第6回大阪国際室内楽コンクール本選

いずみホールに朝から晩までいて、弦楽四重奏のピアノトリオの各4団体(ということは、バルトークの3番とベートーヴェンの作品132、ベートーヴェン「街の歌」とシューベルトの変ホ長調トリオを各4回)聴きました。(審査員の方は、これが一週間続いたのですから、本当にご苦労様です。)

結果は、こちらも連日常駐で張りついていらっしゃって、非公式速報ブログをやってくださっている渡辺和さん(こちらも本当にお疲れ様です!)のところでどうぞ。http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/
弦楽四重奏は、既に(ステージマナーから何から)ばっちり出来上がっているドーリックの一位は順当かな、と思いました。

同率三位に2団体入ったということは、28日の披露演奏会には、本選出場の全グループが出られるということなのでしょうね。2位、3位の3団体も、おしゃれ系、これからが楽しみ系、忽然と出現した荒削りだけれどめっぽう面白い野武士系とそれぞれキャラクターがはっきりしていて、退屈しない演奏をしてくれると思います。

ピアノ三重奏は、一次予選課題曲にフンメル(3曲から1曲選択)、本選がベートーヴェンとシューベルト。曲目がウィーンものに偏っていて、客席で聞いている分には、ウィーンのレントラーをちゃんとそれらしく弾く団体と、それ以外のグループの外国語を棒読みしているようなスタイルの差がありすぎて(棒読みスタイルのシューベルトを何度も客席で聞くのはかなり辛いものではありました)、どういう風に審査するんだろうと思いましたが、結果は、そういう地元色をあまり顧慮しない判定だったようですね。

たぶん、課題曲は「ウィーンもの」というより、審査員全員が知っていて、対等の立場で審査が出来る最大公約数的な曲ということで選ばれて、そういうニュートラルな視点からアンサンブルの出来不出来で判定されたのでしょう。そういえば「熱狂の日」もフランス人のプロデューサー氏による多国籍メンバーによるシューベルト特集でしたし、「国際市場」の公式見解としては、シューベルトのウィーン・ローカルの「訛り」を重視しない了解が今も生きているのでしょうか。

いわゆる「ピリオド・アプローチ」の最近の動向としては、むしろ、19世紀のシューベルトやメンデルスゾーンを、中世・ルネサンスの古楽の延長で、ヒストリカルな楽器=一種の「民族/民俗楽器」による「ドイツ語圏の民族/民俗音楽」として演奏するのが流行かな、という気がしますし、

クラシック音楽を「ヨーロッパの民族/民族音楽」と見る視線は、例えば片山杜秀さんの、「近代日本音楽」の「日本訛り」を肯定すべし!という論調とも相性が良さそうな気がするのですが(ヨーロッパにはヨーロッパの「訛り」、アメリカにはアメリカの「訛り」があり、アジアや日本にもそれぞれの「訛り」がある、それでいいじゃないか、と)、

片山杜秀の本(2) 音盤博物誌

片山杜秀の本(2) 音盤博物誌

でも、「国際コンクール」というシステムは、どこに持っていっても通じる音楽、「標準語的」、「エスペラント語」的な音楽を促進する傾向をシステム上どうしても持ってしまうのでしょうね。

「国際コンクール」がこの先(あるいは既に)難しい時代になっているということなのか、「ピリオド・アプローチ」とかいうのは、世界のグローバル市場を形成しているクラシック音楽全体から見れば、いつ下火になるかわからない一過性の(ヨーロッパの成熟してしまった市場でしか通用しない)流行に過ぎないということなのか。ちょっとそんなことを考えました。

[追記]

記事がやくぺん先生に見つかってしまったようで(笑)。

改めて考えると、室内楽の「エスペラント化vsローカルな訛り」は広がりのありそうな話ですね。

とりあえず、弦楽四重奏は純化された共通語の音楽(だからドーリックQのスタイルを素直に評価可能)。一方ピアノ三重奏や管楽アンサンブルは、音色的にも、想定されるプレイヤーの性質的にも、もうちょっと雑多な要素が入る傾向がある(ロマン以後のピアノ三重奏にはスター・ソリストの「夢の饗宴」の名演奏の系譜もありますし、作曲家は特定の奏者を想定して管楽器を書くことが多い等々)。コンクールの方針策定も大変そう。とひとまず言えるのでしょうか。

でもハイドンの経歴を見ていると、弦楽四重奏が猥雑物を取り去った同族楽器の四声体=「天国に一番近いジャンル」ではあるけれど、実は、立ったままで、お座敷が掛かればいつでもどこでも即座に演奏せねばならなかったセレナード弾きの伝統の中から生まれたことがわかりますし、

遡ってバロックのトリオ・ソナタになると、「メロディ楽器+ベース+キーボード」というのは、ほとんどジャズ・コンボですよね。イタリア様式もフランス様式も「すべてのバロック音楽はバッハへ通じる」というのは、マイルス・デイヴィスに戦後音楽が全部入っている(by菊地成孔)、みたいなことなのかもしれません。人格はともかくバッハの「音楽」はそれほど「純粋」ではないし、カルテットは、ぶれない軸というより、飄々と色々なモードに染まることのできる形態なのではないかと、こじつけてみたくもなってしまいました(←相当強引ですが)。

(だから、その意味では、大阪国際室内楽コンクールに、近代西洋室内楽の王道を行く弦楽四重奏部門と、ジャンル・年齢・国籍は自由、審査はボランティアの音楽ファンの投票、というボーダーレスなフェスタ部門の両方があるのは、とても面白いことだなと思います。メニューインの思いつきは偉大、かも。)

M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究

M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究

一方、19世紀にピアノ入りの室内楽が増えるのは、構造よりも音色の豊かさを求めるロマン派の好み、と言われることが多いようですね。ウェーバーは、オペラ作曲家だけに世の中の潮目を読む才覚があったようで、「弦楽四重奏は最も純粋で重要なジャンル」と口では言いつつ、自分では、ピアノ四重奏、クラリネット五重奏、フルート三重奏という「色つき」の室内楽しか書いていません。(どれも良い曲だと思うので、「熱狂の日」で「コンツェルトシュトゥック」の面白さに目覚めた皆さまは、シューベルトだけでなく、是非、こちらも聴いて下さいませ。)

室内楽の本流がどうなっていくか、というのは、ヨーロッパ音楽の「普遍性志向」の奥の院のようなジャンルとされてきただけに、なかなか面白そうな話ではありますね。