ファリャとラヴェルとミヨー

京フィルの定期公演、4月分も曲目解説を書かせていただいております。

京都フィルハーモニー室内合奏団第152回定期公演「南欧を愛した作曲家たち」
2007年4月21日(土) 14:30 開演、京都コンサートホール小ホール
指揮:手塚 幸紀

  • ファリャ バレエ「恋は魔術師」(アルト、押見朋子)
  • ラヴェル ピアノ協奏曲 ト長調(ピアノ、大谷正和)
  • ミヨー バレエ「屋根の上の牡牛」
http://homepage2.nifty.com/kyophil/schedule/2007_04.html#2007_04_21

昨年、ショスタコーヴィチを弾いた上野真さんに続いて、今回は大谷正和さんの登場。かつてサントリー音楽財団の現代日本の作曲家シリーズの常連で、アルベニスもメシアンも、「春の祭典」連弾ヴァージョンも、フランス近代の難曲を何でも弾いてしまう人です。どういうラヴェルになるでしょうね?

ロシアバレエ団の興行師ディアギレフに抜擢されて「三角帽子」を書いたファリャ。コクトーの発案で上演された奇妙なパントマイム「屋根の上の牡牛」。そういう、ほとんど何でもありの若いアヴァンギャルド運動をクールに横目で見ながら、ひょいと美味しいところを掬い取ってしまうラヴェル(年齢はファリャとほぼ同じですが、デビューが早かったので、第一次大戦後には、既に「巨匠/生きる伝説」扱いだったようですね)。

こういうプログラムを見ると、ドイツ風に気難しく思い悩むのはアホらしいと思えてきます。^^;;

1920年代パリの気分満点のプログラムと言えるんじゃないでしょうか。よかったら是非。4/21(土)です。

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個人的には、前からファリャという人が気になっています。特に興味があるのは後半生。パリでスペイン・ブームに乗ってブレイクして「三角帽子」がヒットしたあと、地元でカンテ・ホンドの地位向上活動をやって、スペイン内線時代にアルゼンチンへ渡ってそこで亡くなったんですね。

略歴をざっと眺めていると、作品の数は少ないですし、いわゆる「一発屋」っぽく見えなくもない。「三角帽子」のヒットの印象が強いだけに、そのあとは、「あの人は今」的な後半生だったのかなあ。チェンバロ協奏曲など、何を思って書いたのだろうと考えてしまうのです。

ちょうど、菊地成孔さんのマイルス・デーヴィス論@私のこだわり人物伝のテキストがAmazonから届いたところで、

私のこだわり人物伝 2007年4ー5月 (NHK知るを楽しむ/火)

私のこだわり人物伝 2007年4ー5月 (NHK知るを楽しむ/火)

エキゾチズムに、非現実的な「幻想系」(ラヴェルが夢見た東洋の「シェヘラザード」やドビュッシーのスペインものがまさにそうですよね)と、現地で民謡を採譜したりする「実証系」(バルトーク)があるという指摘は、まさにぴったりのヒント、補助線になりそうな気がしました。

タワーレコードで、ガルシア・ロルカが採譜したスペイン民謡と「三角帽子」のもとになったパントマイム「お代官様と粉屋の女房」のCD(ジョセプ・ポンス指揮、バルセロナ・自由劇場室内管弦楽団、歌:ヒネサ・オルテガ)を見つけて買ってみたのですが、

パントマイム「お代官様……」とバレエ音楽「三角帽子」はかなり違いますね。日本映画をハリウッドが世界市場向けにリメイクしたくらいに違うかも。ディアギレフは歴史に残るやり手の興行師ですし、「三角帽子」は「幻想系」の好奇心に沿うように作ったところがあったのかな、と思いました。

ファリャが自分で最後まで管理した「恋は魔術師」(バレエ版は1925年パリで初演)のほうが、「三角帽子」(バレエ版は1919年ロンドンで初演)より本人のやりたかったことに近かったのかも。

「恋は魔術師」のオリジナル(1915年)や「お代官様……」(1917年)をプロデュースしたマドリードのMaria & Gregorio Martinez Sierra夫妻がどういうことをした人たちだったのか、今回はそこまで調べられなかったですし、ファリャのスペイン民族音楽やカンテ・ホンドへの入れ込み方が、バルトークなんかに匹敵するくらいにフィールドワーク系・「実証系」だったのか、というのも手元の情報では、よくわかりません。

でも、スペインで自分が見聞したものと、パリやロンドンの人たちが期待するものにギャップがあったのは間違いないでしょうし、どこに作品を着地させるか、というのは絶対考えたでしょうね。そういう経験があったうえでの「謎の後半生」だったのかな、という気がします。

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ミヨーがブラジルにいた1916-1918年(駐在大使に任命された作家クローデルに同行したらしい)というのも、どんな感じだったのか興味があります。

ネットで見つけた小田亮先生の講義録(講義「アフリカン・アメリカン文化」http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/AfricanAmerican.html)の整理によると、「『丘の上の黒人たち』の音楽こそがリオ・デ・ジャネイロのサンバの起源」という定説が確立する1930年代よりも前の、混沌とした時代ということになりそうです。

以前、映画「黒いオルフェ」を観て、

黒いオルフェ(ポルトガル語版) [DVD]

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リオの中心街には高層ビルが並んでいて(ボサノバの歌姫ナラ・レオンのマンションもこんな感じだったのでしょうか?)、ファヴェーラの丘には黒人たちの掘っ立て小屋があって、ブードゥー教の集会の場面があったり、これがブラジルか!と素朴に納得してしまったのですが、

ミヨーが見聞したのは、こういう神話的なブラジルになる前なんですねえ……。

ただし、あっけらかんとした「屋根の上の牡牛」は、「幻想」と「実証」とか、そんなムヅカシイ話は関係なさそうで(笑)、「私はプロヴァンス人であり、フランス人であり、ユダヤ人だ」と言ったミヨーの雑種的な感じがはっきりするのは、もう少し後かなあとは思いますが。