「一般には××と思われているけれども実は○○」という論法は自粛可能か?

[10/26 真ん中あたりに、渡辺裕はヤコベッティの出来損ないか?という話、最後に追記として、東京は均質か?という話を付け加えています。]

吉田寛さんとやり取りがあったので、ついでにその指導教官(皆様がよくお使いになる言い方では「師匠」でしょうか)だった渡辺裕先生の最近のお仕事について。

歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ (中公新書)

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考える耳【再論】 音楽は社会を映す

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20年前に「かつてマーラーは○○だと思われていたものだが最近は……」という『聴衆の誕生』の書き出しを読んで以来、この論法はどうなのだろうと、ずっと気になり続けているのです。

(マーラーがかつてはクラシック音楽に精通した者だけに理解できる交響曲の奥の院だったとする典拠が、本当にあるのでしょうか?)

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渡辺先生は、将来有望だけれども論じ方のアングルが定まっていない話題・領域に、軽率なマニアのフリをして(半分かそれ以上は本当にマニアでいらっしゃるので)ひょいと手を出されるのがお得意なわけですが、その最初の一歩は、ほぼ必ずこの論法なのですよね。

でも実際には、「一般に××と思われているが」と言いうる世論・定説など形成されていないような表象空間の隅っこの薄暗がりの話題・領域を好まれる(もしくは、それまで薄暗がりであった場所に光を当ててパチリと記念写真を撮ることを好まれる)ことが多い気がします。少なくとも私は、読んでいて、「いやいや、そんな話いままで聞いたことないし……」と入口のところで引っかかることが多いです。(というより、その種の引っかかりなしに読める渡辺本は、今まで一冊もないんじゃないでしょうか?)

実害もあって、あとに続いた者は、実は渡辺先生がややいいかげんなとっかかりとしてそう書いているに過ぎない「××と思われている」の部分を、事実なのかどうなのか、いちいちまず再検証しなければ先へ進めなくなってしまう。(そしてしばしば、そこに色々微妙な問題が見つかって、そもそもの立論が危ういことがのちに判明したりするのだけれど、その頃には、とっくにご本尊の渡辺先生は他のことをやりはじめていたりする。)

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このレトリックは、もともと、論文というよりジャーナリズムに向く性質のものなのだと思います。(「△△問題で××との声が高まっている。しかし……」とか、「あの清純派アイドル××は、本誌取材によると実は……」とか。)

「一般には××と言われているが」という前振りは大所高所から物事を考えているフリをするのに便利な論法です。そこで語られようとする話題が既にある程度周知され決してニッチ・マニアックな事柄ではなく、読者とともに考えるに値するものである、という読者との共犯関係を一気に取り結ぶことが可能になります。「書き手」と「読者」は、「××」という一般論を共有する「われわれ」になるわけです。しかもそのあとで「実は○○」とひっくり返すと、それに続く主張がいかにも目新しかったり、当該話者の卓見であるかのように見せることができます。また、しかも、もし前振り部分に事実誤認があったとしても、そこは書き手の主張本体ではないので、多少いいかげんであったとしても著者自身は傷つかない。とってもお手軽・便利でお薦め(?)のレトリックです。

で、渡辺先生のお書きになる文章では、「実は○○」以下に関して、「とはいえこうもの言えるので判断は慎重であるべきだが」等々のエクスキューズがたくさん並んで、いちおう話が煮詰められていくのに対して、「一般に××」のほうについては、最初のツカミで一回書かれてしまうだけで、そのあとは一切ケアされないところに特徴があるように思います。言いっぱなしで、しかも「本当にそうか?」という場合があり、安直。言った者勝ち度が異常に高い。どうしてそういうのが許されるのか、周囲が甘いのか何なのか、よくわからないところなのですけれども……。

(内田樹氏も似た論法を使いはするけれど、「××と言われている(よく知らないけど)」みたいに逃げを打ち予防線を張るところが少し違う。逃げられるように保険がかけてあることが多いようです。渡辺先生のほうがそのあたりは無防備。あくまで想像ですが、渡辺先生は前から順番に一気に書いて推敲をされない方なのではないでしょうか。うしろに色々言い訳をつけることでどうにかしようとする癖があり、言い訳術に習熟してしまって、最初の書き出しから考え直す余裕がない構造の文章であるように見えます。)

でも、事実と違うことを「一般には××と言われている」と書かれてしまった側は、反論の標的がどこにもなくて困るんじゃないでしょうか。泣き寝入り?「書かれ損」? その種の悲劇を生みやすい危険なレトリックだと私は思っています。(この論法は、相手が言い返してこない、社会的立場のあるおじさんの特権なのでしょうか?)

サバルタンとかの議論がありますが、このレトリックはそういう表象困難な「水子」の発生源になりやすい。たとえば

一般に××人は頭が悪いと言われているけれども、実は違う。彼らは極めて優秀な人種である。

という文を仮に作ってみれば、事情がはっきりするのではないでしょうか。

「実は違う」というのが著者の主張なので、この文章の書き手は差別主義者「ではない」ということにひとまずなります。でも、それじゃあなぜ、この書き手は「一般に××人は頭が悪いと言われている」とわざわざ書くのか? そもそも「一般に」って、どこの誰なのか、という話です。あなたが立派な見識の持ち主なのはわかったけれども、その認識を流通させるためには、あなたの立派さを読者に喧伝するのと同じくらい、そのどこかの誰かとの具体的な議論・折衝が重要ではないのか?

そしてその個々の誰それとの折衝が通常一番大変なところで、「実は○○なのである」と見栄を切られても、本が売れて書き手の評判が高まるだけで、事態は全然変わらなかったりする(かもしれない)。

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あるいは、自分自身が渡辺流前振りの部分に代入されてしまう場合を想像してみるといいかもしれません。

「我々は、渡辺裕が××であるなどとうっかり思ってしまいがちだが、そのような物の見方は、人間の容姿に関する現代の思いこみ、あるいは現代の家族観・結婚観に慣らされてしまっている結果であって……」

という風に書き出して、以下数多くの実例を挙げながら、能力主義がいかに近代の国家統合、「国民」の形成に役だったか、非モテ系にとって能力主義がどれほどの希望を与えたか、ということを論じ、涙なしには読めない新装版・立身出世物語の『もてない国民』という本を作っていいわけですよね。

もちろんその場合の書物の構成は体系的なものではなく、職業上の能力以外の面において「一般には普通でないと思われている」特徴を備えた人々を狙い撃ちで選んで並べる方針にして、最後にこういうあとがきをつける。

「私は何の本を書いたのでしょう。[以下、白石加筆]ここに挙げた人々は、奇人変人、社会不適応、引きこもりなどと見えますが、これらの人々を[以上、白石加筆]取り巻く様々な社会的なコンテクストを探っているうちに、一見無関係にみえていたようなもの同士がいろいろつながりあってきたりして、いつの間にか、[……]時代や文化の全体的なあり方や成り立ちを考えている自分に気づかされることになります。」(179-181頁を一部改変)

真面目なトーンのナレーションをつければ、世界残酷物語の見世物興行を堂々とした業績に仕立てることができる。カラクリは、いわゆるモンド映画とほぼ同じです。

「変」なものを「変」として片づけてしまうのではなく、こういうものが「変」でない形で機能していたような時代や文化はどんなものだったのか、どういう前提、どういうロジックでものが考えられていたのか、ということを問うべきなのです。(280頁)

という書き方をすると良識ある態度のようですけれども、つまり、「ヘンなの、ケケケッ」と面白がるトリガーがないと思考が動き出さないということですよね。

ただし、堂々と見世物としてやり、「下品」と石を投げつけられるリスクを引き受けるモンド映画とは違って、渡辺先生は、攻守交替することがない安全地帯にいて、眺められる側に回る気はなさそうです。(著者自身がそういう立場なのか、無意識のうちにそのような「(やや平和ボケ風の)読者」を想定してしまっているからああいう書き方になるのか、はっきりしませんが。)礼儀や社交性で守られた繭のなかでモンド映画ごっこに興じることができるのは、わたしには「東大」の肩書きあってこそなのだろうと思えるのですが、違うのでしょうか。

(しかも、モンド映画は「低俗!」と作り手が石を投げつけられることでオチがつくわけですけれど、渡辺本は、そもそも、著者が「ネタ」と呼ぶほどには扱っている素材が笑いを誘発しないし、長々と逃げ口上があって、「ばっかじゃないの」と作り手に石を投げるカタルシスを味あわせてくれるわけでもない。

逆に渡辺先生の苦しい逃げ口上部分は、妙に感心されて、さすが大学の先生と思われているフシもあるらしく、入試問題に使われることもあると聞きますから、モンド物として出来損ないであるものを「研究/啓蒙書」として流通させる商売が成立しているのですね。

渡辺裕本人が「変な感じ」の向こう側に「社会的コンテクスト」を構築しているわけで……、やはり彼は、読み解く側より、読み解かれる側に置かれてしかるべき存在ではないでしょうか。)

周りはみんな慣れっこになって、また言ってる、というようなものなのかもしれないですが……、先生もいいお歳なのだから、そろそろ、このレトリック(善意の顔をした暴力がその正体だと私は思う)を潤滑油にするのを自粛なさっては。せっかく毎日新聞の「考える耳」で、安直なレトリックによる字数浪費が不可能な修行をなさったのだから……と思うのですが、これもまた、「知り合い」を僭称する元阪大生のなれなれしすぎる誹謗中傷と判定されてしまうのでしょうか。恥の上塗り。

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それから、『歌う国民』は、声を合わせて歌うことによって「われわれ」があっちこっちで生成してます、いいですねえ、というお話ですが、どうなのでしょう。ここで紹介されている事例の近傍には、むしろ、安易に「われわれ」が生成し得ない領域がみつかりそうな気がするのですが……。そのような関係性は、渡辺流では原理的に「書けない」のではないでしょうか?

あと、『歌う国民』には、團伊玖磨と芥川也寸志が、陸軍戸山にいたから軍国主義協力者だというような論法が数度出てくるのですが、東京音楽学校が優秀な学生を兵隊に取られないためにそうした、という当事者の説明は、問答無用に無視、で大丈夫なのでしょうか? あまりに判定が単純すぎて、東京音楽学校=軍国主義という安易なネガティヴ・キャンペーンになってしまっている気がするのですが……。そして読み返してみると、他にも、たぶん調べずに書いていると思われる箇所で現象との歴史的な距離感を保とうとしているとは思えない俗っぽい推論や解釈が散見されるのですが、いいのでしょうか。

P. S.
そういえば吉田さんから、「均質性の高い関東に暮らしてきた人間から見ると関西は……」と美学会のときに言われましたが、たとえば私は、ちょっと待ってくれ、本当に関東は均質性が高いのか?とか思ってしまうわけです。ひょっとすると、「ボクはモダンで均質な時空に封じ込められている」と思いこんでしまった退屈が「奇人・渡辺裕」を生み出したのかもしれませんけれども(「裕さん」は大切に育てられた一人っ子、いわば「箱入り息子」であるようですし)、でも、私の乏しい知識だけでも、現実の東京が均質な都市だとは到底思えないのですが……。

紋切り型のデータベースみたいな「一般性」のなかに安閑として暮らしつつ、時々「実は○○」を発見する程度には知性を有している「われわれ」という思考様式、それくらいの緩い感じで大丈夫というのが、渡辺裕グループの共通認識だったりするのでしょうか? だとしたらそれは、おつきあいするのが相当に面倒くさいイデオロギー集団のような気がするのですけれども。

(オタクに象徴される文化を、精神分析の言葉を借りて鏡像関係に入らない幼児化と説明することがあるようで、その当否はよくわかりませんけれども、たしかに、頭の回転が速そうなのだけれどもコミュニケーションの手掛かりが見つからない一方的な物言いでヌメッと迫られると、鏡を取り出してその姿をご本人に見せてあげたい、と思う瞬間はありますね。もって他山の石とすべきことで、一方的な言いっぱなしは良くないとは思いますが。

そしてその種の文化に取り組んでおられる方々のなかでも、「東大分派」にとっては、とりわけ「身内」と「ソト」との峻別が重要なようで、「学問」と「趣味」を最高学府の肩書き背負って塩梅するのは、まして美とか感性という議論の生き残りがかかっていたりする領域では、人事の絡みもありますし、ちょっとでも異物が入るとバランスを崩して墜落してしまうアクロバットなのだろうなあ、ご苦労様です、と思ってしまいます。

なお、吉田さんの「師匠」であるところの渡辺先生も、本文中にいくつか先行・関連研究を実名入りで紹介しますが、それは、どうやら自分の教え子の場合に限られているようです。「身内」ではない者の業績は、すべて巻末の参考文献に回されている。そして注意深く読んでみますと、たとえば「ナンバ」論は、武智鉄二が言い出したというのが定説化していますが、おそらくそんな怪しげな人間と関係したくないのでしょう。武智鉄二という名前は本書には一切出てきません。つまり、

  • 「身内」の業績 → 本文中に名前を出す
  • その他の無視できない業績 → 巻末参考文献へ
  • つきあいたくない人物 → 名前を伏せる

という風になっています。引用の作法が、議論を遂行する学問上・理論上の必然・重要度ではなく、書き手とのドメスティックな「近さ/遠さ」を反映しているようです(弟子を応援する素朴な意図があるのかもしれませんが、40歳過ぎた研究者を「若手」と形容したりするのは、杜撰というかお目出度い感じが丸見えです)。独立行政法人の教授が、こういう公私混同を公然とやるのだなあ、ということで(もしくは、やっぱり彼も日本の大学人、「一般に日本の大学は閉鎖的と思われがちだが、実は!……いや、やっぱりそこは閉じた場所なのである」ということで)、「渡辺」グループ総帥のテクストを読むと、グループ内の序列がわかる仕組みになっています。配下の者へ将軍様から開陳される「勤務評定」なので、帰依する者は熟読して一喜一憂するように(笑)。「コミュニティ」づくり(というより、こんなくだらない序列はツリー状の組織形成、「小国家」のごっこ遊びだと思うがそういえば吉田秀和もこの種の「勤務評定」が好きですよね)の要諦がここにあります。)

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渡辺裕が1989年に『聴衆の誕生』を刊行した直後にバブルは見事にはじけました。

90年代の大阪時代は、院生たちに囲まれて、さながら時間が止まってダラダラした日々が永遠に続くかのようでした。まさしく「失われた十年」(笑)。(当時の院生がいまだに彼のなかで「若手」と認知されているのは、ひょっとすると、時間の感覚が失調した時代に出会った人々だからなのかもしれませんね。)

いわゆるゼロ年代の音楽学では、世間の流行に遅れて、ようやくカルスタで手軽に論文をまとめる術が普及して、堅実で内容豊かな修士論文を書いていた人が、渡辺裕の所属する日本音楽学会の機関誌に「伝統の創出」方式のアウトプットを投稿してしまうというショッキングな出来事もありました。

機は熟した。

「渡辺裕が乗り出すとブームが終わる」という『聴衆の誕生』の例を反復して、あっちこっちに音楽の伝統が創出されたり、想像の音楽共同体が形成されるヴァーチャルな「近代」論ゲームが2010年10月をもって終息してくれるのだとしたら(誰もがヤコベッティを好きなわけではないのだし、今の若い人はヤコベッティとか川口浩(あ、同じヒロシだ)の水曜スペシャルとか知らないでしょう)、『歌う国民』という書物にも存在意義が出てくるのでしょうか。

渡辺裕が衆生の原罪をすべて背負った空の星になって、音楽学の21世紀の夜が明ける日は近い(のか?)。

(おわり)