大阪センチュリー交響楽団のメンデルスゾーン「賛歌」(歌の「古さ」の分析試論)

[5/15 後半部分、「バッハのコラール」と「荒城の月」の話を追記しました。5/16 その後こまめにあちこち直しています。]

本日は大阪センチュリーの定期で高橋悠治の新作披露とメンデルスゾーンの交響曲カンタータ「賛歌」(交響曲第2番)。

高橋悠治作品は、そもそも、芭蕉が大阪で亡くなったという事実がそれほど重大なことだと私には思えなかったのですが、

(人の往来が多かったに違いない大坂の地で、旅から旅の生活だった連歌俳諧師がどれほどの重みを持っていたのかよくわかりませんし、たまたま後世に有名になった人だからといって、「大坂の文化浮揚策」としてこの人の名前にあやかろう、というような発想は、私にはなんだか貧乏くさく思えてしまいますし、そんなことをどうして高橋悠治を担ぎ出してまでやらなければならないのか、意味のわからない話に当惑しております……。

東京からのお客さんもいらっしゃったようですが、こういうやり方をしても、高橋悠治を聴いて帰るだけだから、事実上、大阪を素通りしているのと一緒なんですよね。

この構造は、吉田秀和が三谷礼二をスカウトするために厚生年金の関西歌劇団に来たり、クライバーを観るために国際フェスに来た頃と何も変わっていない。学習能力が乏しいというか、20世紀的「イベント学」(苦笑)の発想だなあ、と思ってしまいます。

こういう風に、イベントを終わってから論評すると、「評論家があとづけで好きなこと言って」とイベント屋さん気質の方に言われそうですが……、そもそも私は、「ひょっとすると、単なる一過性でない何かを体験できるかも」という期待を捨ててはいけないと思うから会場まで足を運んだわけで、でも行ってみたらそこまでのことではなかった、とそういうことです。どうしてイマイチ感が残ったのだろう、と、これはイベントが終わってみなければ発しようのない問いですから、その種の、イベントが終わったがゆえに発動しうる疑念を十把一絡げに「あとづけ」と切り捨てられては困ってしまいます。白黒の判断が検事だけでなされるのは恐怖政治ですが、当事者の利益を声高に代弁する弁護士ばかりが焼け太りする世の中もバランスを欠いているわけで……。)

http://yohirai.asablo.jp/blog/2010/05/20/5098699

イベント学のすすめ

イベント学のすすめ

ここでは、もう一つの演目、「賛歌」の話をします。

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「賛歌」は、「息をする者はみな、主を讃えよ Alles, was Odem hat, lobe den Herrn!」という言葉を、まるで念仏宗の唱名、「南無阿弥陀仏」のように繰り返す作品ですが、

南無阿弥陀仏―付・心偈 (岩波文庫)

南無阿弥陀仏―付・心偈 (岩波文庫)

とくに前半のオーケストラだけで演奏するシンフォニア部で、この唱名的なフレーズのイントネーションに違和感があって仕方がありませんでした。

器楽の譜面として普通に書くとこういう風になっていて、今回の演奏は、付点をピョンピョン跳ねるように演奏していたのですが(マーチか何かみたいに)、

でも、「主を讃えよ」云々という言葉との対応はこういう風になっているのですから、3つの付点リズムは、それぞれ意味が違うと思うのです。

2拍目の付点リズムは、「-les, was」とアクセントのない音節が続く軽い箇所ですが、3拍目は「Odem」と付点八分音符にアクセントのあるひと続きの単語。次の小節の2拍目「(Lo-)be den (Herrn)」は、アクセントのない音節が並ぶ点では最初の小節に似ていますが(そして1小節目と2小節目のリズムの照応は当然意識して作曲されているとは思いますが)、「主を讃えよ」というこの文で一番重要な言葉(ラテン語典礼であればallelujaとかlaudamus teと言いそうな、仏教であれば南無=namasでしょうか)を唱えている箇所で、旋律的にもド〜ミb〜レと高い音域へたどり着く箇所ですから、ブツブツ切るわけにはいかない。言葉と一体化したフレーズであることを意識していれば、そうなるはず。

(一般論で言えば、外国語の歌が何を言っているのかよくわからない場合、大雑把に、母音・子音のいわゆる「発音が悪い」という風に言われますが、実際は、それなりの発音で歌っていても、言葉を音節や音素に分解してしまって、語や文として捉えていないから、聴き手が意味を取れない/言葉に聞こえない、というケースが結構あるんじゃないでしょうか。念仏だって、「な、むあみ、だぶ、つ」と区切られたら、何だかよくわからなくなってしまう、それと同じことであって……。)

試しに、古い聖歌の記譜法をまねて、すべての音節を同じ音符で書き表してみると、このフレーズが器楽的(マーチ的)に跳ねるのでなく、典礼の聖歌か何かのように、一息、ひとつらなりの文を語っている/唱えているのがはっきりすると思います。

音の動きをみると、最初の文節 "Alles," は「ファ→ソ」と語尾がわずかに上がって、次の文節 "was Odem hat," で「ファ→シb」と大きく4度高い音へ飛び移り、この高さをしっかり保持してから(=シb〜シbシb)、"lobe den Herrn!" が「ド〜ミb」とさらに調子を高めて、半音下降(ミb〜レレ)で歌い収める、という力強い上昇カーヴです。

「シb」の音をしっかり保持するところが「Odem(息)」という単語で、「ド〜ミb」とさらに調子を高めるところが「Lobe(讃えよ)」という動詞なのは、おそらく偶然ではなく、言葉の意味に沿ったイントネーションをメンデルスゾーンが作曲した、ということでしょう。

さらに、使われている音を順番に並べると、「ファ・ソ・シb・ド・ミb・レ」というように、音階の第7音(ラ)をスキップしています。

主音への導音進行(ラ→シb)を避けることで、バロックや古典派の和声進行と一体化した器楽旋律の機能美とは違う、「古い真実」(かつて教会旋法で歌われたような)の雰囲気を醸し出していると言えるのではないでしょうか。

(一般的に、イタリアのベルカント・オペラなど、人の声でスムーズに歌えることに気を配ったメロディーでは、(別に日本旋律のヨナ抜きとかだけでなく)硬くなりがちな導音進行を好まない傾向があるとは思いますが……。でも、このフレーズは、19世紀前半の聴衆の耳には、ちょうと20世紀後半の耳にバーンスタインのユダヤ教音楽が異様なものとして響いたのに似た力を感じさせたのではないかと思うのです。ドイツ・ロマン派は、中世への憧れとともに、ワーグナーが「救済」という形で聖母信仰を近代に密輸入したり、リストがローマで僧籍を得たりしてカトリックが強く、根無し草であるがゆえにオーソドクスへ帰依する/帰依したい気持ちが強かった時代だと思いますし……。メンデルスゾーンは侮れない作曲家だと私は思うのです。)

キリスト教と音楽 ヨーロッパ音楽の源流をたずねて

キリスト教と音楽 ヨーロッパ音楽の源流をたずねて

メンデルスゾーンはツェルターの弟子で、ジングアカデミーの「マタイ受難曲」を引っ張り出して蘇演して、ツェルターの後継者を秘かに狙っていた人ですから、宗教声楽のライブラリーは相当研究していたはずですし、このフレーズは、1時間のカンタータを支えるに足る考え抜かれた立派な出来映えだと思います。歌ってよし、器楽的展開に組み込んでよし、対位法的な処理も可能で、なおかつ、力強く言葉に密着しているのですから大したものです。

(こういうフレーズを作曲できる能力こそが、和声や対位法の規則の集積で型にはめて、人をがんじがらめにするペダンティズムと一線を画す、アカデミズムの底力と呼ばれるものだと思います。)

メンデルスゾーンのスコットランド交響曲

メンデルスゾーンのスコットランド交響曲


今回の演奏は、まるで有能なコレペティのピアノ伴奏みたいに正確だったとは思いますが(特に、楽譜に書いてある音をデコボコやピッチのブレなくリアライズする点)、でも、この作品の言葉の力は、もっと強いような気がするんですよね。

沼尻さんは、秋にはびわ湖で「トリスタン」をやるそうですが、ドイツ語のデクラメーションに独特のこだわりがあったワーグナーの音楽劇、大丈夫なんでしょうか。

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[追記]

メンデルスゾーンの「賛歌」の唱名的な中心テーマに関連して、ある種のメロディーがもつ「古い真実(の雰囲気)」について、もう少し書きます。具体的には、いわゆる「バッハのコラール」と、滝廉太郎/山田耕筰の「荒城の月」についてです。

(唐突に話を別方向へ振り回すようではありますし、直観的にこの二つの話につなげたくなっただけのことではあるのですが、「賛歌」のメンデルスゾーンはマタイ蘇演=ロマン派によるバッハ復興の立役者ですし、「荒城の月」を作った滝廉太郎が日本の作曲家留学第一号として留学したライプチヒ音楽院はメンデルスゾーンが設立したのですから、いちおう話の平仄は合っているはずです。以下、変な裏道をぐるぐる回って、西洋音楽史と日本の洋楽受容を両方まとめて好き勝手に一周してしまっておりますが……。^^;)

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まず、コラールの話の前にグレゴリオ聖歌に遡ります。

グレゴリオ聖歌は、もはや発祥がよくわからないところを多く含む中世の祈りの歌(たぶん、ユダヤ教典礼に多くを負っていると思うのですが……)の数百曲の集積で、バロック以後の調性音楽とは別の感覚に立脚する単声の歌。

現在の唱法はどうやらのちに復興したスタイルであるようですけれども、旋法が違いますし、規則的な拍子を刻まないので、漠然と聞いても、十分に異質な感じがすると思います。

グレゴリオ聖歌を五線譜で「1と、2と……」とカウントしながら歌っているのを聴くと逆に違和感がありますし、和声付けしようとしても、しっくりこない。機能和声を含意しないメロディーであって、だからこそ、調性の外の世界へ思いを馳せたドビュッシーや早坂文雄を惹きつけたのだと思います。

「古い真実」の雰囲気、として私が想定しているのは、自分たちの手の届かない遠い世界から響いているような、あの感じです。

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メンデルスゾーンやシューマンがバッハに夢中になったのは、そこにバロック(初期宮廷音楽)を見たのではなくて、ほとんど中世が封入されたような「古い真実」の手応えを感じたのだと思います。カトリック圏のグレゴリオ聖歌に匹敵するものがドイツにもあった、ということでしょう。

(だからシューマンは、「詩人の恋」やライン交響曲で、中世の古城や大聖堂を音にするときにバッハ風の対位法を使う。バッハ様式を中世と結びつける時空の歪みは、ワーグナーの「マイスタージンガー」などでも続いていますし、オルフの「カルミナ・ブラーナ」の中世も、あっけらかんと三和音が鳴り響いたりして、時代考証は怪しい。クラシック音楽は、ロマン派の「バッハ発見」によって歪んでしまった時空から、20世紀になっても完全には脱却していないように見えます。クラシック音楽には、時代劇の役者さんが現代語に「ござる」をくっつける奇妙な台詞で話す“お約束"を笑う権利はなさそうです(笑)。)

そして「バッハのコラール」です。

よく考えると「バッハのコラール」という言い方はおかしくて、バッハはコラールの新曲を作ったわけではなく、ルター派コラールを合唱やオルガンなどで演奏できるように仕立てただけですよね。

バッハの和声付けがよくできている、ということでバッハの作例を集めたコラール集が編纂されて、今では、バッハの和声付けになじんでしまって、コラールのメロディーを聴くと潜在的にハーモニーを含意しているかのように聞こえてしまうくらいに、コラールといえば、ホモフォニーの和声と一体にイメージされます。

(アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲などでも、コラールは、オルガン風の和声+音色込みで引用されますし、メンデルスゾーンの「賛歌」のなかのコラールもそうですね。すべての声部が同じリズムで動くような和声付けを「コラール和声」と俗称することがあります。)

でも、改めて調べてみますと、ルターのコラールは当初、単声で公表されたようです。

たとえばウィキペディア(ドイツ語版)には、ルター作の有名なコラール「神は堅きとりでEin' feste Burg ist unser Gott」(メンデルスゾーンが宗教改革交響曲で引用している旋律ですね)の手稿の画像が出ていました。

http://de.wikipedia.org/wiki/Ein_feste_Burg_ist_unser_Gott

ルネサンスの定量記譜法で、小節縦線はありません。規則的な拍子を刻む音楽ではなかったようです。

ウィキペディア(独)には、これを現代譜に起こしたものと、後世の版も出ていました。規則的な拍子が一般化する過程で、ルターのメロディーをなんとか4拍子に収めようとしたらしいことがわかります。

コラールがこのようなものだとしたら、バッハの仕事は、コラール和声の決定版、というよりも、ルターの時代とバッハの時代の音楽観、様式観の差異を調停する試みのひとつだったと見た方がいいんじゃないか、という気がします。

ルネサンス/バロックは、教会旋法から長短調へ、そして、線的多声音楽から機能和声へ、という決定的な転換が起きた時代ですから、差異を誠実に調停しようとするとかなり大変であったはずで、バッハの作曲技巧は、この原理的に埋まるはずのない溝を埋める献身によって鍛えられたのだと思います。

(バッハの和声づけが複雑怪奇で、容易に理論化できないのはそのためでしょう。

ウィーンでは、古典派の時代、ベートーヴェンもみんなフックスで厳格対位法を学んでいたようです。パレストリーナの様式を規範とする作曲理論です。たぶん、バッハの作曲技法をめぐる後世の驚きは、パレストリーナを規範とするイタリア/オーストリア/カトリックの流派と、コラールの周囲に育った北ドイツ/プロテスタントの流派、という二つの潮流を背景にして考えるべきなのだろうと思います。

バッハの流儀は、次男C. P. E. バッハの教則本などを通じて間接的に伝承されていたようです。ハイドンは20歳の頃エマヌエル・バッハを独習したとの証言がありますし、ウィーンでハイドンに師事する前、ボン時代に、ベートーヴェンはエマヌエル・バッハの流れを汲む人に学んでいたようです。ウィーン古典派の作曲家たちが1770年代にエマヌエル・バッハの多感様式に接近した時期があったこと(古典派には珍しい短調なので見つけるのは容易)が知られていますし、ウィーンにやって来たベートーヴェンが「熊のようだ」と評されたのは、ピアノの演奏スタイルとともに、多感様式伝来の感覚を背負っていたせいかもしれません。

こうして南北対立は、18世紀には、empfindsamかgalantか、という趣味の違い(啓蒙主義とポスト太陽王世代のヴェルサイユ宮廷の新しいモードがごっちゃになってドイツに入ってきた際の、そうした新潮流への二種類のドイツ流解釈)と表象されました。

次に19世紀のシューマン、メンデルスゾーン、ワーグナーの時代に、今度はバッハが「ドイツ的・ゲルマン的中世」(いわばデューラーのメランコリーの音楽版)のイメージで復活しました。バッハを中世と結びつけるのは「ウソ」ですが、バッハの段階で相当な無理をしてコラールの周囲に和声と対位法の大伽藍を築いてしまっているので、バッハをはじめとする北ドイツの音楽伝統を言説に回収しようとすると無理に無理を重ねることになる。バッハをめぐるドイツの熱狂は、いかにもロマン派的で、しかも、ナショナリズムの勢いゆえに否認するしかない亀裂を内側に抱えた情熱、そういった、ひょっとすると精神分析的な読みが可能かも知れない症例と見ればいいのではないでしょうか。)

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以上を踏まえて、「古い真実(の雰囲気)」の話に戻ります。

現在の私たちは、グレゴリオ聖歌が中世の音感、ルター派コラールがルネサンスの音感を封入した歌であることを知っており、ルネサンス以来の音楽家一族に生まれたバッハが、ドイツ東部チューリンゲン地方(ヨーロッパ全体からみれば、申し訳ないけれど「ド田舎」と言わざるをえない場所、と思います)に伝承されたそのような古い伝統と、いち早く調的和声に乗り換えたイタリアやフランスの最新音楽を調停しようとして技巧の限りを尽くした職人であるということを知っています。

それから、晩年のバッハは、出版の街ライプチヒに出てきて、(おそらく先輩テレマンなどのやり方を見ながら)楽譜出版という当時の最新テクノロジーを知り(若い頃のバッハは外国の音楽を印刷譜ではなく手書き筆写譜で学んでいたようですから、彼は、「ド田舎」に生きていたがゆえに、ルネサンスからバロックへの様式転換だけでなく、手書き筆写譜から印刷譜へ、というメディア革命をも追体験することになったのですね)、それからあとは大作出版の乱れ打ち、音楽を地域コミュニティの範囲を超えた「印刷物の銀河系」に流すことに夢中でした。

(作曲家を偶像視するタイプの記述は、晩年のバッハの仕事を音楽史の金字塔と讃えるわけですが、むしろこれは、田舎のおじいちゃんがパソコン/インターネットを覚えてブログをはじめて、一躍ネットの人気者になって「ネ申」などと呼ばれてしまう、そういった風景に近いのではないでしょうか。実際、モーツァルトやベートーヴェンやシューマン、メンデルスゾーンだけでなく、「伝説のネットアイドル、J. S. バッハ」のことは楽譜コレクター経由でロンドンにも伝わっていて、クレメンティなども、かなり早くからバッハを知っていたようです。バッハ受容には、新しい情報技術ネットワークの形成、その地域ごとの落差といった、「インターネット村の悲喜こもごも」に近いところが多分にあるように思います。具体的な演奏を想定することなく「フーガの技法」や「クラヴィア曲集」のような巨大プロジェクトに熱中する姿は、人間界を超越してユニヴァース(神?)へ音楽をささげようとするかのようだと言われますが、ちょっと意地悪な見方をすると、バッハが夢中になった「神」は、楽譜出版というニューメディアのなかにいたように思われます。(辺境カナダのマクルーハンがニューメディアの神殿に帰依して、同じカナダのグールドがバッハ弾きとして名を成したのは、そう考えると奇妙な因縁ですね。))

私たちは、バッハがそういうオッサンであることを知っているわけですが、19世紀にはそこまでわからなかったはずで、だから、コラールも、それをめぐるバッハの苦労も、全部一緒くたにして「古い真実」のようなものとして受容された、ということなのだろうと思います。

結論として、バッハの「偉大さ」とされるものは、かなりの部分が、彼の時代のチューリンゲン地方の後進性と、それゆえに彼がクリアせねばならなかった課題群の関数として読み解けるのではないかという風に、私は思っています。

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そしてもうひとつのお話、「荒城の月」です。

「荒城の月」という歌曲、現在流布しているニ短調の4分音符ベースで、堂々たるピアノ伴奏のついた版が山田耕筰による編曲だということは、海老澤敏先生の本などもあって比較的よく知られていると思います。

瀧廉太郎―夭折の響き (岩波新書)

瀧廉太郎―夭折の響き (岩波新書)

「花の宴」のところの音がオリジナルとは半音違っている、といったことがトリビアとして語られたりもします。

しかも、滝廉太郎のオリジナルの学校唱歌は無伴奏で出版されていたようです。学校唱歌は全部そうだったらしいですが、これはかなり重大なことではないかと、私は思っています。

荒城の月も、こいのぼりも、お正月の歌も、滝廉太郎が作った歌は、ルターのコラールとは違って、潜在的に西洋の機能和声を前提として着想されていると思いますし、オルガンその他でいくらでも伴奏することが可能ですが、でも、あくまで楽譜は無伴奏です。

新時代にふさわしく、近世邦楽などとは異なる音感に立脚しつつ、でも、ハーモニーをダイレクトに指定することはできない条件で書かれているのですから、これらの唱歌はかなり厳しい制約のもとで書かれていたことになりそうです。

ちょうどバッハの無伴奏チェロ曲や無伴奏フルート曲が、単声で充実した和声進行を感じさせるべく考え抜いて書かれていのに似ています。

(滝廉太郎自身が残した自作・他作唱歌の伴奏例は、正直言って単純なもので、具体的な技術水準をバッハと比較するのは無理がありますけれど、作曲家としてクリアせねばならなかった課題には似たところがあっただろうと思うのです。「荒城の月」は、たとえオルガンなどの伴奏がなくても、三和音をなぞっていく「ファ# シ (ド) レ」という冒頭の動きや、三味線音楽の都節にはありえない半音の隣接「ソ ファ# ミ# ファ#」、メロディーというより四声体カデンツの低声部の進行を連想させるしめくくりの4度と5度「ミ ファ# ファ# シ」(まるで「魔笛」のザラストロのお説教の歌みたいに四角四面)などの特徴から、バタ臭い・ハイカラな節回しと感じられたのではないでしょうか。)

しかも、色々な思いがあったとしても、結果が複雑になって子供が歌えないものであっては困るわけで……。

おそらく滝廉太郎の唱歌は、(機能和声の規則集に照らして、この技法を使っているからプラス5点、この技法を使えていないからマイナス5点……と採点するように聴いてもあまり面白くなくて)単声のメロディーそれ自体として分析しないと、機微が見えてこないものなのだろうと思います。

グレゴリオ聖歌やルター派コラールのような「古い真実(の雰囲気)」とは意味合いが違いますが、あの単声学校唱歌の感触について、何らかの美的カテゴリーを設定して論じていいのではないかと、私は思っています。

(単声のルター派コラールはルネサンス音楽の文脈に依拠しつつ、カトリックの複雑な多声音楽へのアンチテーゼだったわけですが、明治政府の単声学校唱歌は、洋楽受容の公式的な説明だと、「俗悪」な邦楽に対抗して、国民を善導する新時代の「雅び」と位置づけられていたようです(だから学校唱歌は俗語ではなく雅語の歌詞)。コラールと学校唱歌は、見た目が似ているだけでなくて、自堕落な(と目された)世間に新しいシンプルな基準を打ち立てようとする歴史的な役割に構造的な類似があると言えそうです。

それに、唱歌はコラール文化をアメリカ東部の賛美歌経由で輸入した外来種(洋楽)なのは否定できませんけれども、洋楽に親しんでいない人も多かったに違いない明治政府が学校唱歌の制度化を是認したのは、下級武士出身の関係者のなかで、詩吟との類推が働いたのではないか、学校で詩吟のようなものを教えるのはやっても悪くはない、というような納得があったのではないか、と私は想像しています。幕末から明治にかけては、一方で、土井晩翠の歌詞にも流れ込んでいるような「漢文脈」が生きていましたし、藩校や私塾で学んで、幕末の志士になったり、新政府からはじき出されたりした武士たちの間では詩吟が大流行していましたから……。

明治学校唱歌の独特の感じは、コラール、賛美歌という洋楽受容の文脈だけでは読み解けない。下級士族好みの「西洋詩吟」の側面を含んでいるように、私には思われます。)

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そういう文脈を踏まえてから山田耕筰の編曲を聴き直すと、明治の唱歌がもっていた距離感がきれいさっぱり消失していると感じます。オリジナルの「荒城の月」が明治の漢文脈のような感じだとしたら、山田耕筰の編曲は、彼の日本歌曲と同じく、私たちにおなじみの口語体。「弁静粛祝……」と「この道はいつか来た道、ああ、そうだよ」の言語感覚の違いに相当するスタイルの差があると言えるのではないでしょうか。

ポストモダン風に言えば、明治の滝廉太郎は、洋楽/調性音楽の外と内との境界領域で学校唱歌を書いているけれど、大正の山田耕筰は、調性音楽の内部に安住して、「イメージとしての荒れた城」を音で表現している、ということでしょうか。

日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

(ちなみに、山田耕筰の編曲は、調とテンポの変更だけでなくピアノパートがえらく立派です。

(1) 前奏のしめくくりに「b a d」という半音をしのばせておいて(ここだけを聴くとひとまずカデンツの常套的な動きに聞こえます)、

(2) 曲の真ん中あたりの左手に、やはり「a b a」の半音を軸にして、チェロが対旋律を唸るような音型が出てきます。ここは、「a」の音で始まって終わるので、かすかに都節の雰囲気がただよいます。(短調のドミナント上でフリギア旋法風に音を動かしてエキゾチズムを演出するのは、ラロとかリムスキー=コルサコフとかの19世紀スペイン趣味の応用かもしれませんね。試しに、A-durコード上で「ラ シb ド# レ ミ レ ド[ナチュラル] シb ラ」と弾いてみるとお手軽フラメンコ、スペインの「ミの旋法」の気分が出ます。)

(3) そして後奏にもう一回、今度は目立つ右手高音で、余情溢れる笛の感じに「a b a d e f(a)」と弾いて(短調ヨナ抜き上で都節風に音が動く)、これを低音が「b a g a」と受け止めて主和音に回収する。

短調ヨナ抜き上の都節が流行歌に頻出するのはこの編曲より先なのか後なのか、当時の歌謡との関係が不勉強でよくわからないのですが、とりあえず技法の由来としては、19世紀の調性音楽にエキゾチズムのスパイスを効かせる国民楽派系音楽の手法で、「和」を演出していると見ることができそうです。ピアノパートが、「荒城の月」を西洋クラシック音楽の圏内に回収する変換装置になっているんですね。

コラールがバッハの和声付けで人口に膾炙しているように、「荒城の月」はこの山田耕筰編曲で広まっています(実は大栗裕も、「荒城の月」を箏と管弦楽の協奏曲に編曲していて、朝比奈隆・大フィルがレコーディングしています)。バッハは和声本の範例とされていますが、それではこうした山田耕筰の手法は、「日本の民族派は倭人の臭いがする」と批判した池内友次郎のような人にとって、下品な「臭い」なのか、推奨されるべき「香水」なのか……。

私には、通俗的な人工香料に感じられます……。それを一方的に批判するつもりはなく、人工香料なしにはやっていけなかったのが日本の近代なのに、そこから目をそらしているからアカデミズムの議論が歪む(自分が使っている高級人工香料を、他とは違うと言い張ることに異常な情熱を燃やす等々)。明治唱歌に独自の美的カテゴリーを設定すべし、という意見と矛盾するかのように思われるかもしれませんが、大正・昭和の作曲界の動向については、まだわからないことが多すぎるので、性急に美学・美意識に上訴することなく、歴史を歴史として具体的に眺めるほうが今は得策なんじゃないかといます。)

ドビュッシーに魅せられた日本人―フランス印象派音楽と近代日本

ドビュッシーに魅せられた日本人―フランス印象派音楽と近代日本

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最初の話に戻って、ルターのコラールとバッハによる和声付けの間にも、そのような様式の差異があるし、

さらにこのエントリーの本題に戻って、メンデルスゾーンのようなロマン派も、バッハの営為とごっちゃになった「古い真実」の観念のもとで、何かを感じ取っていたのだろうと思われます。

調性音楽の外部というと、非西洋の音楽とか、20世紀の前衛・実験とかが目立つトピックになりますが、

言葉と結びついた音楽(歌)は、(声と言葉に様々な文化の記憶が封入されてしまいますから)、ごく日常的に、調性・機能和声という近代の人工的なシステムの外部を指し示すことになってしまう。そういうことだと思うのです。