馬淵昌子ヴィオラリサイタル

夜、ザ・フェニックスホール。前のエントリーのいずみシンフォニエッタ大阪を前半で抜けて、そのあとこの演奏会へ行きました。シューマン「おとぎの絵本」、ヒンデミットのヴィオラソナタ、西澤健一さんの「Into the Dark After a Little While」(新作→いずみホール流に言えば「世界初演」)、ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ。ピアノ、小坂圭太。

馬淵さんは、宝塚のベガ・ホールで震災後に誕生した、宮川彰良さん(作曲・編曲・ピアノ)+器楽奏者8人の「アンサンブル・ベガ」のメンバー。NHK教育「ゆうがたクインテット」は、このグループがモデルなのだそうですね。

http://www.takarazuka-c.jp/evega/index.htm

宮川さんがステージでお話されていたのを信じるならば(笑)、新さん(大フィル首席コントラバス)、近藤さん(同首席チェロ)は、「大フィルは副業、ベガが本業!」だそうですから、馬淵さんも、紀尾井シンフォニエッタ東京やサイトウ・キネン・オーケストラ等々のご経歴を「副業」としつつ、アンサンブル・ベガを天職とする希有な才能、ということになるのでしょうか(笑)。

私は、前からアンサンブル・ベガを一度聴きたいと思っていて、ようやく今年のお正月に初めて聴いただけなのですが、順調に活動を重ねて、お客さんはリピーターが多いのだそうです。

(間違っても「おふざけが過ぎる」^^;;と野暮を言わない宝塚、兵庫のお客さんというのは、本当に素晴らしい!と思いますし、ノン・ジャンルでお客さんを楽しませる活動をファンが支えている姿というのは羨ましいです。)

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リサイタルは、「アンサンブル・ベガ」とは一転して、曲目からもわかるようにシリアスな内容。

ピアノの小坂圭太さんは、いわゆる「伴奏者」然と中途半端に遠慮する人ではなく、そこが魅力ではあるのですが、今回は、ちょっと頑張りすぎて、ヴィオラを圧倒気味になっていたのが残念。それでも、シューマンの妖しい線の絡み、ヒンデミットの唖然とするやりたい放題ぶり(モダニストなのに人をうっとりさせるスタイルまで中に取り込んでいて、やんちゃな音楽ですね)など、楽しませていただきました。

最後のショスタコーヴィチ絶筆のソナタを馬淵さんは、初演者ドルジーニンから直接、学ばれたそうです。寡黙な音の向こうに荒涼とした沈黙が広がるようにして終わる作品ですが、この曲を聴くと、千葉潤さんの伝記にも掲載されている初演時の写真(作曲者の死の数日後の演奏会で、演奏のあとドルジーニンが楽譜を高々と掲げている)を思い出します。

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

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ところで、昨年はショスタコーヴィチの生誕百年だったそうですが、私には、どうすればこの作曲家を数年もしくは数十年で自動的に順番が来る「お祭り」のネタとして楽しめるのか、最後まで理解できないままでございました。

平穏無事な消費生活(としてのクラシック・コンサートライフ)とは一番遠くにある音楽ですよね。たぶん、ヒンデミットのモダニズムや「ゲンダイオンガク」などよりも、はるかに消費生活との食い合わせが悪いはずの存在……。

プラウダでオペラやバレエが名指しで批判されたというのは、見ず知らずの人から出会い頭に「おふざけが過ぎる」と言われたようなもので、そうすると、周囲のこれまで普通につきあっていた人たちが、「あいつはもう終わりだ」とばかりに、潮が引くように離れていったわけですね。

大恐慌でアメリカのブロードウェイが大打撃を受けて、ハリウッドがヘイズ・コードの縛りで「健全さ」を強制されるようになったのと平行して、ロシア・アヴァンギャルドの「楽天的な消費者(兼労働者)文化」が粛清された。

そして、ロシア・アヴァンギャルドの人たちは、少なくとも公式メディア上では、(ちょうど現在のホリエモンやヒューザーの藤田社長みたいに)「悪役」としてしか表象されなくなってしまった。

ショスタコーヴィチだって、いくつかの偶然や、交響曲第5番の成功がなければ、どうなっていたかわからない。シベリア強制収容所の中で「それでもボクはやってない」と言い続ける人生だったかもしれない、という話であるはずです。

それから、最近はショスタコーヴィチの二重言語、国策的な音楽の裏に隠された暗号的なメッセージの解読がさかんですが。

例えば……、

確かに私たちは、「紅白歌合戦」のタイツ姿であれば、良識派と表現の自由派がワイドショー的にオープンに議論できていますけれど、

もしも、何らかの国を挙げての行事(オリンピックでもワールドカップでもいいですが)の式典音楽の中で、我が国の「国民的」とされる作曲家が、我が国の国家元首(国会が選ぶ政府責任者ではなく)に対する何らかの批判的メッセージを埋め込んでいたとしたら、どのように思うでしょう。

仮に、作曲家が死ぬまでその事実を隠し通して、作曲者の死後、研究者がこの事実を「発見」した場合、この人は、安全にこの事実を発表できるでしょうか? そして私たち「一般国民」は、この事実をどのように受け止めることになるでしょう?

もちろんこれは架空の仮説ですが、ソヴィエトにおけるショスタコーヴィチのポジションというのは、いわば、そういうことですよね。

(念のために付け加えておきますが、これは、現在の現実の日本や現実の国家元首をどう考えるかというのとは別の話です。国家や社会における位置という構造面に着目して、それを現在の日本に置き換えたら、こういうことになるのではないか、という仮定・仮想の話です。)

で、そんなことを想像すると、私は、よほど覚悟を決めてからでないと、この人の作品を聴く気持ちになれないのです。恐いから……。

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1月には、京響定期演奏会で、故・岩城宏之さんが指揮する予定だったショスタコーヴィチ特集があって、今回は馬淵さんによるショスタコーヴィチ。

それぞれの演奏会が、どうして生誕百年から微妙にずれたタイミングになったのか、たまたまだったのかもしれませんが、こういう風にアニヴァーサリーを外すというのは、むしろ、ショスタコーヴィチを聴く環境として、ふさわしいような気がしました。