『思想』12月号、シューマン生誕200年特集:補遺

せっかく買ったので、無駄にしないように読書ノートをつけてみた。

(p.12) シューマンの語り手(あるいは歌手)と管弦楽(あるいはピアノ)のための「バラード」という新ジャンル:

恥ずかしながらそういう作品があるとは知らなかったので、さっそく調べたら、op.106とop.122で、フィッシャー=ディスカウのディスクがあることがわかった。

メロドラマ~朗読とピアノのための作品集

メロドラマ~朗読とピアノのための作品集

  • アーティスト: フィッシャー=ディースカウ(ディートリヒ),シューマン,R.シュトラウス,ウルマン,リスト,ケーリング(ブルクハルト)
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2005/06/08
  • メディア: CD
  • クリック: 16回
  • この商品を含むブログ (3件) を見る
Amazonは品切れだけれど、在庫のあるオンラインショップもあるみたい。

キーワードは「メロドラマ」らしい。大学でMGG(もちろん新しいほう)のSachteilを引いたら、melodramという感動的に充実した項目があった。New Groveのmelodramの項は2nd editionも大した記述がない。(grand operaをグラントペラと表記するほうがいい、という考え方に従うとしたら(このリエゾンはカタカナだと意味不明で不満だけれど)、これからは、メロドラマと区別してメロドラムと呼ばれることになるのだろうか? 著者はSchwarz-Danuser、DanuserってあのDanuser?夫婦で音楽学者?)

メロドラマ的想像力

メロドラマ的想像力

Schwarz-Danuserの分類に従えばBoulvardmelodramについて文学の側から書かれた基本文献ということになるかと思うが、音楽の側からのmelodram研究はその後ドイツで盛り上がっている模様。ウェーバーも絡む。しかもドレスデンだけでなく、前任地ボヘミアにもウェーバーがmelodramの種を蒔いたことになるらしい。思わぬ発見。ワーグナーのSprechgesangとか、シェーンベルクのSprechstimmeとかの位置づけも、根本的な見直しが必要になりそうな予感。純粋な台詞劇としての新劇には、実はmelodramが先行していた!? 「創られた「新劇」神話 - 西洋近代メロドラマの歴史」、新書が書けそう、タネ本完備、これでアナタも育ちが良ければ芸術選奨間違いなし(笑)。
能は死ぬほど退屈だ―演劇・文学論集

能は死ぬほど退屈だ―演劇・文学論集

新劇の不幸をmelodramの側から考え直すことはできないか、というようなことを思いついたのです。

音楽を伴う語りmelodramの先鞭をつけたのはルソーで、早速ドイツへ伝わってベンダの作例以下、色々あるらしい。当然、シューマンが創始したジャンルというわけではない。(まぎらわしい。)

プロコフィエフの「交響的物語」は、長い歴史のあるmelodramから派生したという理解でいいのだろうか。Schwarz-Danuserの記述にプロコフィエフは出てこないが……。(というかロシア全般が未調査な印象。チェコは出てくる。)

(p.13) シューマンのヴァイオリン協奏曲再評価は、Michael StruckとReinhard Kappが先鞭をつけたらしい:

Struckはたしかゲーゼの交響曲とか研究していた人のはず、なるほどねえと思い、脚注があったので、当然彼らがどんな仕事をしたのか出典があると期待して見てみると、

(13) Daverio. art. cit. pp.275-276.

一瞬、誤記かと思って驚いた。しばらく考えて、やっと状況を把握した。ダヴェリオからの孫引き。がっかり。

特集で翻訳されているのは、ダヴェリオとローゼン。英語で書かれていなければ相手にされない、これぞ「英語の世紀」ということか、本当に?

ヨーロッパの音楽の研究は、ヨーロッパが世界の中心ではなくなりつつあるのだから、アフリカ研究とか、東南アジア研究とかの地域研究に近い分野になりつつあり、だからこそ逆に、現地人の現地語の情報が尊重されねばならないのではないか。それが「英語の世紀」という風潮への音楽研究からの応答になるだろうと、私は漠然と思っていたのだが、違うのか。

東大系美学は、グローバリズムにのっかる路線を突っ走るのか。勝ち馬に乗るのはキモチイイ、というバブル期以後の俗情にいかにもフィットする態度が21世紀の感性学なのか。

(p.21) 「室内楽」は、「室内(chamber)」で演奏されるのだから、サロンではなく、私的な室内の音楽である。この点はビーダーマイヤーの「家庭音楽」と共通している。:

Tafelmusikは宮廷のchamberの音楽で、テレマンの曲集にはconcerto grossoも含まれているのだが?

王侯貴族の「公/私」の別と、ブルジョワ・市民のそれは同列に語れないのではないか。たとえば、女帝マリア・テレジアの出産は貴族たちに公開されていた、とシェーンブルンのガイドが国王の寝室で言っていた。一方、salonは宮廷社会においては「私的空間」だが、これを模倣・継承したブルジョワ社会のsalonは半公・半私のソサエティ(社交界)で、そのあたりからchemberの位置づけが変質した、とか、そういうことではないのかしら。

音楽分析が「室内楽的」、「協奏的」の形容詞を使うときは、演奏者自身が聴き手である「内輪」の音楽vs聴き手への効果に力点を置く音楽、という仮説的な対比を想定して、当該作品の様式・書法の傾向を読み解こうとすると思うのだけれど、そういう話?

(元ボザール・トリオのメナヘム・ブレスラーのピアノは過激に「室内楽的」(「家庭音楽的」ではなく!)で、アントニオ・メネセスが、「concert/concerto」とはまったく勝手が違う環境(しかもお爺ちゃんの危なっかしさ付き)でベートーヴェンのソナタをどう弾くのか、というのが聴いていて面白かった(12/8、ザ・フェニックスホール)。とか、「室内楽的」「協奏的」はそういう文脈で使う言葉だと私は思っています。)

(p.28) Siegfried Mauser (hrsg.) Handbuch der musikalischen Gattungen 1993-2006は画期的な仕事である。:

この叢書を恥ずかしながら知らなかったので、勉強になった。で、交響曲の巻もあるらしいのだが、「ベートーヴェン以後」問題や、シューマンの交響曲に絡む記述はないのだろうか? 前段で先行研究を「画期的」と誉めたら、当然、その書物が具体的に本文中で活用されるに違いないと読者は予期する。さりげなく引用しておくのが、スマートな論文作法だと思うのだが……。

逆に、名前を挙げておきながら本文中で用いないのは、伏線を回収しない思わせぶりの疑念を招く。「要するにフェイク? 実は読んでないんじゃないの?」と疑われてしまうのは、著者の不利益だと思うのだけれど、エヴァンゲリオンよろしく、今は論文でも前振りを回収しないのが流行なのだろうか……。私の論文観が古くさいのか。

それ行け東大、岡田暁生をぶっとばせ!の気概を望む。