「会って、被災者の方達の話をききたい」と願う指揮者のシベリウス(大フィル定期演奏会)

被災地支援で、大阪クラシックのミニ版をやりたい、と大植英次さんは先日の記者会見でも言っていましたが、本日、発表になったようです。

大阪市と(社)大阪フィルハーモニー協会は、平成23年4月28日(木)大阪市役所本庁舎内各所において「がんばろう日本 がんばろう東北 被災地支援コンサート〜人の都 大阪市から元気を発信!〜」を開催します。

http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000121637.html
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大植さんは、やくぺん先生が紹介してくださっているのとほぼ同じ内容のことを、大阪の記者会見でも言っていました。

http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2011-04-15

現地に行きたい!と思うのは、こっちの気持ちを伝えるため、ではなく、被災者の方々の胸の内にたくさんあるに違いない思いを腰を据えてじっくり訊きたいのだ、と。

私はそのとき直観的に、ああ、これが「広島の人」ということなのだ、と思ったのでした。

原子力是か非か、という話題で「私の意見」を主張する人はたくさんいて、Hiroshimaが、それぞれの方の「私の意見」のなかで象徴的に言及されることはものすごくたくさんあるけれど、それは、Hiroshimaに生まれて暮らして、そこでボソボソと語られている言葉とはまったく違っていて、そういう齟齬が、原体験のように大植さんのなかにあるのかもしれない、と以来わたくしはそのように思っております。

その案件の当事者は誰か、ということに敏感な人なのでしょうね。

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さて、その「現場・当事者(への)意識」は、本日の大阪フィル定期演奏会(2日目)でも色々な形であらわれていたように思います。

最初に、沈みゆくタイタニック号の船上でヴァイオリニストが弾いたというエピソードで知られている賛美歌が演奏されました。現場から遠く離れた場所から、祈りを込めて演奏する、というのではなく、事件の現場で演奏された歌を、その事件が起きたのと同じ3月14、15日の演奏会で反復する行為を大植さんは選択した、ということになりそうです。

メインのシベリウスの2番は、生身の体温や心の揺れをはっきり見せる、ほとんどそれしかない、というような演奏でした。まるで、フィンランドの極寒の北極圏に自分の体温だけで暖かい春をもたらそうとしているかのような、冷たさや厳しさを一瞬たりとも見たくないと思っているかのような奮闘ぶり。ああ、こういう風になったか……。冷静に考えて、それはバランスを欠いて無茶だと思うわけですが、大植さんは、こういうときに平常心でいることができるような人ではないのかもしれませんね。なかでも第2楽章は色々な意味で恐ろしい音楽でした。

猛然とのめり込む演奏に、こちらが置いて行かれてしまった感じでしたが、それでも、どれだけ言っても言い足りない感じに次から次へとクライマックスにクライマックスを重ねる終楽章の最後の最後の最後の最後の最後(笑)のところが、絶叫して、どうだとスゴんで終わるのではなくて、コラールをきれいに歌い納めるような感じだったのは、辛うじて救われた思いでございました。

たくさん言いたいことがあるけれども、言いっぱなしで相手を圧迫して、攻めているわけではないのだ、ということでしょうか。

……長い人生、こういうこともあります。

演奏会前半のバーンスタインについては、もうちょっと書きたいことがあるので、明日にでも。ひとまず。