ご来場の皆様ありがとうございました。

大阪市立中央図書館での講演会、なんとか終了しました。各方面から「行きます」と事前に言って下さる方もあって、ひとまず主催の図書館にご迷惑をおかけすることのない体裁になったようで、ほっとしております。

大栗裕が昭和大阪の最重要の文化的アイコンと言って良いであろう織田作之助の「夫婦善哉」をオペラ化した、という事実は、大栗裕を語る上で避けて通ることができず、同時に、調べれば調べるほど、とうていその文化的な意味合いをハンドリングするのに、わたくしごときは力不足も甚だしいと思えることでありまして、

「私は文学が専門ではなく、しかも、ネイティヴ大阪人ではないから、間違いや認識不足はあったとしても当然」という開き直りと、「音楽の側からアプローチすることで、熱くディープなオダサク論の蓄積に、ひょっとしたら、何か他人様に面白いと思っていただける話題提供ができるかもしれない」という半ば勘違い気味の功名心をないまぜにしつつお話をさせていただきました。

諸々の不備、力不足は私の責任であり、ちょっとでも面白いと思っていただけることがあったとしたら、それはひとえに、オダサクと、「夫婦善哉」のオペラ化に携わった武智鉄二や大栗裕や朝比奈隆が偉かった、ということであると思っております。

会場には、「わたし、OSKにいて、大澤(壽人)先生や花柳有洸さんのご指導を受けたんですよ、懐かしかったです」という方も聴きに来ていらっしゃいました。

大阪のど真ん中でオダサクと大阪についてお話をするのが、よほどの厚顔無恥でなければできないことである、ということを改めて痛感しまして、

冷や汗をかきつつ、

私ごときは、捨て石になればいいのであって、何かが活性化するきっかけになればそれでいい、と思いを新たにした一日でございました。

皆様、どうもありがとうございました。

ひとまず、取り急ぎ。

(もう少し話の内容に関わるまとめは、こちらに書きました。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100829/p1

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以下、レジュメです。個々のトピックはこれまでにもお話したり、ここに書いたりしたことのあるものが多いですが、お客さんを前にして御披露させていただくことで、さらっと流しても大丈夫な部分、面白いといただけそうな部分といった仕分けの手掛かりを得られたことが、私にとって大変勉強になりました。

それから、今回は大阪のいわゆるミナミの音楽事情を主に話題にしたにもかかわらず、キタ〜阪神間の戦前(貴志康一や大澤壽人)の話から説き起こしました。2時間でやるには、ちょっと内容が多すぎたのですが、でも、そういう形にしたことでみえてきたこともあったように思います。

戦前の関西では、オーケストラを作ろうとする動きがいくつかあったにもかかわらずどれも長続きせず、一方、戦後の朝比奈隆の関西交響楽団(大フィル)は現在まで存続しています。朝比奈隆の経営者的というか人脈的な力の賜物という風に説明されてきましたが、もうひとつ、想定する聴衆層が戦前よりも格段に広がったことが大きかったのではないか。一番大きいのは労音だと思いますが、松竹の映画館で定期演奏会を開いたり、オペラに歌舞伎の武智鉄二や宝塚の演出家を招いたりして、箏の桐絃社(大阪の宮城一門)の活動に協力したりしたことが、オーケストラを支えるすそ野を広げることにもなったのではないか。そんなことを思いました。

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「夫婦善哉」がオペラになった!? - 大栗裕と大阪の洋楽史

  • 昭和15年(1940年)織田作之助(1913-1947)が小説『夫婦善哉』を発表
  • 昭和30年(1955年)映画「夫婦善哉」(監督:豊田四郎、出演:森繁久彌、淡島千景ほか)
  • 昭和32年(1957年)歌劇「夫婦善哉」初演(台本:中沢昭二、作曲:大栗裕、指揮:朝比奈隆、演出:武智鉄二、大阪・産経会館)
  • 「夫婦善哉」のオペラ化は、映画のヒットへの便乗(のひとつ)だったのか、それとも、関西の洋楽関係者に、このプロジェクトに取り組む理由/必然性があったのか?
  • 大阪の洋楽(クラシック音楽)の展開を、キタ/阪神間中心に語るだけでいいのか。織田作之助を生んだミナミは、音楽文化的にどのような場所だったのか?

1. 関西の洋楽史:阪神間(キタ)の山の手文化と、ミナミの音楽隊・ジャズ・レビュー

(1) 東京以上に国際的?:阪神間山の手のブルジョワ音楽文化

  • 東京:明治11年(1879年)学校唱歌制定 → 明治22年(1890年)東京音楽学校 → 滝廉太郎(1879-1903)、山田耕筰(1886-1965)などドイツ仕込みの作曲家の誕生
  • 関西:大阪・神戸間の私鉄開通・郊外住宅の成立(=谷崎潤一郎『細雪』の世界)/神戸居留地の開放(1899年)と芦屋の深江文化村/新聞社の文化事業(朝日会館) → 貴志康一(1909-1937)と大澤壽人(1906-1953)による現地最新音楽の直輸入

(2) 天王寺音楽堂と「道頓堀ジャズ」

  • 軍楽隊の活躍/大正期の少年音楽隊ブーム(三越、松坂屋、出雲屋など) → 服部良一(1907-1993)の和製ジャズ

(3)上昇志向:ミナミに生まれて、キタに憧れた人々

  • 織田作之助(1913-1947)と辻久子(1926-)、織田作之助の短編「道なき道」(1945)
  • 大栗裕(1918-1982):船場の小間物問屋の長男、天王寺商業学校の吹奏楽からオーケストラのホルン奏者(現・東京フィル、N響、大阪フィル)を経て作曲家へ

[関連事項]

  • 昭和23年(1948年) 朝比奈隆が関西交響楽団(現・大阪フィル)設立
  • 昭和24年(1949年) 朝比奈を劇団長に関西オペラ・グループ(現・関西歌劇団)設立
  • (この頃、武智鉄二が扇雀(現・坂田藤十郎)、鶴之助(現・中村富十郎)、市川雷蔵らの若手を起用した歌舞伎公演で注目を集める=「武智歌舞伎」)
  • 昭和28年(1953年) 朝比奈隆の欧米視察
  • 昭和29年(1954年) 関西歌劇団のプッチーニ「お調婦人」公演を武智鉄二が演出
  • 昭和30年(1955年) 歌劇「赤い陣羽織」(原作:木下順二)で大栗裕が作曲家デビュー
  • 昭和31年(1956年) 朝比奈隆がベルリン・フィルを指揮、大栗裕作曲「大阪俗謡による幻想曲」などを演奏


2. 歌劇「夫婦善哉」の特徴

(1) 大阪言葉によるオペラ

戦前の作曲家による大阪の歌:歌詞は関西風だが、メロディーは西洋風(標準語風) 貴志康一作詞・作曲「かごかき」(1935年)(♪天満の天神 天王寺 御霊に住吉 大阪城)

戦後の大阪弁への関心の高まり

  • 服部良一作曲「買物ブギ」(1950年、唄:笠置シヅ子 ← 大阪松竹歌劇団出身)(♪わて ほんまに よういわんわ)
  • 映画「夫婦善哉」(1955年)より ヤトナ置屋の女将、おきんの台詞(浪花千栄子) → 花登筺(1928-1983)脚本のド根性ドラマへ

武智鉄二の上方ことば(船場言葉)論

  • 公式見解:上方ことばは、かつて全国の共通語であり、芸能・演劇の基礎でもあった! 映画「紅閨夢」(1964年、監督:武智鉄二)の独特の台詞回し
  • 私的心情:幼少期に耳なじんだ大阪商家の「内輪(うちわ)言葉」への郷愁 入江ゆきへのインタビュー 「おんごく」について

(2) 大阪の街場の声

  • 義太夫節「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」(1772年)より 酒屋の段 *時間の関係で詳細は省略

*大阪言葉を忠実に写し取るオペラの展開に、街の歌を挿入することで、音楽的な聞き所を補填する試み。

まとめ

大阪の音楽文化の3つの柱:

  • 街場のにぎわい(気取りのないコミュニケーション)
  • 新しいものへの好奇心(モダニズム、先取の気風)
  • 芸能・伝統の歴史の厚味