大栗裕の室内管弦楽作品

大栗裕の楽譜をひとつずつ見ていくと、ときどき、分類に困るケースに遭遇します。

たとえば交響的物語「杜子春」(1957年)。これは、プロコフィエフ「ピーターとおおかみ」をも意識した音楽物語(朗読と管弦楽)ですが、関西歌劇団の歌劇公演で初演されて、1960年には、茂山千之丞の演出で、役者を立てて舞台化もされています。

キメラ的な性格の作品なので、分類をひとつに決めても仕方がないですが、たぶん、カタログなどを作るとしたら、管弦楽作品に入れておくのが一番混乱がないケースなのだろうと思います。

(他方で、関西歌劇団の創作歌劇運動を語るときには、忘れずにこの作品のことを顧慮すべきですが。)

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100211/p1

ほかには、この春に書いた論文で紹介した、大栗裕の「管楽器と打楽器のためのディベルティメント」シリーズも分類に困るケースだと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100619/p1

さて、どうするか?

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●管楽器と打楽器のためのディベルティメント 第1番「小組曲」(1956)と第2番「三つの像」(1963)

1956に初演されたこの曲は、まずタイトルを確定することからして、やっかいです。

自筆スコアは2種類残っていて、急いで書き上げて初演につかわれたと思われる鉛筆書きのほうのタイトルは、

“Petite Suite” 管楽器と打楽器の為の

フランス語タイトルなのは、ひょっとするのドビュッシーの「小組曲」のような曲を想定して書き始めた、ということかもしれません。

初演プログラムのタイトルは「管楽器と打楽器のための小組曲」です。

一方、ペンで仕上げられたもうひとつのスコア(朝比奈隆が1957年のストックホルムでの演奏会に使ったと思われるもの)のタイトルは、

小組曲 管楽器と打楽器の為の Suite for wood, Brass instruments and Percussion

ただし、英語表記は、鉛筆であとから書き加えられているので、大栗裕の自筆かどうか、はっきりしません。

そして、初演もしくは欧州公演で使われたと思われる手書きパート譜(スコアから起こしたもので、作成者は不明)の表記は、

“小組曲” Divertimento

ここではじめて、「Divertimento」の文字が登場します。朝比奈隆のストックホルムでの演奏会のプログラムの表記も「Divertimento」です。

どうやら、「プチ・スィート」という可愛らしいフランス風を連想させるタイトルで書き始められた作品が、朝比奈隆の欧州公演へ持っていくときに、「Divertimento」と改題されたようです。

そしてこの曲の初演から7年後、タイトルが「ディベルティメント」に確定してから6年後の1963年に、ほぼ同じ編成で、自筆譜表紙に、

管楽器と打楽器のためのディベルティメント第2 三つの像

と書かれた作品が完成します。この曲のほうはタイトルが安定していて、初演プログラムの表記も

管楽器と打楽器のためのディベルティメント第2番 三つの像

とほぼ自筆譜に一致します。

ただし、プログラムに掲載された大栗裕の自作解説には、「同じ編成の曲を既に私は5年前にも書いた」と記されています。

この「5年前」は作者の記憶違いだと思われます。1963年の5年前、すなわち1958年に「ディベルティメント」のタイトルを持つ曲、あるいは、管打楽器合奏曲が書かれた形跡はありません。

(1956年作曲の「ディベルティメント」の自筆タイトルが「小組曲」のままになっていることもあって、古い大栗裕作品リストを見ると、「小組曲」とは別にもう一曲あると推定され、「1958年 ディベルティメント第1番(詳細不詳)」となっている場合がありますが、関連資料を総合すると、事実は上の通りであるようです。)

つまり、大栗裕には、管楽器と打楽器による合奏曲「ディベルティメント」が二つあって、一つめは、1956年の当初「小組曲」と呼ばれていた曲。二つめは1963年の「三つの像」の副題がある曲です。

もし大栗裕の作品カタログを作るとしたら、

  • 管楽器と打楽器のためのディベルティメント第1番「小組曲」 1956年
  • 管楽器と打楽器のためのディベルティメント第2番「三つの像」 1963年

とするのが、わかりやすいかなあ、と思っています。

●吹奏楽? 管弦楽? 室内楽?

さて、問題はこの二つの作品のジャンル分類です。

管楽器と打楽器だけですから、広い意味では「吹奏楽」と見ることもできそうです。大栗裕の吹奏楽関連の文献でこの曲に言及されることがあるのも、まったくもって正当なことだと思います。

でも一方、第1番「小組曲」初演プログラムで、大栗裕は、この曲について、

オーケストラスコアの下半分をやぶって捨てた様な編成

と書いています。オーケストラからいくつかのパート(この曲の場合は弦楽合奏)を取り去ったような編成だ、と言うわけです。

この作者自身の説明を信じるならば、この曲は、吹奏楽(使用楽器や編成が管弦楽の管楽器群とは違っている)ではなく、管弦楽に隣接するサブジャンルと見た方がいいのかもしれません。

第1番「小組曲」、第2番「三つの像」が、関響/大フィルの管打楽器メンバーによって初演されているのも、この曲が管弦楽のサブジャンルだ、という判断を支持するように思われます。確かに大栗裕は吹奏楽出身の音楽家ではあるけれど、この「ディベルティメント」シリーズは、吹奏楽奏者ではなく、オーケストラ奏者を想定して書かれているようなのです。

吹奏楽と区別するとしたら、管楽合奏、ということになるでしょうか。

なお、第1番「小組曲」は、室内楽を銘打った演奏会で初演されていますが、初演以来、指揮者を立てて演奏されるのが通例であったようです。奏者の数は8人とやや大目。各楽器の独立性が高いところは「室内楽的」ですが、「室内楽」と言い切ってしまうのは難しそうです。

……というように、吹奏楽と管弦楽と室内楽の間にはまりこんだような作品になっています。

●大栗裕と新古典主義

しかしながら、20世紀の音楽に詳しい方ならば、この手の作品が20世紀前半には色々と試みられていることをご存じだと思います。

後期ロマン派の肥大した大管弦楽への反動で、シェーンベルクの一管編成の室内交響曲とか、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」や「管楽器の交響曲」などが書かれました。大づかみに言えば新古典主義のあらわれ、と言えるでしょうか。

大栗裕の「下半分を破って捨てる」という運動感覚あふれる物言いも、詩篇交響曲でヴァイオリンをオミットしたりするストラヴィンスキーの手つきなどをちょっと連想させます。欠落が面白みに転化する手法と言ってもいいでしょうか。大栗裕は、案外ちゃんと20世紀前半の音楽動向を知った上で作曲をしていたようなのです。

そして彼が新古典主義的発想を彼なりに消化していたらしいことを踏まえて、もう一度、彼の創作歴を見直すと、ほかにも、それらしい作品があったことが見えてきます。

2008年4月に大フィルがいずみホールの「大栗裕の世界」で蘇演した2つの作品。「弦楽のための二章」、および「オーボエと弦楽のためのバラード」(大フィル演奏時のタイトルは「オーボエと管弦楽のためのバラード」)です。

●弦楽のための二章、オーボエと弦楽のためのバラード

実はこの2曲も、タイトルに揺れのある厄介な作品です。

大阪フィルが「弦楽のための二章」の曲名で演奏した作品のスコアは、古いコピーだけが残っていて、そのタイトルは

TWO MOVEMENTS for STRING ORCHESTRA

一方、スコアから起こして初演に使われたと思われる手書きパート譜の表記は、

MUSIC for STRING ORCHESTRA

「弦楽のための二章」という名称は、1965年初演時のプログラムの表記に由来するようです。

芥川也寸志の「トリプティーク/弦楽のための三楽章」の向こうを張ったようなタイトルは、なかなか悪くない気がします。(芥川の「トリプティーク」は、朝比奈隆が大栗裕の「俗謡」と一緒に1956年にベルリン・フィルで演奏した曲ですから、大栗裕とは因縁がある、とも言えそうですし。)

もうひとつ、大阪フィルが2008年に「オーボエと管弦楽のためのバラード」として演奏した曲は、

この曲も、自筆スコアは古いコピーだけしか残っていません。

(ちなみに、2008年の大フィルの演奏会「大栗裕の世界」は、古いコピーしか資料のない2曲、大栗裕のオーケストラ関係作品のなかでは最も蘇演の難しい2曲を敢えて選んで取り上げた、大栗裕に関する資料事情をよくわかった人にしかできない狙い澄ました企画だったようなのです。私も最近気づいたのですが……。)

この曲は、表紙に手書きで

Ballade for Oboe and Orch.

と記入されています。おそらく大フィル演奏会時の曲名は、これを日本語にしたものだと思われます。ただし、この記入が誰の手によるのかは不明です。

現存する古いコピーで見るかぎり、ページをめくった曲の冒頭部分の自筆のタイトルは、単に

Ballade

オーボエ独奏(ローター・コッホの委嘱によると伝えられています)のバックは、管弦楽ではなく、実際には弦楽合奏です。

もしも私が作品カタログを作るとしたら、楽器編成と曲名が一致するように、「オーボエと弦楽のためのバラード」とするかな、と思います。

大栗裕は、少年時代からなじみのある管楽器主体の合奏曲(スコアの下半分をカットしたような)だけではなくて、弦楽合奏曲(いわば、スコアの上半分をカットしたような)にも挑戦していたわけです。

●大栗裕にとって室内管弦楽とは?

……ということで、細かい詮索が続きましたが、以上をまとめますと、

大栗裕には、作曲家としてのデビュー初期から1960年代にかけて、管弦楽と室内楽の中間に位置するような室内管弦楽曲を4つ書いています。

  • 管楽器と打楽器のためのディベルティメント第1番「小組曲」 1956年
  • 管楽器と打楽器のためのディベルティメント第2番「三つの像」 1963年
  • 弦楽のための二章 1965年
  • オーボエと弦楽のためのバラード 1967年

「三つの像」は外山雄三の指揮で初演されていますし、「バラード」は、前述のように、ローター・コッホの委嘱であると伝えられています。残りの2曲は、いずれも、初演指揮者は別(宮本政雄と泉庄右衛門)ですが、朝比奈隆が恒例のヨーロッパへの客演時にもっていて、彼の地で指揮しています。

大栗裕は、雑食的といわれかねないくらい色々なジャンルの仕事をしています。

もちろん20世紀の作曲家には大なり小なりその傾向がありますけれども、わけへだてなく何でも書き、なおかつ、癖なのかスタイルなのかわからない形で「個性」がにじむ純化したアマチュアリズム、という点では、大阪の雑踏を忙しく動き回るような大栗裕の仕事ぶりは、シュールな「音の河」をたゆたっていた武満徹と、対照的でありつつ、同じ時代の人という感じが私にはします。大阪の戦後と東京の戦後、という感じ。

そして、

(思い切って大言壮語してしまいますと)、武満徹がロンドン・シンフォニエッタなどのために書いた室内管弦楽曲で色々な問題を提起しているように、大栗裕の室内管弦楽曲は、それぞれの時点での彼の関心をはっきり示しているように思います。

「小組曲」は、論文で指摘させていただいたように、大栗裕が器楽で日本音楽にはっきり接近した最初の作品。「三つの像」には、1960年前後の大栗裕の仏教への関心が刻印されています。

一方、「弦楽のための二章」と「バラード」、弦楽合奏が主体の後半2曲は、1960年代、辻久子や海野義雄のためのヴァイオリン作品を書くなど、大栗裕が弦楽器と正面から取り組むようになった成果と位置づけることができそうです。(楽譜の所在が不明なのですが、60年代に、大栗裕は弦楽四重奏曲も書いています。まさにバルトークそっくりな曲です。)

また、この2曲では、弦楽合奏のピチカートがマンドリン・オーケストラに似た効果を上げていることも注目点だと、私は思っています。

大栗裕は1958年から関西学院大学マンドリン・クラブの技術顧問をやっていて、クラシック曲の編曲を通してマンドリンの奏法・効果を学び、1961年の音楽物語「マーヤーの結婚」を皮切りにして、マンドリン・オーケストラのための音楽物語を毎年のように作曲しています。

そして1967年、つまり「バラード」を書いた年、弦楽器のための作品の経験がかなり蓄積された段階で、いわば満を持して「マンドリン・オーケストラのためのシンフォニエッタ第1番」を作曲しています。(関学マンドリン・クラブ創立50周年記念作品。)

語りや歌をともなわない、純然たるマンドリン・オーケストラ曲はこれが最初で、以後、シンフォニエッタは第7番まで続くことになります。

つまり、1960年代の弦楽合奏への取り組みには、一方でスター奏者やオーケストラといったクラシック系の弦楽器、もう一方でマンドリン・オーケストラという、二つの背景があり、大栗裕の他分野での活動としっかりリンクしていたように思われるのです。

「室内管弦楽」というのは、独立したジャンルとして立てるのがいいのかどうか、位置づけがあいまいなものではありますが、敢えてそういう場所を仮構してみると、大栗裕の領域横断的な活動ぶりが具体的に見えてくる。そんな気がしております。

……いかがでしょうか。結構20世紀音楽っぽいお話だと思うのですが。

(以上、論文がひとつできそうな話ではあるのですが、こういった話をひとつずつ拾っているとキリがなさそうなので、1956年の「小組曲」という作品のことを阪大の論文に書かせていただいたのを機に、関連するアイデアと、そのアイデアを論証するために必要な一連の素材・情報をまとめさせていただきました。

いつも言うことですが、音楽学の学生さんで興味のある人は、どうぞこのネタ、自由に使って、私のような「なんちゃって音楽学」ではない優秀・柔軟な頭脳で、百倍エレガントな成果を上げてくださいませ。

このエントリーで論証に使った材料は、いずれも所定の手続きを経れば閲覧・確認することができます。関西で日本の洋楽史をやっている人であれば、どこに何があるか、先刻ご承知とは思います。)