交響曲の「本来の迫力」(とされるもの)について

前回の補足。前のエントリーでちょっと言及した「交響曲の<本来の迫力>」とされるものについての美学論議。

音楽史の授業というようなことをやっていると、例えばベートーヴェンの交響曲は、要するにどこが凄いのか、というようなことを学生さんに納得していただかなければいけないわけで、私なりの説明を一通り用意して臨んでおります。

所詮は「美学」=ある集団or地域or時代or階層の支配的イデオロギーである(であった)言説ですから、絶えず変化しつつある今現在を生きている私たちにとっては参考知識のひとつ。不賛成な人に「これが正解」と押しつける性質のものではないですが、音楽研究の学説的には、たぶん、このあたりが定説or通説だろうなというようなお話です。

私が音楽史をやるときに想定しているのは、旧西ドイツの音楽学者のカール・ダールハウス(奇しくも戦後ダルムシュタット音楽研究所などとも関わりながら仕事を始めて、ベルリンの壁崩壊の年に亡くなった人)が「ベートーヴェンとその時代」の第4章「交響的様式」などで展開していた議論です。

ベートーヴェンとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)

ベートーヴェンとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)


本の中では長々と面倒な議論が続いていますが、私がこういうことなのだろうと理解しているポイントはほぼ次の2つ。

  • 交響曲は、記念碑的(モニュメンタル)なのに劇的(ドラマチック)。
  • 交響曲は、マス(巨大な音の塊)なのに細分化されている。

二重の意味で、一見矛盾する性質をあわせもつのが交響曲であり、そういう奇怪な音楽ジャンルが、それまで「オペラ最高!」と思っていた音楽ファン(主に貴族や上流市民)の度肝を抜いた。特に、革命後の社会不安で「自分探し」的なロマン主義で悶々としていた若いインテリが、一種のサブカルチャーやオタクの世界にハマるようにして、交響曲を熱狂的に支持するようになった、ということのようです。

(クラシック音楽の中でも、オペラはその出発点から支配階級のジャンル、交響曲はその出発点からほぼ一貫してマニア的・オタク的なジャンル。「クラオタ」的熱狂は、なにも昨日今日にはじまったわけではなく、録音メディアによるのでもなく、ロマン主義の最初からある、由緒正しい態度。ベルリン大学哲学教授のヘーゲル先生は、ベートーヴェンとほぼ同世代なのにイタリア・オペラ好き、特にロッシーニのファンで、交響曲について、「あんなものには一般性がない(=閉ざされたマニアの世界だ、という意味)。交響曲が流行るようでは、音楽の人類史的・文化的な使命はもう終わり」と思っていたようです。マンガばっかり読んじゃだめ、とか、ゲーム脳とかを思わせるご高説です……。)

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上の2つのポイントをもう少し説明してみます。

交響曲は、記念碑的(モニュメンタル)なのに劇的(ドラマチック)。

というのは、「第9」やブルックナーの諸作など、ドカンと巨大な石像のようなスケールの大きいテーマが登場するのだけれど、その「巨大な何か」は、物体としての石像のように永遠に固定していない。状況は次々変化しつづけている、ということです。

音楽なんだから、物理的な「形」をもたず、音が浮かんでは消えていくのは当然、とも言えますが、これはそこまで原理的なことではなくて、こういう言い方をするときに想定されているのは、オペラと比較した場合に感じ取れるような、交響曲の形式的・演出的な特徴です。

例えばドニゼッティやベッリーニのオペラ・セリアで、悲劇のヒロイン、プリマ・ドンナが歌い始めると、物語が停止して、実際に舞台上の脇役たちもフリーズして、現代の劇場だったら、照明が落ちて、主役だけにスポットライトが当たったりしますよね。そして、プリマが歌い切ったところで、フリーズが解けて、聞いている方もふっと力が抜けて、万雷の拍手がわき起こる。

音楽論で、比喩的に「時間が止まる/進む」というのは、オペラでおなじみのこういう光景を指している、と考えるのがいいと思います。

ところが、交響曲は、プリマ級に(あるいは「ドン・ジョヴァンニ」の騎士調の石像みたいに)存在感のあるテーマが出現するのに、オペラ・アリアのように時間を「静止/フリーズ」させることなく、どんどん先へ進んでしまう。カッコいいフレーズが出てきても、そこにスポットライトが当たったりせず、いつの間にか次の状況へ移っていく。必然的に、アリアの終わりでフリーズが解けた瞬間に似た拍手のタイミングが、交響曲の曲中には決して訪れない。

それが、交響曲は、記念碑的(モニュメンタル)なのに劇的(ドラマチック)ということです。

「オペラ最高!」と思っていた貴族やセレブの人たちは、そんな交響曲を聴いて、わけがわからない(オペラのように明白な聞き所=アリアがない)と不満だったし、逆に、「交響曲最高!」と思っていたワーグナーのオペラ改革というのは、オペラからアリアとレチタティーヴォの区別をなくして、途中で拍手ができないようにしてしまう「通作/番号廃止」措置のことです(=いわばオペラの「マニア」化)。

そして、マーラーの交響曲が保守的な交響曲ファンから「あざとい」と思われたのは、交響曲の中で何度も時間を「フリーズ」させて、流れを寸断したからだと思います。(「ディズニー」や手塚治虫や「世界名作劇場」しか知らない人たちが、いきなり「エヴァンゲリオン」を見せられたら、そりゃあわけがわからないだろう、というような状況に相当するんじゃないでしょうか。)

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次に、

交響曲は、マス(巨大な音の塊)なのに細分化されている。

という議論について。

前段の、オーケストラが「マス/巨大な音の塊」だということについては、説明不要でしょう。

問題は「細分化」。

こういう議論がなされるとき、想定されているのは、「仕上げの細かさ」、マニアックに細かいところまでびっしり作り込まれているというのとは、少し違う問題です。(そうした「仕上げの細かさ」は、描写音楽やオペラにだって、たくさんの実例があります。)

伝統的な交響曲論で、「単なるマス・塊ではない」として真っ先に話題になるのは、「動機の加工」とか「主題の展開」とか呼ばれる作曲技法、旋律の特殊な変奏技法のことです。

ベートーヴェンの「運命」交響曲が、たったひとつのリズム動機から出来ている

という例の蘊蓄。「クラシック音楽はムズカシイ」とか、「楽譜が読めないから音楽はわからない」と言われてしまう、「クラシック=難解」説の核心部分ですね。

(ちなみに、交響曲について、楽譜を分析しながらアレコレ論じるマニアックを「評論」として最初に発表したのは、サブカル/オタク的に交響曲にハマっていった19世紀はじめのロマン主義者たちでした。ここにも、交響曲というジャンルが、その出発点からしてマニアックだったことが見て取れます。)

ただし、ベートーヴェンの場合、そういうめんどくさい作曲論とほぼ同等のことを、オーケストレーション(楽器の割り振り方)の話としても説明できるように思います。

私は、大学の授業で説明する時には、「今から流す曲のメインテーマはどれでしょう?」と問題を出してから、ベートーヴェンの「エロイカ」冒頭を聴いてもらうことにしています。

……最初に、チェロがいかにも「メインテーマ」っぽく歌い出しますが……、すぐに奥へ引っ込んでしまって、続きをヴァイオリンが受ける……かと思うと、最初のチェロと同じフレーズを今度はフルートが吹き始めて……でもチェロの時とはその先の展開が違っていて……すぐにフルートとヴァイオリンとの掛け合いになって……業を煮やしたみたいに、ヴァイオリンがアクセントの聴いた新しい音型を弾き初めて……2拍おきにアクセントのあるヘミオラっぽいリズムになって……トレモロで猛然とクレシェンド……今度はトゥッティで最初と同じフレーズが始まるのだけれど……その後の成り行きはまたもやこれまで聴いたことのないものになって……

だいたい、冒頭の1,2分でこういうことが起きているかと思います。

要するに、メロディが次から次へと楽器の間を受け渡されていて(サッカーの細かいパス回しみたい)、「ひとつの楽器」がメロディを占有して歌いきることがありません。

これは、第1のポイントで言う「時間が止まらない」ということでもありますが、同時に、ベートーヴェンの交響曲のオーケストレーションが、ある特定の「聴き方」を求めているということでもあると思います。

絶えずメロディの役が入れ替わるので、特定の楽器だけにフォーカスして聴いていたら、状況が把握できなくなる、常に、全体を視野に収めるような聴き方を求めるオーケストレーションになっているということです。

(サッカー中継で、選手の顔のアップばっかり映されると、ファンは嬉しいかも知れないけれど、試合の展開がわからなくなる、みたいな話ですね。)

オーケストレーションにおける「細分化differenciate」というのは、そういうことです。

(そして「どれが<メインテーマ>」でしょう」の答は、ひとつに決められない無数の変化形がある、ということになりそうです。ワーグナーは、このことを指して「エロイカの第一楽章は、全体がひとつの大きなメロディである」と形容したらしいですね。)

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芸術作品論では、よく、細部に拘泥するのではなく、「全体」や「統一」を把握することが重要といわれます。それから、細部を「舐めるように」偏愛するのではなく、「対象との内的な距離」が必要であるとも言われます。(欲望のおもむくままに「萌え」る動物でいけない、というのですね。)ざっくり言ってしまえば、それが「鑑賞」という態度である、ということかと思われます。

「(芸術)鑑賞」というのは、抽象的な精神論として評判が悪いですし、今では「情操教育」という学校教育的なものと結びついてしまっています。(情操教育って、まるで、肉体を鍛える「体育」と対になった「心の集団体操」みたいですよね。)

でも、その原点は、「最初から最後までノンストップ」かつ「個人プレーより全体のフォーメーション重視」というとっても具体的な音楽の新戦術のことに過ぎません。

バロック・オペラから古典・ロマン派交響曲という流れは、「静と動」が交替するベースボールから、「45分ノンストップ」のフットボールにスポーツの好みが変化したようなものです。

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ベートーヴェンの交響曲の歴史的意義というのは、音楽の創作論の面からみると、およそ、こういう風にまとめることができるんじゃないかと思います。

そしてロマン派の交響曲の歴史は、絶えずこのベートーヴェン流の原点に立ち返りつつ、部分的に(ブラームスやドヴォルザークやサン=サーンスやチャイコフスキーみたいに)、あるいは、根本的に(マーラーみたいに)戦術を組み替えながらの百年間ということなのでしょう。

こういう風にまとめてみると、イケイケ的な「迫力」と、似たところはあるけれど、ちょっと違うなあ、ということになっていかざるを得ないでしょうねえ……。