戦後関西音楽小史 - 大栗裕を中心に(はびきの市民大学):第9回 昭和の祝祭 - エキスポ'70(12/16)、第10回 昭和の日常 - 放送音楽(1/13)

[1/15 最後に若干の追記]

断続的にご報告しております、羽曳野市の市民講座。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091114/p1

昨年の最後は、1958年の大阪国際フェスティバル、1960-70年代の「大阪の秋」国際現代音楽祭、1970年の大阪万博という戦後の関西の音楽祭、巨大イベントについてお話して、今年の初回となった本日は、関西の1950年代のラジオ音楽番組についてお話させていただきました。

当初の予定では、「大阪の秋」と大阪万博に大栗裕が関わっていますし、在阪放送局のラジオ・テレビの音楽は、仕事の量で言うと、おそらく大栗裕が一番多く手がけたジャンルなので、大栗裕を語る上では書かせない、という理由で選んだテーマだったのですが……、

実際に資料を整理して考えるうちに、どちらも話が巨大すぎて、とても大栗裕を中心に据えて話すことはできないと思えてきて、もっぱら、モダニズムとは何だったのか、という話をすることにしました。

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戦前のモダニズムが都市の物珍しい風俗(ネオン街や自動車・地下鉄)だったのに対して、戦後の大阪万博では、「人類の進歩と調和」の標語のもとに、千里丘陵を未来都市に変貌させるまでになってしまった。この情熱は何だったのだろう、ということ。

それから、これは「音楽と映像」という講義を神戸女学院で春にやったときにも考えたことですが(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20090717/p1)、電波が空から家庭へ直接降り注ぐ放送という20世紀の凶暴なくらい新しい技術と、音楽家がどういう風につきあったのか、ということ。

前者は、大栗裕よりも一世代若い「前衛」の人たちの問題だし、後者に関西で一番ヴィヴィッドに反応したのは、大栗裕よりも、むしろ、その前の世代の大澤壽人だと思います。

ひとりの作曲家のことを集中して調べていると、どうしても感情移入して、その作曲家のことを、あんなこともやった、こんなこともやった、と立派な存在に仕立ててしまいがちになりますが、当然ながら、できないこともあったわけで、そろそろ講座が最終回に近づいてきたところで、こういう風に大栗裕以外の人たちを主役に立てる回があるのも、かえってよかったかな、と思っております。

万博の回では、三善晃(万博のための祝典序曲を作曲している)や松村禎三、そして万博の地元茨木の松下眞一を紹介して、今日のラジオの話では、神戸女学院の大澤壽人遺品コレクションの音源資料を特別に使わせていただきながら、大澤壽人の早すぎる晩年、朝日放送開局当時の放送(音楽だけでなく、オープニングから、すべてがスタイリッシュでめちゃくちゃカッコイイです、まるでアメリカの放送みたい)をいくつか聴いていただきました。

大澤壽人の放送局での仕事については、ABCホームソングが昨年の神戸女学院主催演奏会(12/16)で演奏されて、年末29日には朝日放送でリバイバル特集放送されたそうで(私は残念ながら未聴)、ようやく実態がわかってきつつあるところだと思います。

朝日放送は開局当時、朝日会館に入っていました。朝比奈隆の関西交響楽団が結成以来、本拠地にしていた場所です。下の階で大澤壽人が放送の仕事をしているときに、上の階にあったホールで朝比奈隆がコンサートを指揮していたわけです。二人は、同じ時期に同じ場所にいたのですね。

大澤壽人が放送音楽劇「邯鄲」を朝日放送の芸術祭参加作品として書いた直後に亡くなったのが1953年10月。朝比奈隆が関西歌劇団に武智鉄二を連れてきて、創作オペラをやると発表したのが一年後の1954年末で、大栗裕の「赤い陣羽織」は1955年6月。

1956年には朝比奈隆のベルリン・フィル指揮(「大阪俗謡による幻想曲」の紹介)&宮城道雄の一件(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091209/p1)という「激動の6月」が訪れます。関西のクラシック音楽といえば朝比奈・関響のマス・イメージが確立します。このとき、実はまだ大澤壽人が亡くなってから2年8ヵ月しか過ぎていません。ものすごい急展開です。

そして大栗裕は、1957年に歌劇第2作「夫婦善哉」を書いた頃から、ラジオ、テレビの仕事をやるようになります。(当時、武智鉄二は黎明期のテレビで色々やっていたようですし、歌劇「夫婦善哉」の脚本は放送作家の中沢昭二でした。大栗裕が放送に関わるようになったのは、そうした縁があったからではないかと思います。)

大澤壽人の絶筆「邯鄲」と、大栗裕が中沢昭二の脚本でJOBKから放送した放送音楽劇(そういうものの録音が残っているのです)を聞き比べると、大澤壽人が亡くなったことでぽっかり空いてしまった穴は大きくて、大栗裕が「後を引き継いだ」などと言うのはおこがましい、と思ってしまいますが、それでも、大栗裕は、大澤壽人が亡くなった数年後に、同じ放送局で、同じ楽団を使って仕事をしていたこともあったはずです。

しかも、今日の講座には、大澤壽人のご子息、寿文さんご夫妻が、遠路はるばる羽曳野まで来てくださいました。(本当にありがとうございました。)

大澤壽人は、大栗裕が作曲家デビューする直前まで、たしかに現役で活躍していた。決して戦前・戦中だけの人ではない。寿文さんにつたないながら聞いていただきながらの講演で、大澤壽人の存在感をひしひしと感じるひとときになりました。

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[追記1/15]

さて、そして今回、大澤壽人と大栗裕の音楽番組を聞き比べて、放送音楽を論じるときには、音の部分だけを「作品」として抜き出してその特質を云々するだけでなく、語りを含めた「番組」の構成・演出に着目しなければいけないのではないか、と改めて思いました。

大澤壽人が構成したラジオ番組では、いわばアナウンサーも演者、パフォーマーの一人であって、語りと演奏が綿密に組み合わされています。

(1) 番組オープニングのファンファーレが鳴ると、(2) 間髪入れずにアナウンサーによるタイトルコールがあって、(3) さっと幕を開けるような上行グリッサンドとともに、舞台のレビューを思わせるワクワク感満点のコーラスとオーケストラ。続いて、メンバー紹介風に、(4) 「作曲・構成、大澤壽人」のコールで、(5) おしゃれなピアノのワンフレーズ、(6) 「演奏、だれそれ」のコールで、(6) 楽団のワンフレーズ、(7) 「合唱、だれそれ」のコールで、(8) 合唱団がドゥ〜ワーッのワンフレーズ、(9) そのまま続く演奏に重ねて、「本日は××をお送りします」というコンテンツ紹介があって、(10) 音楽が少しだけ残って締めのフレーズでオープニングが終了。(11) 「それでは最初に○○」の一声で、ここまでのノリを保ったまま、あっという間に本編に入り、演奏がはじまってしまいます。

(大澤壽人の戦前・戦中の管弦楽作品だけをCDで聴いていると、ゴリゴリの前衛&スーパーエリート作曲家のようですが、そしてそのような存在としてエリート志向の方々の間で評価がここ数年で急上昇したわけですが、戦後の仕事は、アートが同時にエンターテインメントであるような、良質で挑発的な意味での「中間音楽」を志向していたようです。大澤壽人の「中間音楽」の意義は、片山杜秀さんも、いずみホールJupiterの連載で指摘していらっしゃいました。そして、現在、関学で音楽学担当の網干毅先生は毎日新聞大阪版で神戸女学院の年末「大澤壽人スペクタクルI」を批評して、大澤壽人のイメージが大幅に拡張されねばならない、と指摘していらっしゃいますが、私としては、ここはもう一気に突っ走って、大澤壽人を服部良一と並べて論じてしまうのがいいんじゃないか、との思いを募らせております。(神戸女学院の大澤壽人遺品目録出版に2008年の音楽クリティック・クラブ特別賞を贈らせていただいたことがあり、その時の贈賞理由でも、大澤と服部は一対だ、との一文をまぎれこませた記憶があります(http://music-kansai.net/award03.html)。そういえば、いずみホールJupiterでの片山さんの連載の最終回も服部良一でしたね……。))

日本ジャズの誕生

日本ジャズの誕生

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一方、大栗裕のラジオ・ミュージカルス(1950年代のラジオでは、ラジオオペラとかラジオミュージカルなど、色々な生で音楽劇が放送されていたようです)を聞くと、こちらもオープニングでは、もちろん大澤番組ほど綿密に作り込まれてはいないのだけれど、何か華やかなことをやろうとしているのがわかります。大栗裕が参入した頃はテレビ放送が始まってはいますが、ラジオだって、まだ十分に華やかさを期待されるメディアだったのでしょう。

ただし、大栗裕の場合は、アナウンサーがパフォーマー化するのではなくて、歌手が(ローカルな大阪言葉で)語るところがポイント。語り手の言葉をパフォーマンスに組み入れるのではなくて、音楽劇というパフォーマンスが「五線譜化された語り」によって進行する、アナウンサーを演者化するのではなく、歌が同時に語りであるような作りです。

大澤壽人のやり方は舞台レビューに近いですし、やや大げさにいえば、20世紀前半の「月に憑かれたピエロ」や「兵士の物語」以来の、話し声や語りを作品の要素に取り込もうとした両大戦期モダニストの手法をほのかに連想させるように思います。(「邯鄲」でも、歌と台詞は割合はっきり分かれていて、異なる要素をどう組み合わせるか、がポイントになっているようです。)一方、大栗裕のやり方は、地域語のイントネーションに着目する民族派風の手法そのもの。彼自身が歌劇「夫婦善哉」でやったことの応用と言えそうです。

残念ながら、このあと1960年代になると、ラジオが放送の主流ではなくなって、放送劇は穏健な台詞劇+劇伴の形式だけが残って、音楽番組でも、アナウンサーの「説明」+パッケージ化された音楽、という構成が普通になっていくようです。そして70年代以後になると、音楽放送はFMが主流になって、AM放送にはもっぱら「しゃべり」だけが残る。1950年代には様々なやり方で絡み合わされていた言葉と音楽が、こうして分離・仕分けされていく過程が、戦後のラジオ放送の歴史だったようにも思われます。

そして大栗裕に関して言えば、放送における音楽劇が減ってきた1961年から、今度は関西学院マンドリン・クラブの演奏会で、語り+音楽の形式による音楽物語を毎年のように制作するようになります。

大栗裕は、大阪の大フィル/関西歌劇団の「耳で聴く大阪」路線や、京都での仏教への傾倒と平行して、タカラヅカのレビューを育てた阪神間、西宮の関西学院で、語りと音楽が一体になった「耳で聴くレビュー」と言えるかもしれない音楽物語を亡くなるまで作り続けた人でもありました。実は、彼は、大阪だけでなく、上方三都すべてに関わっていたようなのです。

(関学マンドリン・クラブと大栗裕の関わりについては、ここではまだご報告していませんでしたが、はびきの市民大学講座の第5回でお話させていただきました。実はリュートの岡本一郎さんもここのご出身で、という断片的な話は、先日書かせていただいた通りです。時間があれば、また書きます。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091212/p1

「歌劇/放送劇/音楽物語」が大栗裕のなかでは隣接していて、舞台・放送・アマチュア音楽という分類を横断する形で、広義の「音楽劇」というジャンルを構成していたかのようなのです。