「音楽を考える」という授業の概略 (2)

[7/24早朝 後半のラヴェル、R・シュトラウスの管弦楽曲の解説、シューマン、ドビュッシー、スクリャービンのピアノ曲の分析を追記しています。]

神戸女学院でやっている授業の内容。id:tsiraisi:20070705#p1の続きです。

音響学と音楽理論の関係を説明した前回の授業(id:tsiraisi:20070705#p1の最後の部分)が難解だと不評だったので(涙)もう一度整理しなおしました。その後、19世紀ロマン主義の管弦楽曲とピアノ音楽の和声と「サウンド」の特徴について具体例に即していくつか紹介しています(←この部分はまだ書けていないのであとで追記します)。
●音響学と音楽理論、栄養学とグルメ

唐突な比喩ではありますが、音響学と伝統的な音楽(和声)理論の関係は、「栄養学」と「料理」になぞらえて考えるとわかりやすいんじゃないかと思います。

(1) 音=食材、正弦波=栄養素

音響学の最大の発見は、「音」(自然音や音声や楽器の音)と呼ばれる波動が、少なくとも理論上、単純な正弦波の組み合わせに分解できるということ。つまり、日常的に我々が耳にする様々な「音」の複雑な波形が、テレビ・ラジオの時報に使われている「プ〜」という単調な正弦波の組み合わせに還元できるし、逆に、理論的には、「プ〜」という単純な正弦波を組み合わせれば、あらゆる「音」を合成するできるということだと思います。

「音」という食材を分析すると、そこにどのような栄養素(正弦波)が含まれているかということがわかる。食事というのは栄養学的には栄養素の摂取であり、「音」を聴くという行為は、音響学的には、正弦波の組み合わせを受信することだというわけです。たとえば教会の鐘の音と羊飼いの角笛、ヴァイオリンの音は、それぞれ波形が違っていて、それゆえその波形を解析して得られる正弦波の組み合わせが異なります。これは、牛肉とニンジンとチーズでは含有する「栄養素」に違いがあるようなものだ、というのですね。

(2) 音響学と音楽理論、栄養学とグルメの棲み分け

一方、料理人は、そうした様々な「栄養素」を含有する「食材」を様々に調理することで「料理」を作ります。そしてこの作業で料理人が頼りにするのは職人的に伝承された調理法のノウハウと自らの工夫であり、できあがった料理は「味覚(舌)」で判断されます。音楽もこれとよく似ていて、作曲家・演奏家は、「音」という「食材」を、伝承された和声や対位法の理論と自らの創意で作品・演奏を作り上げる。そしてできあがった音楽は「聴覚(耳)」で判断される。

要するに、音響学(栄養学)は「音」(食材)の解析・合成で目覚ましい成果をあげているけれど、「音」から「音楽」(料理)を作る段階では、相変わらず「耳(舌)」が頼りになっている。少なくとも19世紀の段階では、音響学(自然科学)と音楽理論(「耳」に依拠する一種の人間主義)の幸福な棲み分けが成立していたように見えます。*1

(3) 倍音理論と楽器製作

ただし、「耳」が頼りとはいって、19世紀の音楽の理論と現場が音響学と無縁だったわけではなく、いくつかの接点があったことも否定できないでしょう。いわゆる「倍音列」の理論は、「音」の組成が基音と倍音(基音の整数倍の周波数)の組み合わせに近づくほど、その音の「音程」が明瞭になるという考え方。栄養学にたとえれば、「倍音列」を実現することが、ヒトの耳に対して理想的な「栄養バランス」だ、というわけです。19世紀に、多くの楽器が「より豊かで明瞭な響き」と「正確な音程」を目指して改良・開発されたのは、明らかに音響学的な「栄養バランス」の理念を踏まえたものだと思います。

19世紀に大流行したピアノという楽器は、そうした「音響学的栄養バランス」への配慮が最もゆきとどいた、音響学の最先端の成果だと思います。それから、オーケストラで、19世紀から20世紀にかけて、特に管楽器がバルブ式・ピストン式の金管楽器や、ベーム式フルートなどにどんどん置き換えられていったのはご存じ通り。作曲家や演奏家が「音」という食材を調理する手法や態度が同じであっても、彼らが手にする「音」の「栄養バランス」は、音響学的に整理されたものになっていたと言えそうです。そして19世紀の音楽の中で、最も目覚ましく発展したのは、他でもなくピアノ音楽とオーケストラ音楽ですから、音楽家の側でも、音の「音響学的栄養バランス」がおおむね好意的に受け止められていたのだろうと思います。

(5) 倍音理論と和音の「配置」

音響学が音楽理論に与えた影響として最も有名でインパクトがあったのは、和音の組成を倍音理論で説明する試みだと思います。「ド・ミ・ソ」の長三和音(major chord)は、基音と第3、第5倍音の組み合わせに相当し、「ソシレファ」などの属七和音(minor 7th)は、そこに第7倍音を加えたものに相当する。まだ具体的な出典をたどって確認できてはいないのですが、こうした倍音列と基本和音の相似性を手がかりにして、いつしか「三和音は倍音列という音響の自然的特性に根ざす音の組み合わせである」という仮説(思いこみ)が醸造されていったようです。

整数倍の周波数を組み合わせた場合、相互干渉の「うなり」が生じないので、響きが良いのは間違いありません。ピュタゴラスが発見したとされるオクターヴ(周波数比1:2)、完全5度(2:3)、完全4度(3:4)、ルネサンス時代に新たに「協和音」と認定された長3度(4:5)の響きの良さは、「うなり」の有無を手がかりにして「耳」で簡単に確認できます。最初に音合わせ(チューニング)をして、曲のひとつひとつの和音が「うなり」を生まないようにピッチを調整しながら演奏するというのは、合奏のイロハですね。

19世紀の音楽には、和音の構成音を倍音列に似た配置で割り振る例がしばしば出てきます。例えば、ショパンの練習曲op. 12-1の冒頭は、左手の「C-c」(以下、音名表記はドイツ式)のオクターヴの上に、右手が「c-g-c1-e1」という音で入ってきます。「C」の音に含まれるとされる第2〜5倍音(c-g-c1-e1)をなぞるようにして右手が動くことで、和音の「柱」が打ち立てられています。

また、リヒァルト・シュトラウス「ツァラツストラはかく語りき」の冒頭(キューブリックの「2001年宇宙の旅」で有名な)では、オルガンの低い「C」音の上で、トランペットが第2〜5倍音を順に昇っていくように「c1-g1-c2-e2」と吹いて、そこにトゥッティのc-moll/C-durの和音がかぶさります(この時、さらに高い音域を弦楽器と管楽器が補強することで、和音に圧倒的な輝きが加味される)。超人ツァラツゥトラ(ゾロアスター)が体現している真理の輝きが、音楽における完全性である(と音響学的に信じられていた)倍音列的な和音として鳴り響いているわけです。

先に書いたように、倍音列は、本来「単独の音」を解析して得られる音の組成(音の食材の栄養バランス)であって、「複数の音」を組み合わせる和音の組成(食材の調理法)とは話のレヴェルが違っています。そして音楽の現場では、倍音列的な「明瞭な音程」だけが求められていたわけではありませんし、和音を用いるときに「響きの透明度」だけが求められていたわけでもありません。ショパンやシュトラウスが倍音列的な配置でハ長調の和音を鳴り響かせたのは、「ピアノ演奏法研究(Etude)」の第一頁の第一和音や、ニーチェ的超人の登場という特別な場面だからですね。

前のエントリー(id:tsiraisi:20070705#p1)で書いたように、伝統的な音程概念を周波数の組み合わせという音響学に完全翻訳することはできそうにないですし、「基音の整数倍」という倍音列のモデルは、短三和音を上手く説明できないというかなり致命的な弱点を抱えています。けれども、特定の条件が揃った場合には、倍音列という音響学の発見が和音構成に応用されることもあった。倍音列を「和声の基礎」と考えるのは無理がありますが、倍音列理論を導入すると、音響解析と「(耳で確認できる)響きの良さ」をリンクさせることが可能になる。倍音列理論は、音響学と和声理論の接点、音に対する自然科学的なアプローチと人間主義的なアプローチの便利で有力でインターフェースと考えればいいんじゃないかと思います。

(6) 音響学とロマン主義

従来のヨーロッパの音楽観では、前のエントリーで詳述したバロック流の「和音の塊」による時間の歩みにしても、古典派器楽のゲシュタルト認知的な「旋律/伴奏」の識別にしても、音という「目に見えず、手に取ることのできない無形の現象」をあたかも実体があるかのように扱っていて、音に上下・奥行きを与えようとしていたように思われます。

もちろん、この時代に「サウンド」や「音色」への配慮がなかったとは言い切れないでしょう。古楽器の復元演奏は、かつての楽器が持っていた個性的な「音色」の魅力を再発見させてくれますし、前のエントリーで指摘したように、古典派のなかでも、モーツァルトは楽器の音色に対して鋭い嗅覚を持っていたように思われます。でも、そうした「サウンド」「音色」があくまで隠し味であって、そこからシステマチックな理論が構築されることはありませんでした。

それまで脇役・隠し味扱いだった「サウンド」や「音色」が、なぜ19世紀になって脚光を浴びることになったのでしょう?

非常にベタな説明ではありますが、やはり大きなきっかけはロマン主義の隆盛。音楽を「現実との結びつきが最も希薄な芸術」とみなして、言葉や理性の編み目からこぼれ落ちる「彼岸の言葉」(通俗的には「夢」や「空想」)を音楽に期待する思想が時代を席巻した時代状況が大きいと思います(音楽とロマン主義の関係についてはid:tsiraisi:20070419#p1もご参照ください)。

例えば、ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」は、森の狩人の住む村で悪魔ザミュエルが村人にちょっかいを出すというメルヘンですが、台本では、ザミュエルが舞台上に姿を現さず、どこからともなく声だけが響くという設定になっています。そしてウェーバーの音楽は、オーケストラの特徴的な「音色」によって悪魔の存在を観客に体感させます。

「悪魔の音色」が最初に響くのは、序曲の序奏部分、朝靄の中で狩人たちが朝のお祈りを捧げるホルンの有名な旋律のあとです。和声的には、ホルンの歌のハ長調の主和音(ドミソ)を曇らせたような減七和音(ド・レ#・ファ#・ラ)。音色的には、弦楽器のトレモロにクラリネットの低い音域(いわゆるシャルモー音域)の和音を重ねて、裏泊(第2、4拍)にティンパニーと低弦のピチカートが響きます。「旋律/伴奏」の区別ができず、トレモロでぼかされて「和音=音の塊」としての実体感も失われて、そのかわりに、トレモロ・シャルモー音域・抑制されたピチカートといった音の「質感」が露出しています。目に見えない悪魔の「気配」が、「和音」や「旋律/伴奏」というカテゴリーをすり抜ける音色・音の質感=サウンドで暗示されているわけです。

ロマン主義という文学由来の思想を音楽の領域に適用しようとするとき、音楽家たちにとって、従来の理論からこぼれおちる「音色・音の質感・サウンド」の活用こそが最も有力なツールだったように思われます。

(7) 音響学とコンサートホールの静寂

そしてもうひとつ、音響の微妙な「質感」を味わう上で重要だったのは、音楽を静かに鑑賞する態度(渡辺裕「聴衆の誕生」などで西洋近代の音楽聴の特徴とされる集中的聴取)の普及だろうと思います。

音楽を「静かに聴く」という態度が推し進められた動機は、もとはといえば美学的なものだったと思われます。音楽を「芸術」として価値づけるために、19世紀には、音楽が特定の用途・役割をもたない「自律的存在」であるということが強調されるようになりました。音楽作品は、外部から切り離されて、内的に充実した「小宇宙・ミクロコスモス」であるというわけです。この考え方には、「芸術作品の自己完結」という古典主義美学と、「音楽の非現実性=現実世界からの独立」というロマン主義、「音の運動がもたらす形式美」というモダンな形式主義が複雑に絡み合っています(→カール・ダールハウス『絶対音楽の理念』等をご参照ください)。そしてこの芸術作品という「ミクロコスモス」の全体を把握するためには、一音もゆるがせにすることなく静かに集中して音に耳を傾ける態度(いわゆる「美的鑑賞」)が要請される。(楽章の切れ目を拍手で寸断してはだめ、というのも同じ思想ですね。)

実際にこのような「美的鑑賞」の理念が完全に実現するのは二〇世紀に入ってからのようですが、ともかく、こうした「美的鑑賞」「集中的聴取」の推進が、コンサートホールに静寂をもたらして、結果的に、ホール内では、まるで音響実験室のように、微妙な音響・サウンドの陰影をつぶさに聞き取ることができるようになった。(そして最近では、コンサートホールを設計するときに、コミュニティ・スペースとしての快適性などより何よりも、「音響特性」が要視されるようになっていますね。)

(6)で述べたロマン主義にしても、ここに書いた「コンサートホールの静寂」にしても、もともと音響学の自然科学的な態度とは直接結びついていません。むしろロマン主義には、自然科学的な実証主義と相容れないところもありそうです。それなのに、結果的には、音響学的な発見が、楽器の改良・開発などを通して、ロマン主義的な音作り、「音色・音の質感・サウンド」重視の音楽をエンパワーしていますし、「美的鑑賞」がもたらした「コンサートホールの静寂」は、聴衆が「サウンドの機微」に気づいて、いわゆる「オーディオ・マニア」的な聴き方に目覚める条件を準備してしまっているように見えます。こういうのを歴史のダイナミズムと言うのかな、と思ったりします。皮肉なものですね。

[追記]

●ディナーの試食、R. シュトラウスとラヴェルの管弦楽曲

授業では、19世紀から20世紀前半の管弦楽曲とピアノ曲をいくつか紹介して、作曲家たちが音響学的な「明晰さ」や「透明感」に収まらないサウンドの配合を試みていたことを確認してもらいました。おそらくこうしたサウンドの「味付け」に着目するのは、高性能オーディオ再生装置や残響○○秒の音楽専用ホールが普通になった、現在の最も標準的なクラシック音楽の楽しみ方でもあると思います。そういう意味も込めて、今回は、「名曲名盤鑑賞会」風に、手持ちの定番的な録音でそれぞれの作品を聴いてもらいました。

最初に聴いてもらったのは、リヒァルト・シュトラウス「最後の4つの歌」から「夕映えに」の冒頭。シュトラウスは先ほどの「ツァラツストラ」の作曲家であるわけですが、決してああいう、ちょっと軽薄にも感じられるハッタリだけの人ではなかったという、名誉回復の意味を込めて選曲しました(笑)。演奏はカラヤン。

R.シュトラウス:交響詩「死と浄化」/変容/4つの最後の歌

R.シュトラウス:交響詩「死と浄化」/変容/4つの最後の歌

  • アーティスト: ヤノヴィッツ(グンドゥラ),R.シュトラウス,カラヤン(ヘルベルト・フォン),ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2001/10/24
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログ (4件) を見る

「ツァラツストラ」の一切の翳りのない、ハ長調の「白色光」とは違って、こちらは、夕暮れの刻々と色調を変える光を暖かい混合色のオーケストレーションで描いた作品。80歳を越えて、「前世紀の生き残り」のように第二次大戦後まで生き延びてしまった最晩年に、あざといくらい図々しく、でも誰も文句を言えないくらい見事に「人生の黄昏」と「一日の終わり」を重ね合わせて書き上げられた曲ですね。生前は批判のほうが多かったカラヤンですが、近代オーケストラの油絵の具を厚く重ねる深い色調(でも色ムラが全くない!)はこの曲にぴったりだと思います。(ちなみに「ツァラツストラ」は同じベルリン・フィルをベームが指揮した録音を使いました。「2001年……」のサントラはこの演奏らしいですね。)

次に聴いてもらったのは、ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2幕の夜明けの場面。地中海の海沿いの森の夜明けという、いかにも定型的な情景を描くのに、偏執的なまでに細密なオーケストレーションが施されている曲。森のざわめきを作り出す管楽器の微細な音の動きの書き込みは異様ですね。点描的な筆致で光を捉える音楽の印象派というのは、あまりにも月並みな形容ですが、この部分に関しては、そういう風に言うしかないかもしれません。五線譜に音符を書き込んでいく伝統的な作曲法でここまでのことができるという手作業のスーパーリアリズム。

ラヴェル:管弦楽曲集

ラヴェル:管弦楽曲集

  • アーティスト: ニューヨーク・フィルハーモニック,ラヴェル,ブーレーズ(ピエール),クリーヴランド管弦楽団
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックレコーズ
  • 発売日: 2000/07/05
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログ (1件) を見る

使った音源はニューヨーク・フィル時代のブーレーズ(合唱つきの全曲版)。たまたまこの演奏しか手元になかったという消極的な理由で選んだのですが、マスの効果に頼らずに細部を精緻に組み立てるスタイルは、シュトラウスのオーケストレーションとの違いを比較しながら聴くには、良かったんじゃないかと思っています。

そして管弦楽鑑賞の最後に取り上げたのは、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」(演奏者は上と同じ)。時間の関係もあり、最初の部分と最後のクライマックスを抜き出して聴いてもらいました。

ウィンナー・ワルツへのオマージュとして構想された作品で、冒頭部分はほとんど「映画的」ですね。まるで「神の視線」の空中からの映像みたいに、黒々とした雲(不気味な低音のうごめき)の間から、ときどき地上のワルツのリズムやメロディーの断片が漏れ聞こえてきます。次第に霧が晴れて、ワルツがはっきり聞き取れるようになる様子は、まるで、カメラが少しずつ地上に接近して、ついに舞踏会場の中へ入っていくみたい(「ムーラン・ルージュ」や「SAYURI」でロブ・マーシャルがそんな感じの撮り方をしていましたね)。ヴァイオリンの断片や、一瞬聞こえてくる木管楽器が、香水の香りや官能的な記憶のフラッシュバックのように耳に飛び込んできて、記憶を呼び覚ます音の選び方、洗練された見せ方は見事すぎます。

そして舞踏会が最高潮に達した結末は、豪華客船タイタニック号が沈没するかのような破滅の情景。着飾った舞踏会の人たちは、最後までワルツに酔いしれたままで滅んでいくんですね。絢爛豪華なブルジョワ趣味を最後の最後まで損なうことなく、シャンデリアがぐらぐら揺れたり、地面が大地震のようにうねっている光景は、細かく説明しなくても、実際に音を聴いてもらうのが一番だと思います。(余談ですが、この曲はバーンスタインによる「ヤング・ピープルズ・コンサート」の実況映像が残っています。バーンスタインは「予備知識なしに、あなた自身で音を感じてください」と言って演奏を始めていますが、よりによって、未来ある子供たちを集めた青少年教育プログラムの記念すべき第1回のメインにこの曲を選んだのは、どういう意図だったのでしょう(笑)。)

ラヴェルがこの作品を構想したのは第一次世界大戦中で、初演は大戦終結後だったようです。「クープランの墓」と並ぶ「昨日の世界」へのオマージュ。ヨーロッパ全土が戦場になり、古き良き世界が滅びてしまったという思いを込めた作品ということになると思います。オーケストラ音楽の最盛期も第一次大戦まで。クラシック音楽が、まるで帝国主義そのもののように膨張を続けて、ブルジョワの社交生活のように洗練を極めた時代の「絶頂=破局」を音にしたような作品ですね。

●シェフのレシピ、シューマン、ドビュッシー、スクリャービンのピアノ曲

音源の「鑑賞会」だけでは芸がないので、最後にピアノ曲をサンプルに、具体的な和声分析もやってみました。

(1) シューマン「子供の情景」より「トロイメライ」

最初に取り上げたのはシューマンの「トロイメライ」。この曲については、プフィッツナーのこの曲は分析不可能だ、という発言があり、

しかしこのような旋律に接するとき、人々はまったく中空に浮遊するのである。人々はその質を認めることはできても、それを論証することはできない。というのも、その質というものは何らかの知的な方法によって捕らえられるといったものではなく、ただそれを通じて感得される恍惚感がわかるかわからないか、どちらかでしかないからである。[…中略…]その旋律を弾いてみせ、「なんてすばらしい!」と言う以外に語ることはないのである。

この発言を痛烈に批判したアルバン・ベルクの論文があります(「ハンス・プフィッツナーの<新美学>の音楽的無能性」、邦訳はヴィリー・ライヒ著、武田明倫訳『アルバン・ベルク』所収、上の引用は同書266頁から引用)。プフィッツナーが手放しで「なんてすばらしい!」と言うしかないと思ったのも、ベルクが「個々の動機のもつすぐれた含蓄性、それら相互の豊かな関連性、そしてそれらの動機的素材の使用における多様性」(同274頁)を分析的に指摘しているのもこの曲の「旋律」についてです。

しかしここでは、この曲の「和声」に着目してみたいと思います。

まず予備知識として確認しておきたいのは、ピアノにかぎらず、楽器で和音を演奏するときには、和音構成音の具体的な「配置」によって様々な効果が生まれるということです。例えば、同じ「ド・ミ・ソ」の和音であっても、中央の「ド」の上に順に音を積み重ねたとき(c1 + e1 + g1)と、四声体の和声実習でやるように、2オクターヴの広がりのなかに、根音(ド)が重複するように4つの音をまんべんなく配置したとき(c + g + e1 + c2など)、あるいは、通奏低音実習の初級編でやるように、楽譜に記載されたバス音を左手で弾き、右手で数字や旋律が要請するその他の音をつかむとき(左手:c、右手:e1 + g1 + c2など)では、少しずつ響きが変わります。

実際のピアノ曲では、ベートーヴェン「エロイカ変奏曲」の冒頭のように、両手をそれぞれオクターヴに広げて4音ずつつかんで、大砲を撃ち込むように強烈な響きを作ることもできます(左手:C + E + G + c、右手:c2 + e2 + g2 + c3、ただし実際の「エロイカ変奏曲」はEs-durなので短三度上)。また、ショパンやリスト以後のヴィルトゥオーソのピアノ曲では、魔法のような効果を発揮する様々な配置(手のつかみ)が試みられています。例えばショパンのスケルツォ第2番の冒頭では、中音域での両手がオクターヴ平行でつぶやく音型と、左手の低音のオクターヴ+両手が高音域に密集する甲高い和音という内的緊張を孕む楽想が交互にあらわれます。そして低音域でうごめくオクターヴのトリルが蝶番のようにして場面を転換。両腕を左右に大きく開いて、左手は極めて低い位置での根音のオクターヴ重複(DES1 + DES)、右手は最高音域での3度(f4)という強烈な響きが出現します。カツァリスはNHK教育のレッスン番組で、この箇所で「Soleil!(太陽)」と叫んでいました。コード・ダジュールの肌を刺すような真夏の陽光かもしれませんね。どの音域でどのようなタッチで弾くかによって、ピアノが奏でる和音は、表情が一変します。

シューマン「トロイメライ」は、旋律が歌い始めでふと立ち止まり、夢見がちに舞い上がると、遠くに視線を馳せるようにまた立ち止まってしまいます。そして、ここで注目したいのは、旋律が立ち止まったときの「サウンド」の組成はどうなっているか、ということです。

最初の小節では、旋律(f1)とバス(F)の2オクターヴの広がりの中に、両手の親指を妖しく交差させながら、びっしり4つの音が詰まっています(F + c + f + a + c1 + f1)。中低域の中身のつまった穏やかな響きです。次の小節は、旋律がオクターヴ高い音(f2)へ伸び上がることで、バス(B)との間隔が2オクターヴ半に広がります。ところがこの広い空間を埋めているのは、1小節目より少ないたった3つの音。しかもその配置が独特で、空間のほぼ中央の三度「d1 + f1」の周囲に、上はオクターヴ(f1 + f2)、下は6度(d1 + f)と間隔がスカスカです(B + f + d1 + f1 + f2)。第五音(f)だけが3オクターヴにわたって重複しているというのも、不安定で今にも崩れ落ちそうな危ういバランス。そして実際にこのあとは、夢想から現実へ連れ戻されるように、旋律がひらひらと舞い降りてくるわけです。旋律が第6小節で一度目よりさらに3度高い「a2」まで伸び上がったときには、属7和音(IVに対するドミナント)で、しかも第一転回形でバスは和音の第3音(cis)。これだけでも不安定なのに、相変わらず旋律音が3オクターヴにわたって重複されています。本当にあぶなっかしい響きです。後半(反復記号のあと)も、旋律が立ち止まった時の和音は次々表情を変えています。第10小節は、9度の緊張した響きで、しかも、旋律が立ち止まっても内声が動き続けるというように波乱含み。第13小節でもう一度旋律が歌い始めるところは、バスにこの曲中の最低音(B1)が鳴り、次の小節で旋律は曲中の最高音(b2)へたどりつきます。ここは、音の翼を大きく広げるように曲中で最も広い音域が使われているわけです。そしてこのあとは、再び翼を折りたたむようにして、曲の最初の旋律が最初と同じ形で戻ってきます。

メロディがあまりにも有名ですが(そしてそれがプフィッツナーとベルクの論争の的にもなったわけですが)、旋律の恍惚とした飛翔を背後で支える「和音の質感」に注目すると、「トロイメライ」を新鮮に聞き直すことができるのではないでしょうか?

授業では、ホロヴィッツの1965年カーネギーホールの実況録音を聴いてもらいました。

1965年 カーネギー・ホール ザ・ヒストリック・コンサート(アニヴァーサリー・エディション)

1965年 カーネギー・ホール ザ・ヒストリック・コンサート(アニヴァーサリー・エディション)

  • アーティスト: ホロヴィッツ(ウラディミール),バッハ,シューマン,スクリャービン,ショパン,ドビュッシー,モシュコウスキ
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2003/12/17
  • メディア: CD
  • クリック: 7回
  • この商品を含むブログ (9件) を見る

これはどなたにも納得していただける選択ではなかったかと思っております。耳を澄ますと、メロディの語り口やペダルの操作により響きのにじみ、内声とのバランスなど、常に何か新鮮な事件が起こっている演奏です。(授業のあと、「今日のトロイメライは、今までの人生で一番素晴らしかった」と感想を書いてくれた学生さんがいました。あなたの耳は正しい。あなたが今日聴いたのは、史上最高のピアニストによる伝説の名演なのですから……。)

(2) ドビュッシー「前奏曲集第2巻」より「霧」

今回分析した残りの二曲はどちらも20世紀初頭の作品。和声の可能性を伝統的な理論が公認する領域の外へ拡張して、新しい「音色・質感・サウンド」を作曲家が個人の営為として発明・開発するようになった時代のサンプルを取り上げました。

そのひとつめはドビュッシーの「霧」。ここで起きていることはそれほど複雑ではありません。左手は、ピアノの白鍵盤の上で、子供が遊ぶように三和音で平行移動しています。(手を「蟹の形」に固定して左右に動かせば、簡単に真似することができますね(笑)。)そして「霧」という標題は、このシンプル極まりない左手の三和音平行移動を、右手の別の分散和音が複調風にぼかした状態を指すのだと思います。例えば、一番最初のところでは、左手の「ド・ミ・ソ」の和音(C上の長三和音)に、右手の「レb・ミb・ソb・シb」の和音(Ges上の五六の和音もしくはes上の七の和音)が重なっています。

ただ、ちょっと面白いなと思うのは、第一に、このC-durとGes-dur/es-mollの組み合わせが、ストラヴィンスキーのいわゆる「ペトルーシュカ」和音(同名のバレエ音楽に出てくるC-durとGes-durの複合和音、)とほぼ同じだということ。そして、メシアンが「我が音楽語法」で二十世紀初頭の用例を総括するようにしてまとめあげた「移調の限られた旋法」の第2番(c-des-es-e-f-fis-g-(a)-b-c)そのものだということです。私にはまだ上手く理解・整理できませんし、これはメシアンのように知的・数学的・神学的に説明して済むことではないと思いますが、20世紀の音楽家が長短調や調的和声法の外の世界へ出たときに、そこは無秩序・無際限の荒野だったわけではなく、一種の共有材として使えるような手がかり・足がかりになるものがあった、ということなのだと思います。ともあれここから、20世紀音楽のチャレンジが始まったわけですね。

ドビュッシー:前奏曲集(2)

ドビュッシー:前奏曲集(2)

  • アーティスト: ミケランジェリ(アルトゥーロ・ベネデッティ),ドビュッシー
  • 出版社/メーカー: ポリドール
  • 発売日: 1991/04/25
  • メディア: CD
  • クリック: 13回
  • この商品を含むブログ (4件) を見る

授業では、ミケランジェリの演奏を聴いてもらいました。ホロヴィッツの後に続けて流すドビュッシーの音源となると、やはり、これしかないでしょう。演奏家の人格が音の物質性の中に解消してしまったような演奏。ロシアのヴィルトゥオーソとは正反対のイタリア貴族のダンディズム。

(3) スクリャービン「2つの小品」作品57より第1曲「欲望」

スクリャービンの音楽は私自身どこからアプローチすればいいのかよくわからないところがあって、今回、自分自身の勉強のつもりで取り上げました。ドビュッシーのほぼ同時期の作品で、ドビュッシーが外界の音(やその向こう側にある世界)へ関心を向けるのに対して、「神との合一」という観念にまで到達してしまう内省的な瞑想ということなるのかな、と思います。

曲の冒頭は、完全4度と増4度を合成したスクリャービンのトレードマークの神秘和音(c-fis-h/ais-e)。曲の最後は、5度(c-g)の上に全音音階(f-h-f/b-dis-a-dis-a)が浮かんでいます。全音音階が最初に出てくるのは第3小節で(es-des-g-h-f)、以下、神秘和音と全音音階の間を揺れ続けているといえそうです。ただし、曲のあちこちには、調性の名残のようにバスの5度進行(第1小節、第3から4小節など)が現れます。特に曲の終わり間近の第11-12小節はDes→Gesの5度進行をはっきり響かせて(しかも第12小節Ges-durはces-bの係留で解決が強調される)、次の曲を締めくくる2小節でも、中空に浮かぶ全音音階の下で、「g-f-h」から「c-g」へという5度進行が機能しています。単一の音システムで全体が統合されているのではなく、神秘和音と全音音階とカデンツ和声という三つの光源に三方向から照らされる複雑な響きの陰影のような作品として作られているような気がします。

「3つの光源の交点」というイメージを象徴的に示しているのが第4、5小節(同じ響きが5度低く移調して第9、10 小節にあらわれます)の状況でしょう。低音域の5度(g-d)と、高音域の6度(e-c)という壊れかかった調性の廃屋のような枠組みの間に、まず神秘和音(c-fis-h)が響いて、内声の半音階的な声部進行(h-b-a-gis-a)と、上声のアラベスク模様のような身振り(d-dis-fis-dis-e)の絡み合いの中で、光が乱反射するように、第3から第4拍目にかけて、全音音階(c-fis-gis-d)→属七和音(c-fis(ges)-gis(as)-dis(es))→減七和音(c-fis-a-dis)と次々和声のニュアンスが変化してゆきます。

スクリャービンの音楽語法は、当人は神秘主義的に「解脱」したのかもしれませんが、部外者から見ると袋小路へ迷い込んでしまったように見えます。歴史的にも、帝政ロシア末期の爛熟は社会主義革命で断ち切られてしまいました。けれども、スクリャービンの一世代あとのロシアに生まれたヨゼフ・シリンガーの和声理論がアメリカでポピュラー音楽理論の出発点になったとも言われているようですから、ロシアの複数の光源を組み合わせるように出自の異なる伝統的or人工的な和音を合成する音響世界は、大きな文脈で見ると、20世紀のポピュラー音楽の「官能と憂鬱」へと引き継がれたのかもしれません。

授業では、女学院の先生、ボリス・ベクテレブの演奏を聴いてもらいました。

スクリャービン:ピアノ作品集

スクリャービン:ピアノ作品集

奇をてらわない本当に充実した演奏だと思いますし、こういう演奏を聴いたうえで、世紀末・二十世紀初頭の響きを学生さんがどういう風に受け止めてくれるのか、とても興味があったのです。

[追記おわり]

(授業はあと1回あります。19〜20世紀の「形式」概念について考えてみる予定です。)

*1:一方20世紀になると、要素的な波形から様々な音を合成するシンセサイザーが(すべてを正弦波から合成しているわけではないにしても)本当に作られてしまいますし、音響学が心理学と共同で現実の様々な聴覚現象を解析して、オーディオやホール設計の技術に応用されています。また他方で、音響学の知見を飲み込んでしまったバークリー理論のように怪物的な音楽理論が出現します。自然科学と職人的な理論が行儀良く棲み分けできた19世紀は、そういう意味では「幸福な過渡期」だったのかもしれません。