音楽家育成のアウトソーシング?

今日は漠然とした話。

さっきN響アワーみていて、ふと気づいたら、今N響の定期の指揮者は音楽監督以下、ほとんどが外国人なんですね。東京の他のオーケストラもここ数年で、名前の通った外国人を常任指揮者に迎える形がすっかり常態化したようで……。

日本人も、海外で何らかの実績を上げた人じゃないとステージに上がるチャンスはなかなか回ってこないみたいですから、これも、実質、「日本国籍の外国人」として出演しているのだと言えるかもしれませんね。

アメリカのオーケストラだって、メジャーなところはヨーロッパから大物指揮者を迎えることが多いわけですから、世界標準に近づいた、とも言えますが……。

実態は、音楽(家)を自前で育てるということを諦めつつある兆候なのかも、と思ったりしました。

            • -

適性がある子供を見つけて、基礎トレーニングをするところまでの教育システムは戦後日本でものすごく精緻に発達したわけですけれど、

でも、現状国内でやっているのはそこまでで、

あとは、海外へ送り出して、ヨーロッパやアメリカの「先生方」ならびに「本場で揉まれること」にお任せ。国内でできるのは、何年か後にその結果を逆輸入すること。

(「のだめカンタービレ」も、そういうレールに乗って、みんな海外で頑張ってますね。)

ヒトをモノや機械に喩えることが問題化しがちな昨今ですが、これは「製造部門のアウトソーシング」なのかも、と思いました。

人材の出所は確かに「日本産」で、素材の調達・選別はきっちりやるけれど、実際の製品化は実績のある「海外工場」にまかせて、製品が出荷・配送されると、それに「○○コンクール優勝」とか「○○管弦楽団の常任指揮者などを歴任」というきれいな包装紙をつけて販売する。

            • -

こういうしくみになっているのだとしたら、批評がそれほど必要とされないのもわかる気がしました。

既に「製品化」されてステージにのっている音楽家は、製造を受け持った「海外工場」で「世界標準」の「品質管理」がなされているはずだから、国内で改めてチェック(批評)をするのは時間の無駄。製品をいかに売るかとか、どの製品を誰に届けるかという営業を考えていればいい。それが効率的な「分業」というもの。

それに、もし独自チェック(批評)で問題が見つかったとしても、もう製品は受け取ってしまったんだから、今さら手遅れ。何年も時間とコストをかけた製品を在庫として遊ばせるわけにはいかない。

だいいち、もともと原材料は国内産なので「返品」は無理。日本の中でなんとかするしかない。

そして海外工場とこっちの力関係は圧倒的に向こうが強い。工場に「クレーム」や異議申し立てなんてできるわけない。

役に立たない文句(批評)を言ってないで、ひとつでも多く在庫をさばけ、さっさと動け!ということですね。なるほど、そういうことか。(^^)

                • -

関西にいると、東京ほどそういうグローバル化が進んでいなくて、若い人が選抜されて、そういう人がデビューして、徐々に大きな仕事をするようになって、演奏活動何十年のベテランになって……という一連のプロセスを今でも見ることができるようになっている印象があります。

会社経営的には「垂直統合」とでも言うのでしょうか(言葉の使い方がまちがっていたらすみません)。地域密着の産業みたいな感じかもしれません。

十年みていると、あの人が今はこんな仕事もするようになったんだ、と思うケースが徐々にでてきましたし、私のような人間ですら、(ごくたまにですが)オーディションの審査とか、何かの賞の選考とかに呼んでいただくことがあったりして、「人を選ぶときにはこういうところに注目するものなんだな」と、勉強になります。

(「せっかく頑張っているのだから救ってあげたい」というのが人情ではあるわけですが、そんなことばかり言って業界を水ぶくれさせてしまうと、必ず何年後かにそのツケが回ってくるわけですから、そこはある程度、慎重にならざるを得ない。そういうところは、音楽といえども、一般企業の経営判断みたいなのと、それほど変わらないのかなあ、という気がします。やりすぎると、「華麗なる一族」の非情な平幹二郎になってしまいそうですが(笑)。)

プロフィールがどんなに立派でも実際の演奏を聴いてみるまで信用しない、とか、演奏を聴いて「好き/嫌い」とは別に、(もしかすると偏った判断かもしれないけれど)「良い/悪い」という選別をしてしまうとか。そういう、大義名分を振りかざしつつ人を判断するから批評家は嫌われるわけですが、そういうのは、ひょっとすると、「全行程自前」な風土があってはじめて意味をもつのかもしれませんね。

グローバルな分業・アウトソーシングで、善し悪しの判断はもういいよ、突拍子もなく酷いことはないだろうから、という性善説(?)と、全体のプロセスをひととおり自分の目と耳で確かめないと気が済まない、他人任せでは何つかまされるかわからない、と身構える性悪説(?)と、どっちがいいのか。

もしかしたら、そのうち世界情勢が変わって、グローバルな「分業」が上手く機能しなくなるかもしれませんし、あるいはその前に、地域密着がさらにジリ貧で崩壊するかもしれませんし。この先がどうなるのか、わかりませんが。