大フィル(7/5)と京響(7/14)で下野竜也さんを聴く

7月は大フィル定期(5、6日、ザ・シンフォニーホール)と京都ミューズ主催の京響公演(14日、京都コンサートホール)で、相次いで2回、下野竜也さんが指揮する演奏会を聴きました。
大フィルは、ブラームスのピアノ協奏曲第1番とシューマンの交響曲第4番という二つのニ短調。京響はメンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」とフォーレのレクイエム。ブラームスとメンデルスゾーンで特にそう感じたのですが、混合色の陰影とでも言うのでしょうか、色々な楽器が混ざり合ったときに、全体のトーンは濃いめでくすんでいるのだけれど、混濁しているのではなくて、目をこらすと徐々にタッチとニュアンスの違いが見えてくる。下野さんにとってドイツ音楽というのはこういうイメージなんでしょうね。

ブラームスは、伊藤恵さんの独奏とちょっと肌合いが違って、ピアノを厚く包み気味ではありましたが、第1楽章の4分の6拍子は、リズムの点でも1小節内で色々なことが起きる「濃厚な拍子」という感じで、音の質感とマッチする筋の通ったアプローチだと思いました。(数日後7/8には、金聖響指揮、菊地洋子独奏、オーケストラ・アンサンブル金沢で同じブラームスの1番を聴きました。会場も同じシンフォニーホール。指揮・ピアノともにちょっと攻めあぐねている感じで、金さんと下野さんは同世代ですが、方向性の違いがはっきりしてきましたね。)

それから、下野さんは、昨年聴いたドヴォルザーク「新世界」でもそうだったのですが、今回のシューマンも、スコアの版や異稿の問題について、自筆譜や出版譜の細部をかなり詳しく調べているみたいなのだけれど、アプローチが一種独特。

自筆譜と初版に食い違いがある(ドヴォルザークの第2楽章のチューバの扱いなど)とか、初稿と最終稿でテンポの指定などが違っているらしい(確認していないのですがシューマンではあちこちにそういうところがありそうです)という時に、「どちらが作曲者の最終意図か?」ということよりも、「どちらの楽譜がよりチャレンジングか?」ということを優先している印象を受けます。

ノリントンやジンマンだったら、そのチャレンジが端的に音として面白いので、聴いていて解釈に「共感」できてしまう(「一風変わっているけれど、この解釈が実は<正解>なのかもしれない」という気にさせられる=快くダマされる(笑))わけですが、下野さんの場合は、どんな楽譜であろうと音楽として成立させてしまう、一種の演奏職人なのだと思います。この楽譜はこうすれば上手くいく、もう一つの楽譜はこうすれば上手くいく、というそれぞれのやり方が見えていて、どっちもアリなのだけれど、本番は一回しかないから、それだったら「より普通ではない」ほうでやってみよう、という感じ。シューマンは、よくこれだけ大胆なアゴーギグ&楽器バランスを次々試して音楽が破綻しないものだと、作品の解釈云々よりも演奏の腕前に関心させられました。

これだけ色々なことをやって、それでも嫌味じゃないのは、サウンドが明るいのと、「唯一の正しさ」を目指すタイプの演奏にありがちな、演奏者にどこかで無理強いしている気配が、少なくとも客席からはまったく感じられないからかな、と思います。

「楽譜に書いてあることは、(奏者や聴衆の感覚に合わないところも)その通りにやらなきゃダメだ」という姿勢はちょっと朝比奈隆風だけれど(そしてこれは西洋の音楽に安易に同化・共感しないということ、大げさに言えば、音楽の「他者性」が演奏家に日々精進を課しているということだと思います)、「オレに付いてこい」的な<オッサン>の頑固一徹ではなく、具体的な処理方法は当世風。そう言えるかもしれませんね。