岡田暁生「音楽の聴き方」(中公新書)の思考の型

[2010/7/5 追加リンクtwitterから来た方へ]

岡田暁生「音楽の聴き方」(中公新書)。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

本出し過ぎ。食傷気味なのですが、油断していると、既存研究に接ぎ木をした本(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20090315/p1)が賞を取ったりする油断のならないご時世なので、いちおう、気のついたことを3つ書きます。

全体の感想としては、「感性」と呼ばれるものの機微を書いた第1章は、上手いなあと面白く読ませていただきました。あとは、私には既視感のある内容が多かったです。

      • -

(1) 「ファゴット云々」は誰の発言なのか?

「はじめに」のなかで、著者は自分自身の過去の失敗談として、このように書いています。

そして何か気の利いたことを言おうと、通ぶって「あそこのファゴットはあんな風に吹いていいものかねえ」などと口にしてはみても、どうにも周囲と言葉が噛み合わず、後味の悪い思いをしたことも、少なからずあった。(iii頁)

でも、本当に著者は、過去に「ファゴット云々」と言ってしまった経験があるのでしょうか?

1988年2月19日、大学院入学が決まった直後(もしかしたら合格発表当日だったかもしれない)のこの日、私は岡田暁生に呼び出されて大フィル230回定期演奏会(フェスティバルホール)へ行きました。ルドルフ・ゼルキン(「皇帝」をやるはずだった)の来日が中止になって、代役の野島稔がベートーヴェンの第4協奏曲を前半に弾いた回です。

演奏会終了後、ロビーには岡田暁生、伊東信宏両氏(いずれも当時、阪大大学院博士後期在学中)が待ちかまえていて、後半の演目、朝比奈隆指揮「運命」の感想を求められました。

私は、当時、演奏会へ通い慣れているような状態ではなく、何をどう言えばいいのかわからず、とりあえず

「ファゴットはあんな風に吹くものなのでしょうか?」

と言ったと記憶しています。

(現在から振り返って自己弁護させていただくとしたら、そのときのわたくしは、朝比奈の「運命」が全体にのっぺりした演奏だったという印象を抱いており、スケルツォ後半の弱音の再現部になっても、ファゴットがのどかに主題を吹いていることに違和感があった……というようなことを言いたかったのだと思います。一方、その後で判明したところによると、このときの演奏では、第1楽章提示部を反復することになっていたのに、朝比奈さんがそれを忘れて……というような、オケマン用語で言うところの「事故」があったようです。当時の私には、そのようなドタバタの痕跡に気づく余裕はありませんでした。)

少なくとも、1988年2月の事例では、「ファゴット」発言の発言主は、岡田氏ではなく、わたくし白石知雄でした。そして私のつぶやきに対して、岡田氏は、若かりし頃の彼をご存じの方には周知のファナティックな調子で、

「ファゴットだと?! そういえば、お前(と同席の伊東さんの方を向いて)がこの前つれてきた○○も、ファゴットがどうこうと言っていたな。オーケストラを聴いて、ファゴット云々と言い出すのは、何かの兆候なのか……」

等々と言いました。

岡田氏はこのとき、かつては自分も「ファゴット云々」と言ってしまったことがあったという事実を忘れていたのか? あるいは、苦い経験として忘れていないからこそ、逆に去勢を張って、私への態度が攻撃的になったのか……。

そして2009年の上記の引用文は、他人の発言をあたかも自分自身の体験であるかのように書こうとしている、ということなのか。それとも、20年の時を経て、かつては他人を攻撃しがちであった岡田氏が、「自分にも失敗はあった」と認めることができるようになった、ということなのでしょうか。

(あるいは、このどちらでもなく、失敗談=「恥」とみなし、他人の恥を暴露するのははばかられるので、いっそ、自分が「恥」を書いたことにしておこう、というような、おせっかいとヒロイズムと気弱さがないまぜになった屈折が、上記の引用文に結実した。そのような「深読み」も可能ではあるかもしれません……。)

いずれにしても、久方ぶりに「ファゴット」発言と再会。岡田暁生という人の自我の構造の複雑怪奇ぶりを再認識しております。

(2) 蝉の声はうるさいか、うるさくないか?

71頁、著者に「アレデ音楽シテイルツモリナンダカラネ」とつぶやいたという、奥さんが日本人であるドイツ人のご友人とはあの人のことだな、と岡田氏を知る人なら想像がつくと思います。

あるいは、戦前の日本の交声曲のレコードが、片山杜秀さんの講演会では感動的に響き、別の誰かの学会発表ではいまいちだった(214頁)という話も、学会記録を調べたら、そのいまいちとされた発表者が誰を指すのか、たぶん特定できるでしょう。

本書には著者の知人・友人が、しばしば名前を伏せて登場します。ここまで具体的な状況を書いたら、ほぼ名を明かしているのも同然ではないかと思われ、著者にとっての「公私」の感覚は独特だなあ、思ってしまうのですが……、

日本でかなり長い間ある邦楽器を学んでいたドイツ人の友人宅を訪問したときのことだ。うだるような夏の京都の昼下がり、いたるところでセミがかしましく鳴きたてている。その友人が苦々しくつぶやいた -- 「夏はセミがうるさいので楽器練習の邪魔になる」。私は仰天した。(124-125頁)

という一節も、ひょっとすると、「日本でかなり長い間ある邦楽器を」今も演奏していらっしゃる、ドイツ語圏(「ドイツ」ではないけれど)出身のあの人のことではないかと想像するのですが、違うのでしょうか?

上の引用は、やや懐かしい「右脳・左脳」の日本人論を思い出させてくれたりしますが……。

もしここで言及されているのが、私の想像するその「ドイツ語圏出身の方」だとすると、彼はかつて、京都のお寺の境内のなかにある日本家屋に住んでいらっしゃって、お宅の周囲は木々に囲まれていましたから、蝉の声は、ほとんど耳の傍で鳴いているかのように、さぞかし、やかましかっただろうと思います。

それに、その方は、ご自身が師匠から教わったレパートリーをテープに録音して記録したりもしていらっしゃいました。

人間の耳なら、選択的に聴きたくない音を遮断できても(いわゆるカクテル・パーティ効果)、機械はそうはいかないですから、蝉の声で実害があったんじゃないか、とも思われます。

だから、いきなりここから日独の文化論へ進むのは、話の飛躍。

(私の自宅も、団地の上の方の階で、音の反射の具合なのか、地上にいる以上に蝉の声が「うるさい」です。うるさいものは、日本人にだってうるさい。たまたま、岡田家はそうではない、というだけの話だと思われます。)

(3) 多文脈主義なのか、ただの自己防衛規制なのか?

ポリーニのショパンは是か非か、という議論のなかに、このような一節があります。

今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだと、私は考えている。(172頁)

この提案自体は立派な心がけだと思うのですが、でも、上の(2)にも見られるとおり、本書の著者は、「別の文脈で聴く可能性を意識してみること」があまりお得意ではないように思えてなりません。(個別的・実際的・具体的・世俗的な文脈をすっとばして、一足飛びに巨視的・形而上的・抽象的・美学的な文脈へ飛躍する傾向があるだけでなく。)

ここでのポリーニをめぐる議論もそうであって、実際に著者がやっていることは、複数の文脈の並置になっていない。

「自分自身の聴き方」については朗々とその由来・文脈を語り、そこに別の文脈を背負った他者が進入してくると、「自分の文脈」に照らした批判を加える。しかし「自分とは別の文脈」それ自体について、潜入取材的に踏み込んだ考察を加えることはしない。要するに、多文脈主義を思わせる上の主張の正体は、「オレはこれこれしかじか、というような由来のある文脈で音・音楽を聴いているのだから、それを解さない貴様が邪魔をするな、あっち行け!」という自己防衛にすぎないのではないかと思えて仕方がないのです。

ポリーニの演奏について、弁護的な文脈があるかもしれない、と言いはするけれど、そのような「自分とは別の文脈」を、自分自身が依拠する文脈に拮抗するほどの強度に鍛えあげて、他我の文脈を対決させたりはしない。

(例えばもし本気でポリーニ擁護を試みるとしたら、浅田彰(は岡田さんと同じ洛星出身ですね、そういえば)がときどき言及するようなイタリア左翼の文化理論・文化実践などを参照することになるのでしょうか。)

いや、実は多文脈主義などという大げさなことですらなくて、複数の文脈の付き合わせは、本来、学問や討論では当たり前の手続きだと思います。だから例えば、岡田氏もかつてはよく読んで勉強していたはずの冷戦期西ドイツを代表する音楽学者カール・ダールハウスは、しばしば論文内で「審級Instanz」という裁判の比喩を使っていました。しかし、本書の著者はそのようなダイナミズムを実践しようとはしない。

もちろん、ダールハウスの多文脈主義的歴史主義については、それが冷戦下の状況に合わせて一種の「偽装」であるとの批判、実はダールハウスの音楽観は恐ろしく保守的で、彼の議論は、最後に保守的な主張が勝利する出来レースになっている、との批判が死後なされたと聞いてはいます。

でも、岡田氏の本は、そのような「偽装」や「出来レース」にすらなっていない。これでは、単なる反動的な歴史修正主義、あるいは功なり名を遂げた中年男の自慢話(やや性急に老成とご意見番の地位を望んでいる気配あり)と受け取られても仕方がないのでは、と思うのですが……。(そこが「受けて」いるのかもしれませんが。)

      • -

同じ中公新書の「オペラの運命」や「西洋音楽史」は、本書のような聴き方を「型」にはめようとするお説教なしに、単にそれだけ読んで刺激をうければいいと思います。あの二冊は、「著者の意図」を離れて、それこそ、複数の文脈からの読みが可能な書物だと思いますから。

[補足]

本書についての私の感想は、次のエントリーもあわせてご参照ください。(長い文章ですが、後半で本書を扱っています。追記:リンク先が間違っていたので直しました。)

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20090925/p1

それから岡田暁生氏の音楽論についての私の「読み」は次のエントリーも。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20090913/p1

そしてもう一つ別の視点からの考察。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091023/p1