大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪国際フェスティバル2007)

大植英次さんの指揮でブルックナーの交響曲第8番(ハース版だったらしいです)。大植・大フィルは、昨年のマーラー5番に続いて、大阪国際フェスティバル二度目の出演ですね。

定期演奏会がザ・シンフォニーホールへ移ってから、大フィルをフェスティバルホールで聴く機会は本当に少なくなって、来年夏にはホールの閉鎖・立て替えが発表されていますから、ひょっとすると、これは、大フィルのブルックナーが現ホールで響く最後なのかな、とも思います。

そういえば、

大フィルの年末最後はフェスの「第九の夕べ」というのが恒例になっていましたが、これも現在の会場でやるのは今年が最後になるんですね。今年の「第九の夕べ」は、これまで、はっきりしたポリシーをもって「第九」を断ってきた大植さん(→id:tsiraisi:20061213#p1)が、ベートーヴェン・チクルスの最終回という意味づけでOKした特別な機会。大事な演奏会になりそうですね。

(……とわざとらしくここで「年末の第九」に言及したのは、ちょっとしたアリバイ工作(笑)。どうやら、大阪の企画であってもトーキョーで大々的に記者会見しないと「盛り上がってない」、ほとんど存在してないみたいなことにされてしまうようで、どっちにせよ「私設電子壁新聞」に書く程度で大勢は変わらないかもしれませんが、一応、同じ大植・大フィルの話題ということで便乗して書いておくことにしました(笑)。参照:http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/2007-05-03。個人的には、ベートーヴェン・チクルスが2つ同時進行するというのは、数年前の「英雄の生涯」を4つのオケが同じ月にやってしまった偶然を思い出して、もうちょっとやりようはなかったのかと思いますが、それは別の話。やる以上は相乗効果でどちらも成功させていただきたい、と思っております。……ということで、閑話休題。以下、ブルックナーの話に戻ります。)

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大植・大フィルのブルックナー8番は数年前の定期演奏会でも取り上げられていて、その時私は、細かいこだわりがあちこちにあるけれど、全体として何をやりたかったのか、いまひとつはっきりしないと思っていました。

でも、「大フィルでブルックナーをやることが、朝比奈隆を受け継ぐ音楽監督として意味があるんだ」と妙に力説する人たちが周囲には何人かいましたね。「大フィルのブルックナー」は継承すべき伝統である、という思いを抱く人たちが確実にいる、ということなのでしょう。

その時は半信半疑だったのですが、今回、(現状はともかく)戦後の数々の伝説的な公演を実現させた「大阪国際フェスティバル」(←vを「ヴ」と表記しない新聞方式)の舞台で再演されて、たくさんのお客さんが集まったのですから、やっぱり、今も「大フィルのブルックナー」はひとつのブランドなのでしょう。会場には、「朝比奈の8番を聞き直してから来た」という人もいらっしゃいました。

(私自身は、たしか90年代に一度、朝比奈さんの定期の8番のチケットを購入したことがあって、これは、諸般の事情で当日行けなかったはず。出だしのところを朝比奈さんが意外に淡々と素朴な感じで振り始める音と映像の記憶があるのですが、これは、あとでシカゴ響か大フィルのテレビの中継を観たり、CD、DVDを聴いた印象がもとになっているのだと思います。私と同世代やそれより若い人たちは、たとえ関西在住であっても、「朝比奈・大フィル・ブルックナー」をそこまで神格化してはいないんじゃないでしょうか。朝比奈さんが亡くなる直前の2000年前後、ウーヴェ・ムント&京響のブルックナーは全部聴いていて、このことは以前「音楽現代」に書きましたが=2003年4月70-71頁。)

今回のブルックナー8番は、数年前の定期(聴いたのは初日)よりも全体に落ち着いたテンポで、ゲネラル・パウゼをたっぷり取るのが、緊張を持続するというより、加熱しそうになるのを一旦切って、冷ます感じ。これは、解釈の変化というよりも、フェスティバルホールの大きな空間を意識した配慮だったのかもしれませんね。

オルガンのストップを次々切り替えるようにシーンごとにサウンドの変わるカラフルな演奏。でも、今回も全体として何か統一的なメッセージがあるという感じではなくて、やっぱりこれは、「フェスティバルホールに今一度大フィルのブルックナーを響かせる」という象徴的な儀式なのかなあ、と思いながら聴いていました。

大植さんは、コンソールにデンと座って縦横にオーケストラというオルガンを弾きまくるのではなくて、裏に回って淡々とふいごを動かして、オルガンに空気を送る職人役に徹しているような印象。

結果的に、どう演奏するか奏者に任せる部分が多かったように思われ、それを意気に感じる人たちが頑張った反面、「いきなり任されても……」と力を発揮できなかったパートもあったように聞こえました。朝比奈時代なら、ああいう人ですから(笑)、誰もが自分の裁量で状況を切り抜けるしかなかったはずで、そういう意味では、久々に往年の大フィル・スタイルを思い出させてくれる演奏だったかもしれません。決して皮肉ではなく。「大フィルのブルックナー、フェスティバルホール最終公演!」というお務めをきっちり果たした演奏会だったんじゃないでしょうか。

大植さん、先の「涙のショスタコ」(→id:tsiraisi:20070420#p1)や、私は行けていないのですが一万人以上が集まったらしい大阪城での野外コンサート(4/29)など、復帰後最初の来版となった4月は、いきなり大きな仕事を立て続けに成功させて、フル稼働ですね。

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ちなみに、演奏の冒頭では、楽器を構えて、まさに演奏がはじまるという絶妙のタイミングで客席から携帯の呼び出し音が響いて、演奏を止めてやり直すアクシデントがありました。

フェスティバル初日の金聖響&大阪センチュリーでは、楽章の合間に拍手があったりして、大阪国際フェスティバルは、クラシックのある種の「お作法」に慣れないお客さんもいらっしゃるようです。そのあたりは、辛うじて今も様々な人が集まるお祭り=「音楽祭」的な空間だと言えるかもしれません。

私も、数年前、初めて国際フェスの曲目解説を書かせてもらったときに第1楽章のあとに拍手が来て、軽いショックを受けたのを覚えています。

以来、国際フェスの解説を書くときは、できるだけ目立つ場所に、曲の楽章構成を明記するように心がけていたりします。

曲解説の最初のほうに、

この全4楽章の交響曲は……、

とこれみよがしに書いておいて、レイアウト的にも、できるだけ解説の前のほうに、前後空白行で区切って、

 第1楽章は……。
 第2楽章は……。
 第3楽章は……。

という楽章ごとの解説を一段落一楽章の体裁で挿入。

本番前の慌ただしいときの斜め読み(orパンフレットの解説など「模様」として眺めるだけで読まない人)でも、曲が楽章に分かれていることをどうにか察知してもらえるように心がけております。

はたして、こういうささやかな工夫が功を奏しているのかどうかは不明ですが、幸い、その後、自分が解説を書いた演奏会では楽章間の拍手は経験しておりません。

(今年曲目解説を書いたフェルツマン・ピアノリサイタルは、都合で本番を聴けなかったので、前半のベートーヴェンの2つのソナタで楽章間の拍手を抑止できたかどうか、確認できていないのですが……。)

ともあれ、来年度(の第50回が現ホールでの国際フェスティバル最終回ですね)の解説を書かれる方(がここを読んでくださっているか不明ですが)のためにご参考まで。「のだめ軍団」とか真偽不明のレッテルをつけて敵視する前に、現場で工夫できることはそれなりに色々あるかもしれないということで。