リッター・フォン・ケッヘルの主題目録(小宮正安『モーツァルトを「造った」男』)

モーツァルトを「造った」男─ケッヘルと同時代のウィーン (講談社現代新書)

モーツァルトを「造った」男─ケッヘルと同時代のウィーン (講談社現代新書)

ディレッタンティズムと博物学と主題目録の親和性というところに、19世紀の音楽学の「らしさ」が感じられて、勉強になりました。

(そういえば、バルトークの民謡分類にも博物学の残り香があり、実はそこが、帝大理学部出身で鉄道マニアだった柴田南雄の琴線に触れたのかもしれませんし、サン=サーンスも博物学の人だったみたい。)

バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家 (中公新書)

バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家 (中公新書)

大作曲家 サンサーンス

大作曲家 サンサーンス

この翻訳作曲家評伝シリーズは、もう普通には買えないのでしょうか。確かにデータは古いですけれど、サン=サーンスの伝記は他がないので、惜しい気がするのですが。

ただ、ケッヘルがいかに典型的なビーダーマイヤーのオーストリア臣民であったか、ということが好意的に書かれていて、帝国臣民の立場から見たハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのイメージを微細に記述されてしまうと、著者自身もロイヤリストなのだろうか、と思ってしまったりして……。

(「ハイドンはこれこれの理由で愛国作曲家としては傷がある、モーツァルトの場合は……」というような書き方は、オーストリアの話なのか、いかにも日本の支配層が考えそうな「穢れ」の思想なのか、読んでいるとわからなくなってきます。それから、王政復古下における男声合唱の政治性が音楽社会学で指摘されているのは知っていますが、だからといって、男声合唱に関与することすなわち反体制だ、というような色分けは、「社会」という言葉はアカだから発禁だ、生物学者が『昆虫の社会』という本を書いたら特高につかまった、というような戦前治安維持法をめぐる定番のコワい話(真偽不詳)を連想させます。19世紀オーストリアにおける「体制/反体制」の線引きは、本当にこういう風に、日本の無難に勤め上げたい大学教師の処世術とそっくりだったのでしょうか。)

フルトヴェングラーのちょっと鈍くさい政治音痴ぶりを共感的に書かれると、ひょっとすると著者も……、と思えてしまうのと似た構造かもしれないと思いました。

フルトヴェングラー (筑摩選書)

フルトヴェングラー (筑摩選書)

もちろん、日本国民のひとりとして、著者がロイヤリストであったとしても一向にかまわないわけですが、たぶん読みながらドキドキしてしまうのはそういうことではなくて、「凡庸な人」(といってもケッヘルの社会的な地位は高いので、「大衆」という意味ではない)の人生を描くためには、クラシック音楽ジャーナリズムの「大作曲家」や「スター演奏家」や「憧れのヨーロッパ」を輝かせる定番的な語法・文章とは違うフォーマットが求められるのだろうなあ、と他人事でなく思います。

大栗裕は、興味深いオッサンですけれども、おそらく「大作曲家」ではないですし、でも、それじゃあどういう書き方をすればいいのか……。(このところ執拗に柴田南雄について書いているのも、失礼ながら「大作曲家」と崇める話法で描写するのは、何かが違う、と思うのです。あれこれ考えて書きながら、模索しております。)

そう考えると、ダ・ポンテの生涯を絶妙の距離感で語り切るのは玄人の仕事。見習いたいです。(ガサツで下品な私には一生無理、という気もしますが、こういう評伝の「書き方」のノウハウは、社会科学より人文科学のほうに一日の長がありそう……。文学と歴史は、おそらく一種の総合芸術なのだと思う。)

モーツァルトの台本作者 ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯 (平凡社新書)

モーツァルトの台本作者 ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯 (平凡社新書)