼藉な文章を出稿する、というような暴挙にでも出ないかぎり(最近はそれに近いことを書いているような気もしますが)、あそこで「情報を伝える」のは無理でしょう。

東京にいるんだったら、そんなの、わかってるはずじゃん。「現場だって、いい仕事したいんだよ。あんたは本店(東京)にいるんだから、現場を足蹴にするようなこと言ってないで、そっちをなんとかしてよ」と「踊る大捜査線」的にヒエラルキーの末端っぽい文句のひとつもいいたくなります(笑)。

あと、評論家と記者を一緒くたにするのは、ちょっと、記者さんが可哀想かもしれません。地方の文化・芸能面で皆さん、他ジャンルと競合する限られた誌面の中、色々と取材記事を書いてくださっていますし、

それに、関西の新聞批評の書き手は、東京発音楽雑誌よりも明らかに世代交代が進んでいます。テレビの全国一斉ゴールデンタイムより、ローカル深夜枠のほうが実験的、というのに似た状況があるわけです。

そういう新聞批評系の書き手は、だいたい本業が忙しいか、生きるためにアルバイトが忙しいかで、最低限のコンサートにしか来ません。まして真っ昼間のプレス発表とかには出る余裕なんてありません(案内も来ていないことが多そう)。そういう人たちは、やる気と志とセンスはあっても現場の情報に疎かったりして損をするというケースもありそうですが、そこが面白いともいえる。

いずれにせよ、東京からおいで下さる方々との接点はほとんどない現状だと思います。

ということで、記者会見は、東京発の音楽雑誌と同じくらい昔ながらの風景が今も続いているみたいですね……。

大阪の音楽記者って、独特ですよねぇ。東京とは違って、なんだろうなぁ、凄く趣味的な人が多い。記者さんが質問という形で演説始めるんだよねぇ。不思議なところだ。

http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/2006-05-19

(今も記者会見で「演説」をなさるのは、現役記者さんではなく、主に記者退職OBのライターor評論家さんだと思います。)

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で、本題ですが、少しでも「情報」になるように(笑)、まず、いずみホールという場所の性格について。

ここは、国立音大の礒山雅先生が企画の元締めをしていらっしゃるのが象徴的ですが、開館以来、ずっと東京志向が強い場所という印象があります。

最初の頃の企画は、東京でセゾンあたりがやりそうなものを数年遅れで持ってきたという感じが強く、岩城宏之さんと武田明倫さんが始めた「音楽の未来への旅」シリーズ(これを西村朗さんが引き継いだときに、いずみシンフォニエッタ大阪ができた)は、発想としては、関西版ミュージック・トゥデーなのかな、と思ってました。

感覚的には、あの会場へ一歩足を踏み入れると、そこはもう大阪じゃない。世界クラシック音楽株式会社(本社:ウィーン、日本法人本社:東京)の大阪駐在所みたいな感じ。

(ちなみに、パンフレットの執筆陣は原則として東京発注のようですし、あそこで委嘱作品を上演するときは「世界初演」と銘打たれています。)

「外資系」みたいなノリですね。

そういうキャラクターのホールが成功を収めているというのは、関西が、外から思われているほど「コテコテ」一辺倒ではないという何よりの証拠かもしれませんし、成金趣味をくすぐるゴージャスものをキライじゃないのは間違いない。ホールのブランド化のバランス感覚が絶妙だったということでしょう。

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いずみシンフォニエッタ大阪は関西の音楽家が結集していますが、これも、そういうホールのブランド・イメージが前提の企画だと思います。みなさん立派な肩書きのメンバーですが、「優れた人たちだから選抜された」というよりも(実際、名手ぞろいなのは間違いないのですが)、同時に、ある種の押しの強さ、「いずみホールがやる以上、このクラスの人じゃないとダメ、いずみホールが選んだのだから、当然すごいグループです!」的な循環論法ポスト・モダン的自画自賛をほのかに感じます。

もちろんこれは悪口ではなくて、これこそ興行の王道。エンターテインメントは、そうやって「名前」を雪だるま式に大きくしていくものだし、そうやっているうちに、本当に実力がついていったりするものだと思います。

アイドル歌謡曲が「J-POP」になって、ジャパニメーションとともに本当に世界進出してしまって、ついでに、若手クラシック演奏家が「J-CLASSIC」になって、海外で「著名音楽家」と共演・CDリリースしたりする出世魚コースが確立しているご時世ですから、いずみシンフォニエッタの東京進出は当然だし、「熱狂の日」や「のだめ」企画でご活躍の山尾敦史さんが彼らを面白がるというのは、まさに、あるべきところに物事が収まっていく感動的な光景。わたしたちは、今、歴史を目撃しつつあるのでしょう。

実際、いずみホールは東京っぽさが売りで、関東からいらっしゃっても違和感なく時を過ごせる(はず)です。是非、みなさま、いずみホールへおいでください。

(シューボックス型、800人程度収容の中規模ホールなので、昨年秋のアーノンクールの「モツレク」も、きっと、広大なNHKホールで聴くのとは別物、敢えて大阪で聞くだけの価値があったはず、と思います。)

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ただし、今回の演奏については、私は山尾さんとは別の感想を持ちました。

川島素晴「13楽器のための協奏曲」(再演だそうです)は、音が硬くて演奏に余裕がない感じ。作者的には、前列が曲芸師的に技を見せつけて、それにつられてバックもノってくる、というような快感が走る音楽を意図したんじゃないのかな、という気がしました。

メシアン「異国の鳥たち」は、山尾さんがシャープなダイナミクス(強弱)に注目しておられますが、私には、その分、ハーモニーの色が弱いと聞こえました。

意地悪な言い方をすると、強弱は「楽譜通り」でいける。楽譜を読めば、こと細かに指示が書いてある。でも、ハーモニーは、ひとつずつ解読して、チェックしていかないと作れないわけですよね。20世紀の音楽をシャープに演奏するのは、マイルドで流線型に整えて演奏するよりも、実は簡単・お手軽かもしれない。そういう面があると思います。

(少し前まで「ゲンダイオンガク」の初演は、しばしば「気合い一発」スタイルで行われていましたよね。いい加減そういうので切り抜けるのは止めよう、というのが最近の傾向なのでは、と私は思っています。)

いずみシンフォニエッタは、メンバーが忙しいスケジュールを縫って短期間で集中練習して本番に臨むスタイルだと聞いています。その弱点が出た演奏という気がしました。

選曲は、山尾さんご指摘の通り、今回もとても色とりどりで面白かったですけれど。

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普段共演しない人と、短期間にワッと集まって演奏する、というのは間違いなく楽しいことですが、そういうスタイルを何年感も維持するのは本当に大変なことなのだろうと思います。

この種の「レジデンス」団体がひところ各地のホールで結成されて、その中で、いずみシンフォニエッタは、スタッフの「執念」とも言えるバックアップでよく持ちこたえているなあ、と思います。

が、やっぱり、マンネリの危険を避けるには工夫が必要そう。

そういった意味も込めて、東京の山尾さんと組んでの新展開があればいいのに、と思います。

(なお、別の演奏会をどうしても聴きたかったので、私は今回、前半だけしか聴いていません。その後に聴いたヴィオラの馬淵昌子さんのリサイタル(ピアノ:小坂圭太←関西への出演はたぶん久々)は、それこそ「ポケットからいろいろなものを出してくれるようなコンサート」だったのですが、その感想は、また別の機会に書きます。)