オーケストラのある種の「迫力」について

なんらかの集団合奏(オーケストラや吹奏楽やギター・マンドリン部や男声合唱……)をやっていた人ならご存じかと思いますが、大人数の音楽では、ある種のヘタクソな演奏が迫力満点に聞こえることがあります。

概して、リズムが揃っていない演奏はいかにもヘタクソに聞こえるのですが、リズムが合っていれば、それが全員一丸となった「ノリ」に聞こえて、音程のズレは、かえって「サウンドのボリューム感」という風に受け止められることになるようです。

最近で言えば、関西フィルが、ある種開き直るようにして、この路線を邁進しつつあるのかなという印象を持っています。

ただ、これは必ずしも「悪いこと」とは言い切れないし、このような「ある種の迫力」への需要は決してなくならないだろうとも思うんですよね。

今日はそういう話をダラダラと。

                        • -

一種のノイズによって迫力を生み出すというのは、別にロックの専売特許ではなくて、嵐の場面のトレモロなどは昔からある手法ですし、ベルリオーズやマーラーが絶対揃うはずのない激しい動きを楽譜に書き込むのは喧噪の効果をねらっているのだと思います。

(そういえば、バーンスタインは「ヤング・ピープルズ・コンサート」の映像で、「幻想交響曲」を19世紀のサイケデリックだと言っていました。阿片に手を出す放蕩青年の話ですしね。)

ピリオド演奏との関連で話題になるオーケストラでのヴィブラートも、大きな空間で表現をはっきり伝えための「必要悪」として始まったと説明されるのをよく見かけます。

様々な声質の人が集まった合唱の迫力、「マスの力」というのもそういうことですよね。

        • -

チャイコフスキー「悲愴」のなりふり構わずすすりなくヴァイオリンにしびれる、とか。

(日本のオーケストラ運動は、山田耕筰たちの企画で、ロシアからの亡命音楽家との日露合同演奏会から始まったそうですし、朝比奈隆の師匠もロシア人メッテルですから、こういう感性は、邪道ではなく、日本のオーケストラの由緒正しい「本流」なのかもしれません。)

ようやくかなり下火になりましたが年末の「第九」とか……。

朝比奈&大フィルというのも、朝比奈さんご本人の意向や信念はそうではなかったのかもしれませんが(あの人が常に「スコア」と真剣に向き合っていたのはよく知られていますし、弦のパート練習なんかもよくやっていたらしい……)、「俺にはこれしかない」というスタイルであの人がゴリゴリ振ると、周りはゴーっと「マス」として動くしかなくなってしまって、しかもそのことにお客さんは熱狂する、という構造になっていたんじゃないでしょうか。

(それが晩年東京で大ブレイクしたわけですが、大阪では、いつまでもこればっかりではかなわんという感じが強かったように思います。そして「朝比奈&大フィル」への倦怠感が、大阪センチュリー設立を後押しした面があるように思います。今では、財団経営が行き詰まって大阪府の失策みたいに言われてしまって、実際、現在のセンチュリーの運営が迷走している印象は拭えませんが、少なくとも設立当時は、「朝比奈&大フィル」的ではない新時代のオーケストラと見る人がいたはず。当時、朝比奈さんは、もう永遠にこのままやり続けるんじゃないかという雰囲気でしたから、公共団体でも担ぎ出さないと、とても状況を変えられないとその頃の人たちが思ったとしても無理はない気がします。)

とにかく、イケイケのお祭り的な「マスの効果」は、昨日今日の現象ではなく、昔からオーケストラには付きもの。個別の現象の浮き沈みはあるでしょうけれど、ひとつがなくなれば、また形を変えて現れる。全体として、当面まだまだそういうものへの需要はなくならないでしょう。

                    • -

どうして、こうなるんでしょうね?

そもそもオーケストラは王侯貴族の祝典を盛り上げるにぎやかし、音の打ち上げ花火みたいなものだった等々の歴史はさておくとして、

(それから、オーケストラ/交響曲の「本来の迫力」は、単なる「マス」の効果とは似て非なるもので、それは由緒正しい「崇高論」の文脈で語るべき、といった美学論議もなし)

今現在のことを考えるとすると、まず言えるのは、音楽において、「リズム&ノリ」は最大最強の大量動員手段だということ。これにかわる有力な音響的大量動員メソッドを人類はまだ発見していないし、そんなものがあるかどうかすらわからない=大量動員で「受ける」には「ノリノリ」しかなさそうだ、ということ。(祭りの太鼓からダンス・イベントまで。)

そして、オーケストラが、オペラほどではないにしても、お客さんを大量動員しないと成り立たない興行形態だということ。(実際の資金や収益を入場料以外から得るとしても、本番の客席がスカスカでは、何のためにやるのかわからなくなってしまう。)

ところが困ったことに、オーケストラのレパートリーの多く(バロック・古典派・ロマン派)は、20世紀生まれの音楽ほど強力に「リズム・マシン」に特化していなくて、ポリフォニーだの、旋律と形式の美だの、和声の色彩感だのといった、別の様式特性を歴史的な遺産として大量に含んでいて、そう簡単に「リズム・マシン」化できない。

ということなのだと思います。

レコードやCDだったら、実際に聴くのは個人のリスニングルームですから、かえって問題が少なそう。

でも、ホールで興行を打つ以上はなんとかしなくてはいけない。

お客さんにダイレクトにアピールしないかもしれないリスク覚悟で「クラシック音楽」の本分を守り続けようとするか。

(こういう態度は、意識的ではないにしても、どこか「隠れキリシタン」に似通ってしまいますね。いわゆる「秘教性」。そして、細々と「クラシック音楽」を伝承しながら、大量動員=「リズム・マシン」必須の社会構造がいつの日か衰退して、状況が変わるのを待望するみたいなことになる。おそらくそんな社会の大変動は、私たちが生きている間には起きないでしょうから、次の世代か、次の次の世代か、次の次の次……の世代に果てしなく希望を託す……。「クラシック音楽」の原理主義は、一見スノッブに見えて、案外、社会革命待望論=一種のコミュニズムに近いところがある気がします。)

それとも、オーケストラをなんらかの形で「リズム・マシン」化するか。

(「ベートーヴェンのエロイカとは、要するにアレグロ・コン・ブリオだ」と言ったトスカニーニのヴェルディ流新即物主義が一時代を築き、革張りのティンパニーを打つ古楽スタイルが今や一大勢力なのは、別に難しい芸術・歴史理論の問題ではなく、結局のところ、イン・テンポのスピード感や強烈なリズム感の強調というのが、奏者と聴衆の「win-win」(←和製英語なのでしょうかこの言葉は? [追記]和製ではないようです、はてなのキーワード機能は便利(^^))な関係をもたらす=演奏として大義名分が立ち、聞く方にもわかりやすいスタイルなのだと思います。そういえば、大植英次さんも、ジョージ・セルの機能美を尊敬しているらしいですね。)

でも、どっちも手間暇かかりますから、もっと手っ取り早く、ノイズ込みの「ノリノリ」路線を突っ走ろうということになる。

            • -

オーケストラは、どうやったってそんなに黒字の出ない零細業界ですから、これは、生き残りのための実に真っ当な経営判断の選択肢だと思います。まず、お客さんをつかんで、経営を安定させて、次を考えるのはそれから、ということですよね。

かつて「朝比奈&大フィル」を支持していた人たちというのがいるのだから、イケイケ路線でそこを獲りに行くのは正しい判断。朝比奈さんのレパートリーだった関西の作曲家、貴志康一や大栗裕を関西フィルが積極的に取り上げているのも、なるほどなあ、と思います。

世に言う「オーケストラ・ブーム」も一種の追い風?

(「のだめカンタービレ」コミック版が出た頃は、エルガーのヴァイオリン・ソナタとか、バソンの話とか、「クラオタ」のハートをがっちりつかむ「イノヴェーター/アーリー・アダプター」的(←言葉の使い方合ってますか?)に静かなブームのだったのが、ドラマ版で毎週お茶の間に「ベト7」が響いたり、本物のサントリーホールがクライマックスだったあたりで、「キャズムを越えて」(本当?)、一般にもわかりやすい「オーケストラ・ブーム」にシフト・チェンジ、今はそういう言い方ができたりする状況なのだ、とかそういう話になるのだとしたら……。ビジネスとかトレンドとかの話は聞きかじりでまったくの門外漢ですが。)

自分が「お祭りなオーケストラ」を聴きに行くか?と言われると、そういうのは聴く方もかなり消耗してしまうので、遠慮したい、必要最小限に留めたいというのが正直な気持ちですが、

でも、どういう結果を生むか、注目ですね。

ちなみに今夜は、ボッセ指揮、神戸室内合奏団のメンデルスゾーン「最初のワルプルギスの夜」を聴きに行きます(神戸新聞神戸新聞松方ホール)。マニアック……ですか?(笑)