「大阪俗謡による幻想曲」作曲は1955年ではなく1956年

大阪大学音楽学研究室の『阪大音楽学報』に

大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》自作解説への注釈 -- 1956年の二つの先行器楽作品および大阪の祭り囃子について --
http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-fantasia-osaka2.html

という論文を投稿しました。

一年前に大阪音大紀要に書いた論文と紛らわしいタイトルですが……、

大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」(1956, 1970)の作曲技法 -- 草稿「大阪の祭囃子による幻想曲」の分析を中心に --
http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-fantasia-osaka.html

2009年の論文は、「俗謡」の自筆楽譜の調査・分析レポート。今度の論文は、大栗裕の自作解説を起点にして、作品の周辺(同じ年の先行作品や、作品に取り入れられている大阪の祭り囃子)を扱っています。

犯罪捜査にたとえれば、「俗謡」成立という事件について、前の論文は現場に残された物的証拠・遺留品の調査。今回は、被疑者証言について、関係者への聞き込みで「裏を取る」という体裁です。

ふたつあわせて、ほぼ「事件の概要」が見えてきた。この作品について現存する資料の整理はできたかな、と思っています。

最初の一歩なのでかなり慎重に調査を進めてきましたが、様子がわかってきたので、今後はここまでスローペースではなく、できると思います。

オペラや音楽物語のことを書くのはまだ先になりそうですが、次は、別の作品のことをまとめようと思っております。

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『阪大音楽学報』の8号は、根岸一美先生の退職記念号で投稿者が多く、字数が限られていたので、かなり切りつめて詰め込んだ形になっていますし、ウェブ上では譜例を省略しているので、読みにくいとは思いますが、

1956年前半の大栗裕の他の作品のこと、大阪の獅子舞囃子と篠笛という楽器のこと、上原六四郎や小泉文夫による日本音階論のこと、大栗裕と関西楽壇は、いわゆる日本の民族派よりも、むしろ、東京の都会派「三人の会」を強く意識していたのではないかという仮説など、色々な話題を扱っています。

「事件捜査」的な意味での成果としては、

(1) 従来の大栗裕作品リストで曖昧に1958年頃の作品(ただし消息不明)とされていた「管楽器と打楽器のためのディベルティメント第1番」、それから、朝比奈隆が1957年にストックホルムで指揮したとされる正体不明の「ディベルティメント」が、1956年2月末初演の「管楽器と打楽器のための小組曲」と同一作品であることがわかりました。

それから、

(2) これは論文で直接話題にはしていませんが、「大阪俗謡による幻想曲」という作品の完成時期(いわば「犯行時刻」)は、やはり、通説の1955年ではなく1956年3月以後である可能性が高そうです。

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前の論文で、「俗謡」の特に序奏部分が最初の草稿(大阪音大所蔵)のあと、1956年の初演稿(パート譜が現存する)で書き直されていることをレポートしました。

修正の時期(=作品完成の時期)は、1956年のスコアが失われているので、傍証から推測することしかできないのですが、

幸いなことに、1956年には、完成・初演日時がはっきりしている曲が2つあります。1月完成・初演の「管弦楽のための幻想曲」と、2月末完成・初演の「管楽器と打楽器のための小組曲」です。

この2曲を、5月末に初演された「大阪俗謡による幻想曲」と並べて比較すると、

 幻想曲(1月)>小組曲(2月)>俗謡(5月)

というように、あとで発表された曲ほど普通の「ドミソ」が出てこなくなって、日本音階が支配的になっています。

歌劇では、日本風で通した「赤い陣羽織」をすでに1954年に書いていますが、器楽曲については、1956年前半の数ヶ月で、大栗裕の作曲スタイルが急激に変化しているように見えます。

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このことは、大栗裕自身が「大阪俗謡による幻想曲」初演直前に出したコメント(論文冒頭に引用しています)とも一致します。

大栗裕は、自分でも、「小組曲」での試みを踏まえて「大阪俗謡による幻想曲」を書いたと言っています。つまり、本人が、「俗謡」を「小組曲」のあとで書いたと「自白」(?)しているわけです。

もちろん、「自白」を鵜呑みにするのは冤罪の温床ですが(たとえば、大栗裕と同じく音大を出ていなかった武満徹の生前の発言には色々とミスティフィケーションがあったらしいことが徐々にわかってきています)……、この場合は、残された楽譜の作曲スタイルも、「小組曲」の前ではありえないものなので、心証としては、本人が言うとおりだと考えていいように思います。

1956年完成と考えると様々な証拠を矛盾なく解釈できる一方、1955年完成と考えると、うまく説明できない証拠が残ってしまいます。

「俗謡」の完成は、「小組曲」が完成した1956年2月末よりもあとである可能性が高い、というのはそういう意味です。

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ここからはオマケです。厳密な論考というより、アームチェアの推理ゲームになっていまいますが、

(a) 前の論文でレポートしたとおり、大阪音大が所蔵している「俗謡」の最初の草稿(「大阪の祭囃子による幻想曲」の題になっている)の序奏は、「ドミソ」があちこちに出てくる、“「小組曲」以前”のスタイルで書かれています。

(b) それから、これは今度の論文に引用しましたが、1956年1月の「管弦楽のための幻想曲」はかなり不評でありまして、大栗裕の作曲スタイルが変化していくのは、そのことも理由のひとつであったように思われます。

「幻想曲」の初演は大阪労音例会だったのですが、労音のお客さんは「ゲンダイオンガク」を喜ばない。まして今度の曲は、ベルリンで日本人指揮者が演奏する特別な作品。(朝比奈隆は、後年の回想で、ベルリン・フィル側から、セリー音楽の亜流はやめてくれ、とリクエストされていた、とも発言しています。)

(c) そして「俗謡」の最初の草稿は、これも前の論文に報告したように、序奏部分だけがペンで一気に書かれて、主部にはいったところで一度中断した形跡があります。そこからあとは鉛筆で書かれています。(序奏にも、修正が色鉛筆で加えられています。)

こうした傍証を組み合わせると、1956年前半の大栗裕の動静は、およそこんな風だったのではないか、と思われます。

  • (1) 大阪労音の委嘱による「管弦楽のための幻想曲」を完成(スコアには、1956年1月1日の日付記入)
  • (2) ベルリン・フィルのための管弦楽曲の作曲に着手(現存する草稿のタイトルは「大阪の祭囃子による幻想曲」。この草稿に着手した時期が「幻想曲」の前なのか、後なのか、現状では確定できず。)
  • (3) 「管弦楽のための幻想曲」初演(1月11〜15日) → 不評。これはマズい!
  • (4) 「大阪の祭囃子による幻想曲」の作曲を序奏で中断。((3)のあと不評を受けて急遽方針、ということだと話としてはとても面白くなる。ただし、この草稿が一時中断した時期がいつなのか、(3)の前か後か、現状では確認できず。)
  • (5) 「管楽器と打楽器のための小組曲」作曲・初演(スコアには、1956年2月27日、という初演当日の日付の記入、短期間に作曲された可能性が高い。また、この小品の成立は、曲のスタイルと作曲者のコメントから判断すると、「大阪の祭囃子による幻想曲」の作曲が一時中断した間に作曲されたのではないかと思われる。)
  • (6) 草稿「大阪の祭囃子による幻想曲」を改稿して、現在の「大阪俗謡による幻想曲」として完成(ただし、パート譜から類推すると、初演に用いられた完成稿スコアのタイトルは、まだ「大阪の祭囃子による幻想曲」だったと思われる)
  • (7) 朝比奈隆の渡欧壮行を兼ねた神戸新聞会館演奏会のチラシ配付、大栗裕の『関西芸術』でのコメント発表など(この段階でようやく、タイトルは「大阪俗謡による幻想曲」に統一される)
  • (8) 「大阪俗謡による幻想曲」神戸新聞会館で初演(5月28日)

大栗裕の作曲は、ほぼ例外なくすべて注文生産(具体的な依頼があってから書き始めるスタイル)で、期日の直前から一気に作品を書き上げることが多かったようです。

オペラはともかく、オーケストラ曲に数年、数ヶ月かけるタイプではなく、「大阪俗謡による幻想曲」のように改稿を重ねたのは珍しいケースと言えそうです。

なお、ここには書いていませんが、昼間はホルン奏者として、関西交響楽団演奏会や京都の映画撮影所の仕事をしていますし、徐々に放送局の仕事も入り始めて、次の歌劇「夫婦善哉」の企画も動き出しています。

大栗裕は、「赤い陣羽織」で作曲デビューした次の年には、もうこんな風に複数の仕事を平行して、右往左往しながら進める状態になっていたようなのです。

(そしてそれを、前のエントリーで書いたように、全部ハーモニカーで作って、こなしていたわけです。

「小組曲」の初演プログラムで、大栗裕は、この曲の演奏が、演奏会主催者の一人、宮本政雄の特別な好意で実現した、と書いています。ひょっとすると、大栗裕は新しい作曲スタイルを模索して、「俗謡」で使おうと思っていたのだけれど、そのためには事前に音を出して確かめておきたかった。(でも、ピアノなど弾けないのですから、独力では無理なわけです。)その意向を受けて、試演的な場が設定された。そういうことだったのかもしれませんね。

宮本政雄は、ヴァイオリニストで関響コンマスから指揮者になった人。関響メンバーによる「小組曲」初演を指揮しています。大栗裕が、関響の仲間に支えられた作曲の経験を積んでいたことが窺えます。

「小組曲」は、その後、ラジオでも放送されて、九州の労音関係の演奏旅行でも演奏されたようです。)

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もちろん、ここまで細かくすべてを確定するのは無理です。上のくだりはあくまで、半ばお遊びの推理ゲーム、大栗裕の日々の雰囲気を具体的に想像していただくために、再現映像風に考えたものですが、

本題に戻って結論を繰り返しますと、

1. 大栗裕本人の発言

ならびに、

2. 「管弦楽のための幻想曲」「管楽器と打楽器のための小組曲」との比較

の2点から、

「大阪俗謡による幻想曲」は、作曲「開始」の時期までは特定できないにしても、作品の「完成」は、通説の1955年ではなく、1956年3月以後、とするのが現時点の資料から見ると、より適切であると思われます。