朝比奈隆を考える(はびきの市民大学最終第12回、朝比奈隆と大栗裕)

はびきの市民大学、お陰様で全12回を終えることができました。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091114/p1

最終回は朝比奈隆論をやりました。以下、順を追ってご説明させていただきます。

ポイントは5つ。

  • (1) 関西楽壇には「外へ開かれた窓口」が必要だった。それが朝比奈隆。
  • (2) でも、朝比奈隆は、玄人筋の評価と愛好家の評価が極端に割れている。
  • (3) そこには、自主運営オーケストラの「代表制」問題がある。
  • (4) そして朝比奈隆の影には、いつもマネージャー野口幸助がいた。
  • (5) しかし最晩年の朝比奈隆の傍らに、野口幸助はいなかった。

(1年以上前に、中丸美繪さんの朝比奈隆評伝の関連ブックガイドとして書いた文章も、少しは物の見方がマシになっているでしょうか……。参考文献等は、その中丸ブックガイド記事でご確認ください。→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20081102/p1

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●(1) 関西楽壇には「外へ開かれた窓口」が必要だった。それが朝比奈隆。

この講座では、大栗裕が関わったものを中心に、戦後関西の、常識的なクラシック音楽の枠をはみだしているかもしれないあれこれをご紹介してきました。

大澤壽人・貴志康一からマンドリン・オーケストラまで戦前以来の阪神間山の手のモダン/ハイカラへの愛着、上方古典芸能の蓄積をオペラと融合する試み、辻久子や宮城道雄の弟子筋といったスター的ソリストの活躍、押し出しのいい派手好み(関西の芸能の一番目立つ特徴でもあり、批判の焦点にもなる特性)を補完する内省の契機だったかもしれない仏教洋楽、都市再開発の土木工事を思わせる未来志向の前衛・実験とその金字塔としての万博、音と語りを絶妙に配合して音楽を家庭に送り込む放送事業、軍楽の鋼鉄の規律からハッピーなアメリカン・サウンドに衣替えした吹奏楽……。

大栗裕が「大阪俗謡による幻想曲」で大阪の祭り囃子を打ち鳴らしたのは、あくまで氷山の一角であり、賑やかなだんじり囃子の背後には、多種多様な人と音楽が入り乱れていました。

しかし、これらのうちのいくつかが現在では忘れられ、見過ごされています。地域やコミュニティに密着した取り組みは、なかなか外部からは見えず、私にとっても、まだよくわからないことのほうが多いです。別に部外者に広めるつもりでやっているわけではない(特に地域のお祭りなど)ということもあるでしょうけれども、やはり、内に閉じてしまうと不都合なこともあるわけで……、

朝比奈さんは、とりあえずドーンとめだつところに立てかけておく表看板。何かあったら、この人のところへ行けばなんとかなる、というような、内と外をつなぐ「窓口」だったのでしょう。

毎年のようにドイツや東欧の楽団を指揮しに行ったのは視察の意味もあったようですし、そうした場では、大栗の管弦楽作品を本当に律儀に毎回のように取り上げています。

ただし、

●(2) でも、朝比奈隆は、玄人筋の評価と愛好家の評価が極端に割れている。

という事実があります。

講座では、とりわけ玄人筋の朝比奈隆への評価が厳しい理由を考察しました。まず朝比奈隆さんのリハーサル&本番の映像を分析して、次に秋山和慶さんの1980年代(指揮ぶりが驚異的に端正だった時代)と比較して、「わかりにくい指揮」と「わかりやすい指揮」の違いを具体的に説明させていただきました。

みんながお世話になった大恩人、関西の大看板なのだから、今さらそんな話を蒸し返してどうする、というご意見もあるでしょうが……、

朝比奈隆さんご自身は、大阪ローカルではいけないと考えて、毎年のように武者修行的にヨーロッパへ指揮をしに行ったのですから、こちらも、「世界の指揮者たち」のなかでどうなのか、本気で論じなければ、かえって失礼だと思うのです。

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「昔の人は、そんなに見栄えのいい振り方をしなかった、例えば、振るとメン食らう、のフルベンー……」などと言われますが、私はそういうことでもないと思っています。

ベルリン・フィルと第三帝国 ドイツ帝国オーケストラ [DVD]

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朝比奈さんがそうであったような常設オーケストラの首席指揮者という存在は、作曲家兼指揮者(いわゆる作品解釈者=「作者の代理人」タイプの指揮者はその末裔)や、オペラ指揮者=「劇場の現場監督」タイプの指揮者に比べると、歴史の浅い新参者です。そして朝比奈さんは、大東亜新秩序の拠点とされた上海、満州に行ってチャンスをつかんだ人、新しい可能性に賭ける人でした。彼のような存在は、むしろ(ひょっとすると同年生まれのカラヤンと同じくらい)「新しかった」はずなのです。

ライヴ・イン・大阪 1984 [DVD]

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(以下、余談になりますが、

ザ・シンフォニーホールを作った朝日放送の社長、原清さんは放送局設立時に大澤壽人を専属音楽家に迎えた張本人であり(関学では大澤の一年先輩)、音楽ホール建設はその頃からの悲願だったらしいとの話を最近、伝え聞きました。

朝比奈隆にしても、カラヤンにしても、原さんは自分の会社のホールに招く指揮者との個人的交流・信頼関係を大事にする人だったことが伝えられていますが、単なる社長の道楽というだけの話だったのかどうか。

少なくとも、朝比奈、カラヤンといった20世紀生まれの「新世代」は、放送という新しいメディアの力を強く意識していたはずです。なんといってもこの人達は、ゲッペルスや天粕正彦の時代にキャリアをスタートせねばならない巡り合わせだったのですから……。

第三帝国と音楽家たち―歪められた音楽 (叢書・20世紀の芸術と文学)

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王道楽土の交響楽―満洲―知られざる音楽史

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カラヤンの1984年大阪ライブ映像(朝日放送)は、わざわざ学生オケを雇って、カラヤン自身が入念にカメラ・リハーサルをしてから収録されたようです(当時、実際に雇われた学生オケの知人から聞いた話)。

そして極東の放送局のために用意した演目が、バイエルンのR. シュトラウスとザルツブルクのモーツァルトとイタリアのレスピーギ(全部同盟国の音楽)になっているのは、意識的なのか、無意識なのか。

カラヤンが極東の放送に似合う作品をセレクトすると、自然にこういうラインナップになってしまった、ということだったのでしょうか……。

ここにも、ある種の「禍々しさ」があります。カラヤンの場合は、たとえ「禍々しさ」に自覚的であったとしても、そうした「禍々しさ」が、もはや政治的に全面展開するものではなく、放送コンテンツやパッケージ商品に封じ込められて安全に流通しうることまで見越しての振る舞いだったと思われるので、カラヤンを思想的に批判したりするのはナイーヴ過ぎて、そんな言い方では、カラヤン的なものを処理しきれないだろうと思いますが。)

大衆宣伝の神話―マルクスからヒトラーへのメディア史

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話が断線しすぎました。閑話休題。

18世紀までは作曲家の自作自演が当たり前でしたし、実は19世紀の名だたる指揮者は、ベルリオーズもメンデルスゾーンもワーグナーもマーラーも、ほとんどが同時に作曲家です。20世紀になっても、バーンスタインとブーレーズがいますし、フルトヴェングラーやチェリビダッケも作曲をしました。日本にも、山田耕筰、山田和男と尾高尚忠、外山雄三、小林研一郎……というように、作曲家兼指揮者がずらりと並びます。朝比奈さんがデビューした頃の関西の花形、貴志康一と大澤壽人も作曲家でかつ指揮者でもある人たちでした。

指揮者の仕事は作品の「解釈」である、として高邁な哲学的考察がなされることがありますが、それは、作者がいない(死んでしまった)から誰かが代わりにやらなければいけないということであって、本来なら、音楽を作った人が自分で演奏するのがいい、ということであったはずです。

(今でも映画や放送音楽の現場では、曲を作った人が自分でレコーディングを指揮します。クラシック音楽も、19世紀まではそうだったし、20世紀になってもそれが本来であるという理念が厳然とあったと見た方がいいだろうということです。)

そしてその種の作者兼指揮者は、設計図を手にもって、建設現場に立ち会う建築家みたいなものです。なかには、現場叩き上げで一緒に鉄骨を持ち上げたりする人もいますが(あらゆる楽器を演奏できたヒンデミットとか)、普通は、自分で働くのではなくて、職人さんに動いてもらう。作曲家/指揮者の仕事は間違いのない図面を引くこと、そして、完成図を正確に思い描き、全体の責任を持つことです。

「指揮は不格好でもいい」

は、そうした文脈で出てきた言葉だと思います。インテリの建築家に建設現場をうろちょろされては、かえって迷惑。現場の具体的なことは俺たちに任せて、あなたは、全体を統括してください、ということです。

講座では、クレンペラーの指揮姿をみていただきました。「建築家」指揮者がぐいっと拳を突き出すだけで、オーケストラの職人たちが意を汲み取り、堂々たる「第九」の大伽藍が組み上がります。

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朝比奈さんのリハーサルはこれとは違う。

朝比奈さんが旧帝大卒のインテリなのは間違いなく、プログラムに掲載された短い挨拶文なども、公演の趣旨を通り一遍でなく的確にまとめる内容になっています。玉石混合であることが否めない公演評などではよくわからなかった疑問が朝比奈さんの文章を読んですっきり解けることがしばしばあります。今何をするべきなのか、抜群の理解力・判断力をもつ人だったのだろうという印象を持っています。

ここで見たいのは、そういうトータルな組織力・行動力ではなくて、どういう音をオーケストラから引きだしたか、ということです。

そうすると、とたんに心細いことになってしまいます。

リハーサルでの朝比奈さんは、大所高所から気色鮮明な「解釈」を打ち出すというのではなくて、指示は極めて具体的・現場的で、アンサンブルの細部をごそごそいじって、「うまくいかんなあ」と首をひねり、最後は「棒など当てにならないので、よろしくたのむ」と言い放つ。リハーサルからこの部分だけをクリップして出すNHKの編集は、いいのかどうか、とは思いますが、ともかく、建築家然と全体を俯瞰するのではなく、現場に(失敗をモノともせずに)介入し続けています。

全体の設計図が彼の頭の中にあるのかないのか、よくわからないまま本番がやって来ます。しかも、指揮台上の身振りは職人肌の劇場指揮者のように明快に楽員に伝わるわけでもない。(トスカニーニやサヴァリッシュがそうであったように、明快な指揮法というのは現場の瞬時の指示・判断が求められる劇場で形成された技法。秋山和慶さんが体現していたような斉藤秀雄メソードは、作曲教育におけるパリ直輸入の池内友次郎メソードと同じく、本来オペラのための基礎訓練であったものをコンサート音楽の品質保証に転用して、過度に洗練させた「音楽のメイド・イン・ジャパン」現象です、斉藤メソードを身につけた若手指揮者の台頭が朝比奈さんへの逆風になったことは確かですが、そもそもこうした斉藤門下「メイド・イン・ジャパン指揮者」も万能ではなかったはずで、これも大事な話ではありますし、桐朋から早々と海外へ出た小澤さんや大植さんだけでなく、秋山さんですら最近ではそれほど細かく振らなくなりつつあり、興味深いことだと私は思っているのですが、ややこしくなるのでこの件は省略。)

それでも、彼は楽員の中心に立って、場を切り盛りし続けました。あれは、いったい何だったのか?

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●(3) そこには、自主運営オーケストラの「代表制」問題がある。

片山杜秀さんは『レコード芸術』2008年11月号の朝比奈特集で、彼の存在は、不透明ゆえに楽員の「おもんばかり」を誘発して、それが独特の演奏を生んだのではないか(大意)、と書いていらっしゃいました。

どこかしら、やんごとなき「不可侵の中心」をめぐる議論を連想させる見立てですが、それを踏まえて言うと、私の意見は、「朝比奈・機関説」かもしれません……。

常設のオーケストラ、しかも、パトロンに依拠しない自主運営楽団というシステムは、19世紀以後ヨーロッパのブルジョワ社会の産物で、北米白人社会に伝わり、明治維新後の文明開化の洋楽導入で日本に入ってきました。

当初は、作曲家や劇場指揮者として実績のある人物が、実績を背負って常設楽団に迎えられたわけですが(ゲヴァントハウスのメンデルスゾーンやロンドン交響楽団のハンス・リヒター)、現在では、作曲もしないし、劇場にも入らないコンサート専門の指揮者が結構います。たぶん、第二次大戦後の放送局主導のオーケストラの乱立などで、指揮者がたくさん必要になったからでしょう。(日本のN響だけでなく、第二次大戦後はヨーロッパのあちこちで、次々放送管弦楽団が誕生しました。朝比奈隆が戦後ヨーロッパで仕事できたのも、こうした管弦楽団乱立のお陰だったと言えそうです。)

この種の楽団は、半ば文化事業であり、半ば経済活動ですから、団体を維持していくには、教養人(作者の意図を熟知した解釈者)や職人(劇場の叩き上げ)にプラス・アルファの何かが要る。

例えば、ベルリン・フィルは、宮廷歌劇場を母胎とするウィーン・フィルと違って、19世紀末に自主運営楽団として旗揚げした団体であり、ニキシュやフルトヴェングラー、カラヤン、ラトルなど、歴代指揮者は、良くも悪くもキャラクターが鮮明で、アクの強い人たちです。あるいはアメリカには、どういう経緯でのし上がったのかよくわからないイギリス育ちのポーランド系ユダヤ人、ストコフスキーがいました。日本には、お公家さんで新響(現N響)から第二次大戦中のヨーロッパでの演奏活動を経て戦後の近衛管弦楽団まで、お抱え楽団を作りつづけた近衛秀麿さんがいらっしゃいました。

常設自主運営オーケストラでは、しばしば、ちょうど大統領が(建前上ではあれ)「国民の総意」で選ばれるように、オーケストラの「代表」、音楽家集団の総意で「選ばれた人物」が指揮台に立っていることになっています。常設オーケストラの指揮者は、「代表制」にまつわる諸問題の焦点・結節点。朝比奈問題は、大げさかもしれないですけれども、市民社会の常設オーケストラが必然的に孕む問題の日本における現れ、大阪ヴァージョンだったのでしょう。

「総意」で「代表」を選ぶというシステムは市民社会のグローバル・スタンダードですけれども、そこで選ばれた存在がどのような姿をしているかということは、文化・風土・集団ごとに違っていて当然。戦後の西ベルリンの楽団によって選ばれ、マス・メディア上にダンディな耽美主義を移植しようとしたカラヤンと、アメリカ人に選ばれてディズニー映画に出演してしまったストコフスキーと、楽員から「オッサン」と呼ばれていた朝比奈隆の違いは、どちらが良い悪いの問題ではなくて、個人の資質(だけ)の問題でもなくて、そういう人が選ばれるような文化・風土・集団がそこにあった、としか言いようのない現実なのだろうと思います。

代表制はそういうもの。美的領域を越えた政治案件と言わざるを得ません。

諸事情を考えると、やはり朝比奈さんだ、ということだったのでしょう。

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そしておそらく、そんな風に周囲の段取りが全部できているからこそ、あの、現場に介入し続けようとする朝比奈流が機能したのだと思います。

朝比奈さんは色々なものを背負ってその場に立っていて、ブザマに(あるいは要領よく)そこから逃げたりは絶対にしないのだけれど、その儀式性を帯びた演奏会の真っ最中に、しばしば、「あとは任せた!」と楽員にゲタを預けてしまう瞬間がある。朝比奈さんと一緒にやるときは、常にそういう、いわば「有事の心構え」が必要で、朝比奈さんのリハーサルは、上手い下手を越えたところでの、有事に備えた「演習」だったと見ることができるのではないでしょうか。

朝比奈さんは、演奏会の場に居合わせた人たちを、ルールにのっとった予定調和が機能しない場所に引き連れていってしまう。晩年には、粗相のない儀式の挙行が本分であるはずのN響(いわば宮内庁楽部の洋楽版)や、百戦錬磨の精鋭部隊であるはずのシカゴ響を相手に、そんな白兵戦的光景を現出してしまったことが、吉田秀和さんを「まだ、こんな風にやる人がいたのか」と絶句させたのでしょう。

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ただし、このような「白兵戦の様式化」(カラヤン流の「商品パッケージ化された第三帝国」と平行関係にあるかもしれないような)は、あくまで朝比奈さんの晩年の姿です。戦後高度成長期の関西における朝比奈さんには、別の一面がありました。

そしてここで次の論点。

●(4) そして朝比奈隆の影にはマネージャー野口幸助がいた。

です。

朝比奈隆さんの憎めない不器用さは、ひとまず、ちょうど歌舞伎興行における一座の「座頭」に近いものとして演出されていたように思います。そしてその段取りをつけたのが野口幸助さんだった、というのが私の見立てです。

野口さんは1919年生まれで大栗裕の一歳年下。大阪音大でトランペットをやって、卒業後は音楽文化協会の事務をやり、終戦とともに1945年野口音楽事務所を設立。1947年から関響の事務局へ。

奈良で育ったそうですが、野口家はもともと堂島の金融の大きな家で、曾祖父は萬朝報や黎明期の朝日新聞に寄稿したジャーナリストだったのだとか。幼い頃はお母さんに連れられて、心斎橋のデパートで買い物をしたり道頓堀で芝居見物をしたそうです。

朝比奈さんは京都帝大卒で一時期は阪急電車に務めて、大阪キタの財閥系や放送マスコミ系企業とのつながりが深い人だったような印象がありますが、彼を初期の関響時代にサポートしたのは、大栗裕や野口さんのように、一回り若く、船場・島之内や天王寺、心斎橋や道頓堀といった大阪ミナミの臭いのする人たちでした。

関西交響楽団は、1950年代、JOBKから独立して常設プロ楽団になった時期には、映画撮影所の仕事を受けたり、歌舞伎界の人たちに歌劇の演技指導を仰いだり、歌舞伎座で「お蝶夫人」をやったり、松竹系映画館で演奏会をやったりしました。大栗裕や野口さんが入った頃の関響は、楽団自体がミナミ(具体的には松竹系)の街場・盛り場の活力をも当てにしていたようなのです。甲子園球場と大阪球場(←ミナミのど真ん中)で「アイーダ」をやったのもこの頃です。

こうした時代背景のもとで、朝比奈さんは、颯爽としてハンサムな「座頭」として売り出されることになりました。朝比奈隆がベルリン・フィルで好評だったとの報道は、「羅生門」や「七人の侍」の世界のミフネがハリウッドに呼ばれたようなもの、として報じられたのであろう、ということです。

(ちなみに、野口さんは、関響立ち上げ後すぐに、現在も「関西音楽新聞」として発行され続けている業界紙を作り、自ら積極的に執筆もしていました。朝比奈グループは、オーケストラとオペラの演奏団体だけでなく、大阪音楽大学とも関係を深めていましたし、自前の活字メディアも所有する総合音楽企業でした。)

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1960年代に映画などの仕事を止めて大阪フィルに改組されたあとは、やはり万博が大きな転機だったように見えます。

当時の記事を追っていくと、フェスティバルホールでの万博クラシック公演のチケット前売りで不手際が発生したことがあったらしく、開幕直前から、野口さんは催物興行プロデューサーの肩書きで万博の運営に参画します。そして1970年代に入ると、大フィル初の欧州ツアー(1975年)や北米ツアー(1980年)が実現します。大阪府・大阪市と財界の支持を取り付けて服部良一「おおさかカンタータ」を1974年文化の日に大阪文化祭公演として実現してしまう手腕は、もはやマネージャーというよりプロデューサー。

ベートーヴェン・コレクションBOX

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  • アーティスト: 朝比奈隆,藤川賀代子,林誠,山岸靖,樋本栄,フロイデ合唱団,蔵田裕行,石橋喜代子,関西学生混声合唱連盟,ベートーヴェン,大阪フィルハーモニー交響楽団
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大フィルは、1972年の第100回定期演奏会でマーラー「千人の交響曲」を本当に千人集めてやりました。関西歌劇団は、1974年に、創立25周年記念で大栗裕「ポセイドン仮面祭」を初演して、吉田秀和に「あいつを早く東京へ連れてこい」(大意)と言わしめた三谷礼二演出の「お蝶夫人」をやりました。おそらくこの頃が「朝比奈一座」の最盛期です。

(そしてこれらの大きなイベントを見ていると、どこまでが朝比奈さんの貢献で、どこからが野口さんのプロデュース力なのか、といった境目が客席からはわからなくなっていて、役割分担はあるけれど、興行の主体は「朝比奈一座」だと言うしかない形で、八方丸く収まるように仕上げられているのが特徴かな、と思います。大栗裕のオペラも、武智鉄二演出の「赤い陣羽織」以来、ずっとそうですね。資料を調査すると、実際には一定の役割分担があって、大栗裕の立場や役割を個別に特定することはできるのですが。そして大栗裕の作曲作業は、仕上がった音楽のねちっこさと対照的に割合整然としているのですが。)

野口さんの手法が、関響設立時の事務局に迎えられていた戦前以来の人、原善一郎さんとどう違っていたのか。それから、梶本尚靖さんはもともと野口事務所にいて、1951年に独立して梶本音楽事務所を作ったわけですが、そうした次の世代の音楽マネジメントと比較した場合に、野口さんをどう評価できるのか……。

私企業の経営に関わることは、研究という活動になじみにくいことかもしれませんが(そしてアート・マネジメント論に公共団体といかに交渉するか、の議論が目立つのも、私企業に食い込みにくいからなのかもしれませんが)、自主運営オーケストラという組織は、歴史的にも構造的にも、指揮者の特性という基本的なことですら、「純音楽的・純芸術的」には説明できそうにない「禍々しい」存在だと思うので、しかるべき時期が来たら(たぶんそれは、今現役の人たちがみんな引退してしまうくらい先のことになるかもしれませんが)、いつか誰かに論究していただきたいものだと思っております。

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●(5) しかし最晩年の朝比奈隆の傍らに、野口幸助はいなかった。

そしてようやく、朝比奈隆さんの最晩年の「白兵戦」の時代になります。

あの熱狂は、関響時代から続いた「朝比奈一座」が崩れたあとの現象、いわば、朝比奈さんの座組が変わったことによって可能になった現象だと思われます。

1982年に、まず、朝比奈一座の座付き作家的存在だった大栗裕が亡くなりました。

以前にも書きましたが、ヨーロッパ直輸入音楽の殿堂ザ・シンフォニーホールが開館したのは同じ年の10月です。朝比奈・大フィルは、こけら落としで、これまでの各種行事におけるように大阪代表として「大阪俗謡による幻想曲」をやるのではなく、ワーグナー「マイスタージンガー」前奏曲を演奏しました。またこの頃から、朝比奈さんはオペラをやめて、シンフォニーコンサートに専念するようになります(大阪ではシンフォニーホールの「朝比奈隆の軌跡」シリーズが代表的な仕事)。もはや朝比奈さんからミナミの臭いは完全に消えてしまいます。

最晩年の朝比奈さんを仕切ったのが誰だったのか。具体的なことを私は知らないので、これ以上のことを書けませんが、たぶん、マネジメント/プロデュースの仕掛けに大きな変化があったのだろうと想像しています。

求められれば東京でもシカゴでも、そこに舞台があれば行く、という生涯現役のまま天寿を全うされる人生。現役最高齢指揮者にふさわしい栄誉やステージは、なるほど国際都市・東京の人たちでなければ用意することはできなかったかもしれません……。

そしてこのあたりは、もはや「東京マター」ですから、岩野さんや中丸さんの近著でかなりのことが語られている、と言っていいのかもしれません。

朝比奈隆 すべては「交響楽」のために DVD付

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オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆 四つの試練/中丸美繪

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一方、関西歌劇団のオペラは野口さんが引き継ぐことになりました。野口さんは、1990年代に関西歌劇団で回顧的な企画を色々やっています。

  • 1988年6月、関西歌劇団「お蝶夫人」公演 *1954年の武智鉄二による歌舞伎調演出を再現。公演直前に武智鉄二の訃報。
  • 1992年2月、大栗裕 歌劇「飛鳥」再演 *大栗裕没後10年
  • 1993年2月、大栗裕 歌劇「夫婦善哉」再演
  • 1999年2月、大栗裕 歌劇「地獄変」再演 *指揮:西本智実

1999年は関西歌劇団創立50周年でもあって、非常に立派な記念誌も出ています。当時現役の方々にはおそらく色々な思いがあったでしょうけれど、この時期の野口さんによる回顧事業がなければ、たぶん、大栗裕のオペラのことを遡って調べるのは、かなり大変なことになっていただろうと思います。やったことを最後にきれいにまとめるマネージャーさんらしい晩年だったのではないでしょうか。

そして、2001年12月29日、朝比奈隆、死去。2005年9月21日、野口幸助、死去。

(のちに、野口さん時代の関西歌劇団の経理、公的助成金の使途に不明があったとの報道がありました。私はそのことだけで野口さんの仕事が全否定されるべきではないと考えますが、ひとつのケジメではあったのでしょうか。野口幸助という人について、冷静に論評するには、まだ時間がかかるのかもしれません。)

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講座の最後は、「フラワー・バレエ 花のいのち」というものを聴いていただきました。1973年の大阪国際フェスティバルでトリを務めた公演の実況録音です。作曲は大栗裕、朝比奈隆指揮・大フィルで、制作はもちろん野口幸助。公害問題、都市開発を告発して、自然を守ろうという寓意的なメッセージを込めた新作です。

1980年までの「朝比奈一座」が、1980年以後の「巨匠・朝比奈」と一番大きく違うのは、こんな風に、いい歳をしたオッサンたちが、時代の動きを彼らなりに読んで、いつも新しいことを仕掛ける姿勢を保ち続けたことだと私は思っています。

このバレエの音楽は、同時期の歌劇「ポセイドン仮面祭」(1974)に似たスタンスで書かれていると言えるかもしれません。冒頭の大空を鳥が羽ばたくシーンはストラヴィンスキー「火の鳥」そっくり。自然を破壊して荒廃したスラム街はバーンスタイン「ウェストサイド・ストーリー」、少女が都会を逃れ、農村へ逃れるくだりは、シベリウス風に悠然とした歩み……というように、あちこちに泰西名曲が見え隠れします。船場のおっちゃんも、1970年代には、ちゃんとポスト・モダンしていたのです(笑)。

ちなみに、舞踊は、外国人をゲストに迎えてはいますが、地元大阪の法村・友井バレエ団が出演しています。そして演出をした同団設立者の友井唯起子さんは船場出身で、実は大栗裕と同じ小学校の同期生。亡くなったのは大栗裕の翌年の1983年。

ここでも、1908年生まれの朝比奈さんを、舞台上の大輪の花をダンサーたちが囲むように、一回り若い大阪生まれが取り囲んでいたのでした。

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前にも書いたような気がしますが、朝比奈さんがフレンチ・シェフの格好をして微笑んでいる写真が残っています。TBS「オーケストラがやって来た」(ただし山本直純さん降板後、石井真木司会時代)の公開収録の一コマです。場所は高槻市の市民会館で、実はわたくし、そのとき客席におりました。(母が葉書で応募したのだったと記憶します。)

朝比奈さんは、勲章を付けて、正装で指揮台に立つ人であったわけですけれど、オールバックに黒ブチ眼鏡で蝶ネクタイ(どことなく昭和のお笑い芸人風?)の大栗裕と一緒にやっていた時代のことが気になるのは、そんな記憶も手伝っているのでしょうか。

(ほほえましいコスプレがありつつ、収録ではブルックナーも振っていましたし、二本取りの二つ目は「第九」でした。

一本目の収録後に、お客さんを入れたままで第九のゲネプロ兼カメラリハーサルがあって、客席が休憩時間のつもりでなごんでザワザワしはじめると、朝比奈さんは、演奏を続けながら、客席を振り向いて「練習中なので、静かにお願いします!」と一喝したのでした。

自分の乏しい思い出を得々と語るのは恥ずかしいことですけれども(そういうことはもっと歳を取ってからでいい!)、朝比奈さんの色々な面を見ることのできる場だったようにも思います。朝比奈さんは、そういう放送の仕事のときでも手を抜いて「流す」のはダメだと思う人だったのでしょうね。)

(おしまい)

そなた・こなた・へんろちょう〈続〉 (1978年)

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幸助のステージとーく―音楽マネジメント65年

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