大阪フィルハーモニー交響楽団第432回定期演奏会

大植英次指揮で、ウィスペルウェイが弾くハイドンのチェロ協奏曲第1番とオルフ「カルミナ・ブラーナ」。2日目(10/30)を聴きました。

今年に入って、大フィルが次々過去の演奏記録を冊子にまとめていまして、先日は、「朝比奈隆 ブルックナー指揮記録」、「朝比奈隆 海外客演指揮記録」の二つと一緒に、「朝比奈隆とグレン・グールド」を頂きました。(定演の会場でも入手可能だったようです。)まだコンサートに出ていた頃のグールドと朝比奈隆さんはイタリアで共演しているのですね。

大植&ウィスペルウェイを聴いて、なんとなくグールドの傍らで指揮する朝比奈さんを思い浮かべて、さらには、グールドが、(これも演奏スタイルという点ではかなり違う)ストコフスキーを文章で絶賛していたことを再び思いました。

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大植英次さんの最近のスタイルは、強いて言えばストコフスキー風かもしれない、と思うのですが、わたくしの中で、最近ストコフスキーはとても気になる存在なのです。

ラフマニノフのことを調べていると、このロシア貴族がアメリカ移住後に最も信頼していたのは、ストコフスキーとフィラデルフィア管であったらしいことがわかります。しばしば共演しているし、管弦楽曲はほとんどこのオーケストラで初演しています。(後継者オーマンディの指揮という場合もありますが。)

そしてアイヴズのことを調べてみると、戦後この作曲家が突如評価されはじめた頃に、ストコフスキーがアイヴズの壮大な問題作、交響曲第4番を研究・指揮したという記述が出てきます。

あるいは、大学で「音楽と映像」という授業をやって、ディズニー映画と音楽のことを扱おうとすると、「ファンタジア」の画面中央に、指揮台上で背中をみせるストコフスキーが映っている……。

「はったりの人」という言い方をされるのが一般的ですが、でも、ラフマニノフとグールドとアイヴズとウォールト・ディズニーと、この全員とちゃんと話ができて、彼ら全員から仕事のパートナーとして認められるような指揮者・音楽家がストコフスキー以外にいたか、ということですよ。

図式的な分類、「アートかエンターテインメントか」とか、「クラシックか前衛か」とか、「ライヴ派かレコーディング派か」とか、そういう音楽ジャーナリズムの見出しになるレッテル貼りとは別の水準で、こういった人達の間に信頼関係が成立したのだろうと思わざるを得ない。何なんだこの人は、と思うわけです。

ポピュラー音楽の世界には、こういった大股で領域をまたく巨人(に見える人)がときどき出現しますが、クラシック業界では珍しいのではないでしょうか。

音楽ジャーナリズムは油断がならないもので、「大衆路線」とか、「クロスオーバー」とか、その種の人たちにお手軽に貼り付けることのできるレッテルを用意してはいるわけですが、「ストコフスキー的なもの」と、そういうレッテルに収まってしまうものでは、何かが違うのではないか、という気がするのです。

私のなかでは、ストコフスキーは、変な人というより、尊敬すべき音楽家の理想像(のひとつ)です。

だいたい、ラフマニノフやグールドが単なるお調子者の指揮者と仕事をしたりはしないでしょう。

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ウィスペルウェイの考えるハイドンは、18世紀の最先端音楽で(ありったけのテクニックを注ぎ込めるように演奏を作るのは、奏者の自己顕示欲というよりも、そうした作品の強度への奏者の敬意だと私は思います)、同時にもちろん王様に献上する上品な宮廷音楽で、同時に隙あらば、と遊びや不意打ちを狙い続けている機略の音楽でもあって盛り沢山。

大植さんとの共演。初日は多少様子が違ったのかもしれませんが、二日目は、オーケストラもぴったり寄り添い、でも、振り回されているというのではなく、ウィスペルウェイのアイデアを全部フォローして、きっちり作り込まれておりました。

(大植さんの古典音楽のアーティキュレーションは、「桐朋こども音楽教室」の可愛いお遊戯みたいになるところがありますが……、少なくとも今回は、これも、ほほえましいコスプレという感じで、私は嫌ではなかったです。)

「ピリオド奏法か、モダン奏法か」という、これまた音楽ジャーナリズム的に便利なのかもしれない分類とは違うところで、音楽的コミュニケーションが成立している演奏だと思いました。

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「カルミナ・ブラーナ」は、中世=音楽の始原への回帰願望の産物、とされる作品ですが、こちらがもう「ユーゲント」や「突撃隊」には入隊できそうにない中年になって、あれこれ中途半端に知恵がついてから聴くと、1930年代ドイツの聴衆に「古さ」と「懐かしさ」を感じさせるためのトリックが丸見えだなあ、と思ってしまいます。

ここはストラヴィンスキー、ここはシェーンベルク、酒場の音楽にはマーラー風のクレズマーも入っている(ナチ時代の統制は案外いいかげんだったということ?)、このマッチョな雄叫びはムソルグスキーでは? とか、なるほどレントラーやチャルダーシュにほんの少し手を加えると古い音楽みたいな効果が出るのだな、とか、このアリアの泣かせるコード進行は、クラシックというより「オペラ座の怪人」のようなミュージカルにそっくり、等々……。

ナチ政権下で、総統閣下の目には「健全なるアーリア人讃歌」と見えなければいけないけれど、逆に言えば、総統閣下の目(耳)にさえそのような効果を与えればよかったわけで、20世紀から見た19世紀(シューベルトやヨハン・シュトラウス)への郷愁をテコにして、教会旋法やオスティナートと組み合わせることで、あたかも千年前へタイムスリップしたかのような錯覚を生み出すのは、壮大なデタラメ。こういうのを、あり合わせの素材を巧妙に組み合わせたブリコラージュと言うのだな、と思いました。

ただし、ラヴェルのような冷徹な詐欺師ではなくて、他人を錯覚させる前に、作曲者本人が「これぞ音楽の始原」と信じているようなところもあり、大植英次さんは、こういう虚実の境目がわからなくなるような音楽、上手いのですね。

最後の最後の「Blanziflor et Helena」(要するに、この崇高な効果の原像はワーグナーだと思う)で、キラキラしたクリスタルな響きを舞台一杯に広げて、そこにズドンと「Fortuna」が戻ってくる呼吸(曲間を含めて、「間合い」に大変な神経を使う演奏だったと思います)は、そう来るのがわかっていながらも、ひれ伏してしまいそうですし(←言葉の綾であって、本当に入党して、「ヒットラーよ、健やかなれ!」などとは言いませんが)、こういう圧倒的な効果を生んだのは、ここまでを、やりすぎなくらい終始「真顔」で(音楽の始原を狂信しているみたいに)、半笑いやオチャラケなしにビューティフルなサウンドで通したからだと思います。

合いの手のトランペットを、この曲ではバロック・トランペット風の音色で吹かせたりするのも芸が細かくて、マニアックなのに、誰が聴いても狙いが判る演奏。結構な音楽会でございました。