ジャンル「内」の闘争なのか、ジャンル「間」の闘争なのか?(『思想』12月号、シューマン生誕200年特集)

「歴史の空白とジャンルの闘争」は「論文」だそうなので、裏読みはやめて、気づいたことの箇条書き。

ダールハウスのジャンル論を思想史の文脈に位置づける前段は、ルカーチを知らなかったので勉強になりました。(ワーグナー本でもダールハウスの扱いの手際が見事だったように思いますし、吉田さん、まとまった「ダールハウス論」を書いたらいいのに。)

でも、結論から言って、おそらくこの「論文」は査読があれば通らないだろうし、もし通ったら、その学会は、ソーカルの反省を踏まえていないダメな学会だと私には思えます。

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「ベートーヴェン以後」の文脈でシューマンの交響曲を見たときに、春の交響曲(第1番)がベートーヴェン回避、ニ短調交響曲(第4番)がベートーヴェンとの正面対決、と対比するのは、(おそらく、曲のサウンドの印象が論考の出発点になっていて、そこに適宜「言説」をくっつけるだけの処理しかしておらず、作品の構造を読もうとしないからこうなるのかもしれませんが)図式的単純化が過ぎるのではないでしょうか。たぶんこれは、作品論として成り立たないです。で、ここが崩れると論文全体が崩壊する。

([追記]論文全体が崩壊する、は言い過ぎか、とあとで反省しましたが、でも、シューマンが書いたことをもとに言説による「歴史の構築」は跡づけることができるかもしれないけれど、実践=作曲による「歴史への介入」は、この論文では、その部分をボンズの引き写し・ボンズに丸投げで終わっていてそれ以上の吟味がなされていない。著者が「論証した」と主張することの半分は、実は十分な検討がなされないままになっているのではないでしょうか。[追記おわり]

ボンズの論文を鵜呑みにして、自分で作品を吟味しないから、話が上滑りしてしまっているということなのではないでしょうか。(というか、ボンズにのっかることにしておいて逃げ道を作るのは、ちょっとズルいと思う。)

一般論として、「ベートーヴェン以後」の意識が19世紀のドイツの音楽家・音楽論にあったようだ、ということはボンズに限らず色々な人が色々ややり方で指摘しようとしていますが、具体的に、何をどのように「論証」すればいいのか、一筋縄ではいかないテーマだと思いますし、シューマンの交響曲という各論に落とし込もうとすると、かなり大変なんじゃないでしょうか。

サウンドの印象でいっても、なるほどニ短調は「第九」の調で、同じ土俵に乗ろうとしたのかもしれませんし、最後に盛り上がって血湧き肉躍るから「運命」だ、ということかもしれないけれど(動機の綿密な発展もしくは偏執的な反復が第4番だけの特徴ではないだろうと思われる点は第1番との関連で後述)、曲を支配するトーンは、冒頭の序奏も、オーボエとチェロのひなびた歌も、いかにも廃墟のロマン主義、シューマンが歌曲や「ライン交響曲」で書いたような“古城もの”っぽいのではないでしょうか。「第五」の救済オペラ風の“災厄の恐怖から大団円の歓喜へ”には似ていない。ナポレオン戦争期のトーン=「事件の真っ最中」というより、戦後「祭りのあと」の懐古調。

ドイツ1830年代の音楽言説にみる「「空白」からの再生」への欲求の現実的対応物を探す、という作業は、ジャンル内闘争としての作曲史というより、ベートーヴェンとの音楽のモードの違いから語り起こして、そのような観念が発生するに至る周辺事象を、盟友メンデルスゾーンの廃墟趣味の金字塔「スコットランド交響曲」(星野宏美さんが詳細に論じた)などを視野に収めつつ探索したほうが上手くいく「文化史」の案件ではないでしょうか。

そういえば、「スコットランド交響曲」が若き日の“グランド・ツアー”で得た最初の着想から完成までに10年以上を要したように、ニ短調交響曲も初稿から出版までに時間がかかり、決定稿の作成・出版は「スコットランド交響曲」よりあと&メンデルスゾーンの死後なわけですし、初稿を論じるのではなく決定稿をもとにこの作品を語るのであれば、着想から完成に至る時間の経過を問題にすべきでしょう。

言説と音楽、ベートーヴェンとの関係が、シューマンの場合、それほどすっぱり割り切れるとは思えないのですが。)

グランドツアー――18世紀イタリアへの旅 (岩波新書)

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(1) 第1番冒頭楽章が、導入部でモットーを(ユニゾンで)示し、速い主部で同じ動機を執拗に展開するのは、聞こえた印象の違いを捨象して、構想のアウトラインだけを抽出すると、ベートーヴェンの第5番と同型だと見ることができはしないか。(ダールハウスが「19世紀の音楽」でそんなことを書いていたような記憶があるのですが、違いましたっけ?)ひとつの動機への集中、という構想が、「一度目は悲劇(ベートーヴェンの「運命」)として、二度目は笑劇(シューマンの「春」)として反復される」とかなんとか言いくるめれば、フモールとかイロニーの話につながるのでは?

(ベートーヴェンの「第五」の、途方もない事件が起きて(ジャジャジャジャ〜ン)、それからこうなってああなった、という事件の現場に聴衆を巻き込むレトリックを、シューマンは、「野山に春がきた!」、そしてこうなった、という出来事とその余波の音楽化に転用した。作品の「制作理念」(poetische Idee)とレトリックの問題として考えた場合には、シューマンで一番「第五」に近いのは、春の交響曲だと主張することすらできるのではないかと思います。

一方、ニ短調交響曲は、冒頭で事件が起きて、それからああなってこうなって、という構成の音楽になっていない。

「ドワ〜ン」と冒頭に広い音域のオクターヴ(まだ和音としてプロファイルされていない音響)を設定して、次第にイメージの輪郭が鮮明になってくる、という書き出しは、(はるか遠くに「第九」冒頭の空虚五度を眺めているかもしれないけれども)シューマンにより近しいところでは、ウェーバー「魔弾の射手」序曲冒頭の最弱音から膨れあがるC音とか、シューベルトのハ短調のImpromptuの冒頭の4オクターヴにわたるG音など、ロマン派特有の「世界のロマン化」と呼ばれたりする手法ではないでしょうか。

この手法が、ずっと時代が下って、マーラーの交響曲第1番の冒頭、アドルノがマーラー論の序論で言及した「自然音」としてのA音のフラジオレットへつながっていくのだから、むしろニ短調交響曲は「ロマンティックな」世界へ聴き手を誘い入れているかもしれない。

19世紀初頭ドイツの音楽ジャーナリズムでは、ベートーヴェンは「現代/ロマン主義時代のヒーロー」ですし、「第五」は「無限の憧憬」だ、というE. T. A. ホフマンのフィルタを通して眺めると、ニ短調交響曲はいかにもホフマン的ベートーヴェン像を作曲によって追認しているかのように見える、というような解釈をどこかで読んだような記憶がありますが、吉田論文は、そういう音楽のロマン主義論の文脈に沿って書かれているわけでもないのですよね。

この解釈だと、春の交響曲は「第五」のパロディのような事件ではじまってロマンチックなお花畑で終わる曲。ニ短調交響曲は、ロマンチックな廃墟趣味ではじまって「第五」風のアポテオーゼで終わる曲ということになって、同じ年に着想された2つの交響曲は一対であり、「第五」的なものを半分ずつ使っている、ということになってしまいそうです。で、この解釈は、シューマンとその時代に密着した材料だけで論証できてしまいます。

ブルームを落下傘部隊のようにシューマン論に投下することを目指しつつ、ボンズに依拠して第1と第4を色分けする理路は、何によって正当化されるのでしょうか?

さらに言えば、同じ1841年に、シューマンは古典派もしくは前古典派風三楽章交響曲をロマン主義化したような「序奏、スケルツォとフィナーレ」を書いており、「交響的幻想曲」(管弦楽のための幻想曲)と平行して、ピアノと管弦楽のための幻想曲(のちに2つの楽章を加えてピアノ協奏曲になる)も書いています。個人の作曲史という観点から考えると、「交響曲的なもの」というアイデアの数種類のヴァリアントを一挙に試しているようにも見えます。

吉田さんはボンズを信じて大丈夫と思われたようですが、「交響曲の年」は、第1番→第4番……と一作書くごとに「作者」の心理が変化しており、一連の作品は、別の心理を刻印したシリアルな仕事と見るべきなのか、あるいは、「交響曲的なもの」というイデーの視界が一挙に開けて、それを「とりあえず」今あるような順番に書き下ろしていったに過ぎないのか。それはもはや、かなり広汎に傍証を集めないとどちらの説を採るのが妥当か決められないし、何の吟味もせずに、これが「シリアルな仕事」だと決めてかかるのは学問的に認めがたいと思います。

(私には、特定のジャンルに集中するシューマンの創作態度は、一曲ごとに一歩ずつ展開を切り開くシリアルなやり方では追いつかなくて、複数の可能性があるとき一挙に閃くタイプのように思えます。(いわゆる「化ける」瞬間があるタイプということです。)のちのヴォルフなどもおそらくそんなタイプだったのではないでしょうか。そしてそのようなタイプの芸術家において「影響の不安」を考察するときは、シリアルに道を切り開くタイプの人とは違って、一曲ごとに見るのではなく、一挙に作られた作品群全体を問題にすべきではないかと思います。)

ともあれ、「影響の不安」というような心理的解釈を適応するとしたら、そこには「創作主体」が仮説的に想定されているはずですよね。大前提として、本当に書いてることと作曲してるものが対応しているのか、という吟味が要りますし、作曲されたものから「創作主体としてのシューマン」という仮説的イメージを想定するなら、せめて、彼の創作における「交響曲の年」の意味をその前後を踏まえて整理・把握する程度に材料を集めておくべきではないか。たったひとつの作品だけ取り上げて、そこから「作者」の心理を仮説的に類推するというのは、ほとんど心霊術であって、学問としては精度が低すぎる。「影響の不安」を云々するターゲットにはなり難いのではないでしょうか。)

(2) ダールハウスは、「19世紀の音楽ジャンル」という長い論文(ダールハウスの音楽ジャンル論は、あとで書かれた辞書項目だけでなく、やっぱりこっちを見ておくべきでは?ドイツの音楽学学生の間では、ブロックハウスやムジークアトラスだけ読んでレポートを書くのは恥ずかしい安直な行為と嘆かれていましたよ(笑))で、ジャンルを静的でタコツボ的に閉じたものとはみないで、ジャンル間の下克上(「新しい」ジャンルが、実は従来周縁的だったジャンルの中心ジャンルへの昇格である事例)にも言及していたはずだし、あと、19世紀の音楽ジャンルの特性として、ジャンルの領界侵犯を指摘していたと記憶します。

ダールハウスのジャンル論は、他のジャンルのことを見ないで特定ジャンルを論じるための言い訳には使えない。むしろ、様々な要因が錯綜して相互干渉する場として、音楽諸ジャンルの関係構造を見るべきだ、というのが彼のジャンル論だったはずです。(彼の論法は、美学も作曲家論も、全部そういう「力の場」論(アドルノ)を密輸入したような関係構造論になっていて、そこが面白くもあり、いくつか読むと金太郎飴のようにパターンが読めてしまうところでもある。大状況を主体的に動かし得ない閉塞感のあった戦後西ドイツの「時代の子」としての限界でしょうか。個々の指摘が啓発的なので、読み直す価値はあると思いますが、思考を手軽に引用可能なモジュールに分割しない方式で書かれているので、取り扱いが面倒ではありますけれども。)

具体的にはシューマンの1941年の交響曲とピアノ音楽との関係に一切言及がないことが気になるのですが、

ひとまず、大きな見取り図の問題として、鍵盤楽器の伝統を流用したと思われる(この点は後述)シューマンの管弦楽幻想曲と、演奏会用序曲から派生したリストの交響詩は別系統ではないでしょうか。前者は、シューベルト系統の教養市民ディレッタントの家庭音楽風ロマン主義の管弦楽化であり(この系統は19世紀後半の管弦楽伴奏歌曲の隆盛や、世紀末のマーラーのリート付き交響曲へつながっていく)、後者は、ウェーバーが先鞭をつけた舞台音楽におけるイリュージョンとしてのロマン主義をベルリオーズ経由で演奏会音楽にもちこんだもの。

ダールハウスが「19世紀の音楽」のピアノ協奏曲の章(だったと思う)でシューマンとリストを対比して、シューマンのピアノ協奏曲は特異な、ジャンル伝統から浮き上がった作品だと彼が言うのは、明示的ではないですが、こうした違いを指していると私には思われます。

(3) 以下、各論。

第1番「春」のweiterdichten(nachdichtenでしたっけ?)という態度が、シューベルトの「大ハ長調交響曲」をいわば呼び水にして、鍵盤音楽の性格小品集という独身時代のシューマンの得意分野の手法を管弦楽にもちこんでいる(要するに、シューマンの交響曲は、まるでピアノ曲みたいだ)というのは、通俗的な解説でも指摘されることですが(あとAkio Mayedaのぶ厚いHabilitation論文はひたすらそのことだけを書いていたはず)、

第4番の「Symphonische Fantasie」という構想も、もともと鍵盤音楽のジャンルもしくは演奏慣習としての「幻想曲(ファンタジア)」(即興の理念を抱え込むジャンルで独奏が基本であり、「聴き手の心を揺さぶるには奏者が自らの心を揺さぶらねばならない」というスタニスラフスキーの憑依系演技術を先取りするような多感様式のC. P. E. バッハ以来「私的告白」の含意が付け加わった)をオーケストラ/交響楽という合奏による記譜されたパブリックな音楽に導入する境界侵犯と見ることはできないでしょうか。

(つまり「シンフォニックなファンタジア」は、デキシーランド・スタイルの黒人コミュニティの集団即興を、ポール・ホワイトマンが極上のアレンジを施した「真っ白な」シンフォニック・ジャズに昇格させるような飛躍的発想だったのではないか、ということです。)

鍵盤音楽には、少なくともシューベルトのハ長調の幻想曲(「さすらい人」)という直近の先例があり、シューマンも同じハ長調の幻想曲(op.17)を書いている。

シューマンの鍵盤音楽の幻想曲(op.17)の冒頭楽章の形式:提示部→(リート風主題の自由な変奏)→展開部→再現部を、管弦楽の「単一多楽章形式」(変な言葉ですがとりあえず)へと増幅したのが交響曲第4番:提示部→展開部→(中間楽章)→再現部と見ることができそうだし、シューベルトの幻想曲は、提示部→展開部→(さすらい人の主題による変奏曲)→スケルツォ(提示部の変奏でもある)→フーガ風終曲、ですから、「単一多楽章形式」の先例であるとも言えそうです。(シューマンが「幻想曲」の語を使うとき、こうした鍵盤音楽での試みを意識していた可能性が高いのではないか。論証は面倒かもしれませんが。)

そしてこういう事情を勘案すると、第1番=ベートーヴェン回避、第4番=ベートーヴェンとの対決、という図式化は、底の浅い印象論に見えてしまいます。

さしあたり、ボンズがそう言ったというなら、ボンズに当たらないといけないことだとは思いますが、ボンズをこれでいいと信じた著者は、「善意の第三者」で免責なのでしょうか? 言説史ってそういう便利なルールで行われるゲームなのでしょうか?

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ドイツの音楽学は国文学化していて、ベートーヴェンやシューマンを論じるのは、夏目漱石論とか、太宰治論みたいなものなので、学生の課題レポート以上のものを短期間に書ける状態ではなくなっているようですが、その「国文学の暗黒大陸」に分け入る作業をすっ飛ばして、特定の論者の本に音楽学的視点を代表させてしまうと、「論文」というより「評論」になってしまう。少なくともシューマン論という各論でいくとしたら、地道に「国文学としての音楽学」の先行研究に目を通しておかないと仕方がないし、少しでも調べていたら、シューマンの交響曲とピアノ音楽の関係という論点が浮上せざるを得ないはずです。(とりあえず、ダールハウスに言及しておきながら、ダールハウスが当該論文のテーマそのものであるシューマンについて書いたものを一切無視するのは妙な話だと思う。あと、「幻想曲」に言及していながら、それじゃあ「幻想曲」とはジャンル論の観点からどのように位置づけられるべき現象なのか、「交響曲」との関係は、といった点にも言及がない。)敢えて取り上げない、というのであればその理路がわかるようになっていないと、モノを知らないシロウトだ、ということになってマズいのではないでしょうか。

[追記:このあたりは全部、作品論一切合切をボンズに丸投げ外注してしまった余波だと思いますが、それは安直すぎるのではないか。

「言説史」は、言説とそこで名指されている対象と、チェックすべき項目が立体的に、ほとんど累乗倍に増加する、非常に面倒で手間のかかる方法論だと思うのですが、どうして、皆さん、このアプローチがお好きなのでしょう? 「言ったこと/書かれたこと」が本当に行動・実践に届いているか、の吟味が甘すぎるのではないでしょうか。音楽学に関していえば、この部分にせっかく長い研究の蓄積があるのに、そこを迂回するための言い訳として「言説史」が機能してしまっているように見えて仕方がないのですけれど。]

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これは好みの問題かもしれませんが、「影響の不安」のジャンル内闘争、という寓話自体が、仮に立証できたとしても、正直、私はあまり関心がもてないのですが……、

他の解釈ももちろんあるでしょうけれど、たとえばシューマンはジャンル「間」の闘争を積極的に仕掛ける人だった、ということにしておくと、ブルジョワ知識人の自由・越境への希求、という話とリンクしてきそうだし、戦後西ドイツのダールハウスあたりは、そういう文脈を暗黙に想定しつつ、「教養としての芸術音楽」の意味づけを現代的に更新しようとしていたのではないでしょうか。

で、今改めて考えると、自由・越境によって得られたものと裏腹に、その代償として失ったものがありそうだし、たとえばシューマンは、本人が生粋の「自由人」であったことによって、結構周囲が苦労していたのではないかと思うのですが、生誕200年で、晩年の狂気の話は皆さん大好きなご様子だけれども、あまりそういう「自由の代償」の話は出ていないようですね。(自由が「病」によって規制される、というのは、天才と狂気は紙一重、という格言の焼き直しみたいな気がするのですけれど。)

たとえば、彼の刊行した雑誌は、資金がどこから出ていて、どれくらい売れて、赤字だったのか黒字だったのか。そこには、どういう人脈・情報ネットワークが稼働していたのか。私はすごく興味があるのですが。今も出版されつづけているNZの現在・過去・未来ならびにシューマンのアート・マネジメント。

[追記:吉田論文のすぐあとに、NZ編集者としてのシューマンの論文があったのですね。見落としていました。すみません。

あと、やっぱりジャンル「間」を越境したファンタジアという話のほうが、他の論考ともリンクしやすそうな気がしますが、しかしそれにしても、他の方々がシューマンはとてつもなく賢い近代人だという前提で(実際そうだったろうと思いますが)、過剰なくらい賢そうな文体で繊細にシューマンを語っていらっしゃって、そのなかに置かれると、ボンズは、吉田さんが要約したような主張をする人なのだとしたら、議論が図式的で頭悪そうな教条主義者に見えてしまいますね(笑)。バカを徹底的に排除すること、ひょっとしたらこれが、シューマン的な精神の自由の最大の罪かもしれない……。だとしたら、ボンズを強引に岩波『思想』にねじこんだ吉田さんは、むしろお手柄なのか?

私は、シューマンほど賢明ではない愚鈍なシューベルトと、シューマンが最終的にはその軽薄さから遠ざかることになるウェーバーがいてくれたら十分で、シューマンに熱意と執着はほとんどないのですが。シューマンを語ることは、シューマンのため、というより、シューマンを語れる私の知性に酔う、みたいな状態に陥りがちな気がするので。フランスのインテリさんも、シューマンだけは嫌いじゃないみたいですし、日本で『音楽と音楽家』を訳したのは吉田秀和、シューマン研究の草分けは、加賀前田家の昭雄先生ですから、セレブが愛する音楽家であり、間違ってもバイエル所収の「楽しき農夫」でシューマンを代表させてはならない雰囲気になっているのかもしれません。(「森の情景」の「予言の鳥」は称賛されるけれど、どふぁ〜らど〜ふぁしれふぁれど♪の民謡調について、オトナは正面からコメントしない。たとえば椎名さんのシューマンの晩年論も、「楽しき農夫」に言及はしているけれど、ビーダーマイヤー調を擁護しようとしているらしいアメリカの学者から最後に身を引き離して狂気への関心でオチを付けていらっしゃいますし。)

でも、聡明・優雅にシューマンを語る文章よりも、全40巻の書簡集を刊行しようと計画して、きっと本当にそれをやり遂げてしまうのであろうドイツ音楽学の黒々とした律儀さのほうが、実は凄いのではないかと思ってしまいます。この調子でドイツの音楽学は、出版文化が爆発して今のところ誰も全貌をみわたすことのできない「19世紀」を、シューマンやブレンデルやワーグナーがバカにして「言論」の力で忘却の闇へ葬った人たち、シューマンに追い出されたNZ創刊時の編集者たちなどのことを含めて、何百年かあとにはサルベージして、実証的な議論が可能な状態にしてしまうかもしれませんね。バッハとその時代が次第に立体的にわかるようになってきつつあるように。]

ついでに:

岡田暁生は、世間への売り込み方に色々強い疑問を感じてはいますが、シューマン論は、さすがに留学前に、シルヴァン・ギニヤールさんの音楽分析道場で集中的に勉強していただけあって違和感はない。「子供の情景」について、美学会で発表したり、大阪大学美学科の『フィロカリア』に書いていたもの(←ベルクとダールハウスのシューマン論を効果的に使っていた)が土台になって、その上に華麗なレトリックの花を咲かせている。この、シロウト目に艶やかな花の部分だけを見て、それを育てるために投入された時間と手間をすっとばそうとするのは、野蛮だと思います。

ニーチェ (ちくま学芸文庫)

ニーチェ (ちくま学芸文庫)

ニーチェの「ツァラトゥストラ」のことを調べた時に読んで、思考における狂気の解釈にびっくりさせられる本でした。