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日本人音楽家の海外進出問題

TBSラジオのストリームが終わるということで、ポッドキャスト配信されている「コラムの花道」でも皆さん思い切った発言を続けていますね。

映画評論家、町山智浩さんは話の枕で、WBCをアメリカ人は誰も知らない、あれは、メジャーリーグ(の放映権)をアジアへ売り込むためにやっているのだと指摘。

http://www.tbsradio.jp/st/2009/03/317_5.html

朝比奈隆が毎年のようにヨーロッパのオーケストラを指揮しに行った(そしてしばしば大栗裕作品を取り上げた)こと、大フィルの欧州や北米への演奏旅行とは何だったのか、というのをずっと考えておりまして、

その関連で、戦後日本のマスコミをにぎわせた続けたノーベル賞受賞、オリンピック、小沢征爾などなどの報道、科学・スポーツ・文化での日本人の海外進出が、「実寸」でどれくらいだったのか、最近気になっています。

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とりあえず、月並みですが要チェックポイントが2つくらいありそうな気がしています。

ひとつは、それぞれの業績について、「ここまでできた」(こんな賞をもらった、あそこに呼ばれた、誰に会ったetc.)という、いかにも他人にいいふらしたくなるプラス面とあわせて、「ここまでしかできなかった/ここから先には食い込めなかった」という、あまり他人に知られたくないかもしれない(そして海外のことだから国内の人には隠しおおせると思ったかも知れない)マイナス面を現地の文脈で検証しないといけないだろうな、ということ。

(その検証作業が大変だから、なんとなくプラス面だけが語り伝えられることになっているのだろうと思いますが……。)

そしてもうひとつは、しかしながら、そもそも現地の文脈が実は副次的なのであって、「海外進出」は実は国内向けのイベントなのかもしれない可能性。表向きは、「日本のことを海外の人に知ってもらいたい」とみなさん言うわけですが、内実は、いわゆる「日本人を勇気づけること」(「敗戦で落ち込んでいた日本人の誇りを取り戻す」等々)の効用が大きかったり、海外で通用したというお墨付きを日本で活用する余得が大きかったりする構造を考えておかないといけないだろうなということです。

(こちらの作業は、ある種の偶像破壊的になるので、そこがやっかいなところですね。例えば、イスラエルの村上春樹やアカデミー賞のモックンについて、その背後に作動している仕組みを想像することはできるけれど、よほどしっかり具体的な裏付けを取っておかないと、想像だけで発言すると誰かを不用意に怒らせたり傷つけたり、あるいは自分が傷ついてしまうかもしれない。「海外進出」はナマモノ感の強い案件ですね。)

クラシック音楽(前衛作曲家を含む)の場合、もともとが外来のジャンルですし、海外の活動歴や留学歴、受賞歴をプロフィールに並べるのが通例になっていて、この種の「海外進出」する日本人の典型のようなところがあるように思います。その分、検証作業は大変でもありますが、誰かが手を付けなければいけないことではないかとも思っています。

[追記]それからもうひとつ。海外での活動が自腹の持ち出しで行われたのか、先方からの招聘なのかということも大事なチェックポイントになりそうですね。

「自腹」でやる場合は、先方としては絶対に損をしないのでやりたければやってください、という態度になるでしょうし、多少問題のある活動であっても本気で批判したりはせず、「好評」で終わる可能性が高い。

自伝・評伝を読むときに、ここに気をつけるだけで、随分とそれぞれの活動の「実情」を推測できるようになると思っています。過去の日本人の海外での活動は、(桁が間違っているのではないかと思う高額出費の)「自腹」のケースが少なくなかったようなので……。

そうしたものをふるいにかけて、誰のどの仕事が先方の招聘・仕切なのか(本気でその人を使いたいと思って呼んでいる、呼ばれる存在になっているのか)をつまびらかにしてみたいという思いが正直あります。ただしこういう作業は一種の「営業妨害」になってしまうかもしれず、金銭や他我のパワーバランスが絡むシビアな問題ではありますが。

それに、先に書いたように、たとえ「自腹」のイベントであったとしても、そんな風に「彼の地」で何かをやったことが故郷の人たちを喜ばせるのであれば、興行としては意味があったとも言えるわけで、この種の話はとてもデリケートな扱いが必要でしょうが……。明治政府の欧米視察とか、国家元首の訪問、国際会議への代表団派遣のように、いわゆる「国の威信」の問題として、儀礼として有意義であるとの判断によって堂々と「自腹」を切るべきケースというのがあり、そうした損得抜きの大盤振る舞いこそが「文化」であるという考え方もあるかもしれませんし。[追記おわり]

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最近読んだ本では、近衛秀麿さん(日本人で最初にベルリン・フィルを指揮した)の評伝は、海外での指揮活動について、著者の見方とは別に、この部分を検証していくといいのではないかと思えるポイントが色々見つかる本でした。

近衛秀麿―日本のオーケストラをつくった男

近衛秀麿―日本のオーケストラをつくった男

あと、N響1960年のいわゆる「世界一周演奏旅行」の内幕情報は、これが真相なのかどうかすぐには判断できませんが、そういう風な海外特派員の暗躍があるかもしれないのだなあ、と印象に残っています。

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「偽りの民主主義」は、GHQが占領下で行った歌舞伎などへの「検閲」の実態をアメリカ側資料をもとに検証して、黒沢明・溝口健二のヴェネツィア、カンヌでの受賞の内幕などを綴った前半が面白かったです。

偽りの民主主義  GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史

偽りの民主主義 GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史

音楽の話は間接的にしか出てきませんが、武智鉄二の歌舞伎演出(いわゆる武智歌舞伎)はGHQ指導下の実験劇場という動きを逆手にとってはじまったものですし、国際映画祭をめぐる内外の情報落差のドタバタは、日本人演奏家や日本人作曲家の国際コンクール報道のことを考えると他人事ではないと思いました。

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この話に「オチ」は(まだ)ありません。十把一絡げに、「日本人の海外進出」なんて全部上げ底、誇大広告と切り捨てるのは乱暴すぎますし、むしろ、そういう上げ底構造は当事者もわかっていたはずで、それをわかった上でそれぞれの人たちがどういう風に行動したのか、ひとつずつ見ていくしかないのだろうと思います。

そして現役音楽家さんの場合は、上の世代のこうした肩に力の入った(いわゆる「日の丸を背負った」)海外進出と差別化して、今度はいわゆる「等身大・自然体」で海外に生活していることになっていて、その姿が報じられたりするわけですが(だから発言やインタビューは、日常生活や日々の交友関係を「さりげなく」語る形式になっていることが多い)、これはこれで、「等身大・自然体」といっても、現地のどんな階層に属して、おつきあいがあるのはどんな人たちなのか、無色透明ではないはずで、過剰な「自然体」アピールも本当かなあ、とついつい思ってしまいます。

(日本にいる頃から人脈が豊かで、住居を紹介してくれた「昔からのお知り合い」というのが日本国大使館のキャリア官僚であったりする場合と、バイト代を貯めて単身留学して、新聞広告をもとにあちこち1ヵ月探し回って、ようやく外国人労働者たちが集まる地区に下宿を見つけて、最初の半年は入学準備の語学コース通いの日々、そこから一歩ずつ上がっていって音楽院を卒業(音楽でそういうケースは少なそうですが、外国の大学へ行くとそういう風に「留学」というより「移住」に近いコースを歩んでいる日本人学生が少なからずいますよね)というのでは、「自然体」の意味は相当違う。)

イーストウッドの「チェンジリング」並みの辛抱強さで、それぞれの人たちの行動や言い分を、ここまで我慢するか、と思う粘り腰で追い続けないといけない案件なのかもしれませんね。戦後日本人の文化・芸術分野での海外進出問題は。