片山杜秀「関西作曲家列伝」第2回「大阪主義者」大栗裕、「大阪俗謡による幻想曲」初稿の作曲年、それから「新・八犬伝」のこと

片山杜秀さんが、いずみホールの無料PR誌『Jupiter』に「関西作曲家列伝」という連載を寄稿していらっしゃいます。前号の第1回が貴志康一で、今出ているVol.115が大栗裕。大栗裕について、ずばり「反骨精神」という言葉を使って書かれたのは私の知るかぎりはじめてだと思います。このキーワードがあると、ポジションがくっきりしますね。なるほど、です。

そういえば、辻久子の本によると、戦前、巌本真理と二人が天才少女で並び称されていた頃、東大には巌本ファンが多く、早慶には辻ファンが多かったとか。大阪は「反官」の気風と親和性があるのでしょうか。

同行二人、弦の旅 (なにわ塾叢書 (77))

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(『Jupiter』はホールへ行くと入手できるはずなので、エッセイの内容は現物でご確認ください。)

ここでは、片山杜秀さんが「1955年」としていらっしゃる「大阪俗謡による幻想曲」の作曲年について、私が把握しているかぎりのことを少しだけ書いてみます。

拙論にも書きましたが、「大阪俗謡による幻想曲」の初演は1956年5月28日(神戸新聞会館、朝比奈隆指揮、関西交響楽団)。これははっきりしているのですが、作曲年月日(スコアを完成した日付)は、スコア現物が所在不明で確定することが難しい現状です。

大阪音大の大栗文庫には、作成者不詳(もしかしたら大栗先生の自筆かも?)の作品リスト(手書き)があって、ここには主要作品の作曲もしくは初演の年(月日)が記されているのですが、「大阪俗謡による幻想曲」の作曲年月日は空欄のままです。

「大阪の祭囃子による幻想曲」と書かれた草稿(失われた清書稿の下書きと思われる)は、かなり慎重に数度にわたって書き直された跡があります。大阪のお囃子を使うという構想(これが確定しなければタイトルが決まらない)がまとまって、草稿を書き出したのは、もしかすると早い時期(1955年)かもしれません。

ただ、1956年前半のインタビュー記事や大栗裕自身が「大阪俗謡による幻想曲」完成後に書いた文章を読むと、この曲は、「管弦楽のための幻想曲」(1956年1月の大阪労音例会で初演)と「管楽器と打楽器のための小組曲」(1956年2月の室内楽演奏会で初演)よりあとに完成したようです。(1956年初め頃になされたと思われるインタビュー記事では、「管弦楽のための幻想曲」への聴衆の反応を踏まえて、ベルリンへ持っていく曲を創作中となっています。また、1956年5月に発表された大栗裕本人による「大阪俗謡による幻想曲」解説では、「小組曲」においてまだ日本音階の扱いが模索段階だったのが、「大阪俗謡による幻想曲」で、

漸くにして日本音楽の作曲技法に関する種々の問題がやや明確な形となって私の頭に現われ始めた

と書かれています。この文章は、「大阪俗謡による幻想曲」が、1956年2月末初演の「小組曲」よりあとに書かれたことをうかがわせます。

こうした証言を信じるとすれば、「大阪俗謡による幻想曲」の完成は1956年2月から初演された5月の間ということになりそうです。「1955年作曲、1956年初演」という記述をときどき見かけるのですが、私が得た情報から判断すると、作曲も1956年だと思われます。

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実は今、こんな感じで大栗作品の作曲・初演等の基本データを1曲ずつチェックする作業を進めております。

オーケストラ作品は大フィルのご協力をいただいてかなりはっきりしたことがわかりつつありまして、オペラについては、大阪音大音楽博物館がまとめた関西でのオペラ上演記録や関西歌劇団の50周年記念史などで概要を把握できます(そしてオペラの自筆スコアは、多くの場合、各幕の最後に書き上げた日付が自筆で記入されているので、作曲の進捗状況もわかる)。吹奏楽曲とマンドリン・オーケストラ作品は、今もそれぞれの分野の現役レパートリーなので、ネット上にも色々情報があがっているようです。あと、NHK委嘱の邦楽器の作品については、京都芸大日本音楽研究センターのデータベースhttp://neptune.kcua.ac.jp/nhk/index.htmlで、作品の一覧と放送日がわかります。

ラジオやテレビドラマなどの放送音楽は量が膨大(100作品以上)でまだ着手できていないのですが、室内楽や独奏曲もありますし、声楽も、現代音楽の会のために書いたピアノ等の伴奏による独唱曲や東京混声に提供した合唱曲のほかに、龍谷大・京都女子大など本願寺系の大学合唱団のための仏教聖歌がかなりあります。それから、日本舞踊や創作舞踊・松竹などの少女歌劇団への曲提供、バレエ、劇音楽などもいくつかあります。

それから、箏とオーケストラの協奏曲を先日亡くなった須山知行先生(宮城道雄のお弟子さんで大阪音大名誉教授)の桐絃社のために書いたりもしています。

このあたりの活動の全体像がはっきりすると、大阪在住で随分いろいろなことができていたのだな、大阪にも色々な取り組みがあったのだな、ということが見えてくるのではないかと思っております。

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ところで、今日、NHK人形劇「新・八犬伝」のDVDというのを観ました。

NHK人形劇クロニクルシリーズVol.4 辻村ジュサブローの世界~新八犬伝~ [DVD]

NHK人形劇クロニクルシリーズVol.4 辻村ジュサブローの世界~新八犬伝~ [DVD]

放送終了から10年後の回顧番組での坂本九さんの姿(あの日航事故の直前……)も収録されていて、色々感慨深いものでした。

実際の番組(DVDには3回分が入っている)を観ると、テーマ音楽(藤井凡大)がいきなり太棹三味線ですし、お芝居のほうも、坂本九の語りがあって、三味線が要所に入って、義太夫狂言の仕立てだったんですね。(アニメのアテレコのように人形の動きに合わせて坂本九がナレーションするのではなくて、売れっ子で時間のない坂本九が先に語りをまとめて収録して、人形の動きをそこに当てていたようです。語り(太夫)と人形の関係も、まるで人形浄瑠璃みたい。)

放送は1973〜75年。子供の頃、夢中で観ていたのをよく覚えております(最終回を春休みで華族でお出かけしていて観られなかったのがとても悔しかった思い出も……)。

ちょうど同じ時期、1974年度にNHKの連続ドラマ「流れ雲」(大阪制作)の音楽を大栗裕が担当したりしていたようです(http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200996804010130019/)。

大栗裕の作風は、60年代を席巻した二〇世紀音楽研究所や「音楽芸術」の前衛音楽派から見ると古くさいわけですが、系譜から言うと服部良一の和製ジャズなんかと同じで昭和モダンの感覚だと思います。(間宮芳生や松村禎三のストイックな民族性に比べれば古くさいけれど、宮城道雄の大正・新日本音楽よりは新しい。)

1970年頃には、ああいう音がマス・メディアで結構流れていたような気もします。吉本新喜劇の劇場中継で流れる「ホンワカ……」が実はジャズ(Somebody Stole My Gal)だったり、「笑点」(東京制作ですが)の音楽が中村八大だったり……。