50歳でベルリン・フィルを指揮した日本人

[7/28 朝比奈隆もベルリン・フィル定期に出演していたことが判明。データを追記。8/16 ベルリン・フィル公式記録でデータを一部訂正。]

[6/1 今年は2011年ですね。^^;; 年号の誤記を2箇所修正。2012年 → 2011年]

21日は、西本願寺に参拝。阿弥陀堂にて、親鸞聖人の生誕を祝う宗祖降誕会[ごうたんえ]の正信念仏偈法要(伝統的な法要)と宗祖降誕奉讃法要(池内友次郎の弟子で相愛大学教授だった大橋博の作曲で1963年に制定された音楽法要)、ひきつづいて書院の畳敷きにつめかけた皆さまに混じって、南能舞台の降誕会能を観覧しておりました。

その後、夕方から大阪で(いずみホールの室内楽コンクールへ行くわけでもなく)演奏会があったので、終日外出だったのですが、現地時間20日夜には、佐渡裕がベルリン・フィルを指揮していたようですね。

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現地からの記事に関西の音楽担当記者さんのお名前も見えますが、関西の音楽家の海外公演に新聞社が同行取材するのは、久々の出来事ではないでしょうか。大植さんがバイロイトへ行ったときは東京からの派遣が多かったようですし、90年代に井上道義と京響がヨーロッパへ行ったときには京都新聞の記者さんが同行していましたが、その前となると、たぶん、朝比奈・大フィルの欧州や北米への公演ですよね。

ベルリン・フィルに一度客演指揮をするよりも、ベルリン・フィルのコンサートマスターになるほうが意味は重いし、あらためて樫本大進は凄い人なのではないかと最近思っているのですが(そして忘れてはいけないシャウシュピールハウスには日下紗矢子さんがいるのだからhttp://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2011-05-21、ドイツ在住のヴァイオリニストは、しばしば日本へ帰ってくる庄司紗矢香さんだけではないわけですが)、それはともかく、もう少しマス・メディア上でのイメージにこだわってみますと……、

フルート出身ながら指揮者志望であった若き日の彼が指揮者やトレーナーをしていた関西のアマ・オケやブラスバンド以外の人が佐渡裕という名前を認知したのは、ブザンソンのコンクールで優勝したときだと思います。そのあとに、武者修行体験記風の本を出したことを含めて、この頃の佐渡さんは、小沢征爾の若い頃のイメージを追っていたように思います。ちなみに、小沢征爾が1959年にブザンソンで優勝したときは24歳。佐渡裕が1989年に優勝したときは27歳です。

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そうして1990年にバーンスタインが亡くなって、PMFを引き継いだあたりから、佐渡さんは「キャンディード」を繰り返し上演したり、MBSと組んで日本版ヤング・ピープルズ・コンサートを立ち上げたり、1950年代にニューヨークのアイドルになった頃のバーンスタインをお手本にするような仕事ぶりでした。佐渡さんはこの頃30代で、暗黙のモデルになっていたと思われるバーンスタインも、こういう仕事をやっていた当時は30代だったんですよね。「題名のない音楽会」の司会は、この路線の総仕上げのようなお仕事なのかな、という気がします。

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さて、そして今や佐渡さんは50歳なのだそうですが、バーンスタインは1969年に51歳でニューヨーク・フィル音楽監督を辞任して、ヨーロッパ各国の名門オーケストラに客演する「巨匠」の時代に入ります。さすがに、こうした(カラヤンと並ぶ指揮界のトップだった時代の)バーンスタインと同等のことを佐渡さんに期待するのは難しそうです。あと、同じようにバーンスタインと縁のあった日本人指揮者と比べると、佐渡さんは、小澤さんや大植さんのように北米各地のオーケストラ(山田真一『オーケストラ大国アメリカ』で紹介されているような)でキャリアを積み上げているわけではないので、こうした人たちをパブリック・イメージのモデルにするのも、そろそろ大変かなという感じがします。

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ベルリン・フィル出演は、そういう意味でも、狙い澄ましたタイミングで実現したなあ、という気がします。

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いくつかの報道では、これまでにベルリン・フィルを振った日本人指揮者として朝比奈隆の名前も挙がっていたようですが、朝比奈隆が1956年にベルリン・フィルを指揮したときは47歳ですから、今の佐渡さんとほぼ同じような年齢なんですよね。

[7/28追記]

大阪フィル前事務局長で現・顧問の小野寺さんからご連絡をいただきました。朝比奈さんは1956年6月のあと、1957年10月と1958年12月にもベルリン・フィルを指揮していて、1958年は定期演奏会への出演です。つまり、朝比奈さんも佐渡さんと同じ50歳でベルリン・フィルの定期を振っていることになります。

*この件、以下にもう少しくわしく書いています。あわせてご覧下さい。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110728

なお、公演プログラムのコピーを添えて小野寺さんからご連絡いただいた朝比奈隆のベルリン・フィル出演データは以下の通りです。[ベルリン・フィル公式記録をもとに一部訂正済み。]

  • 1956年6月21[、22]日 5. Konzert der Symphonischen Zwischensaison(シーズン間第5回交響曲演奏会) ベルリン高等音楽院ホール *芥川也寸志「弦楽のための三楽章」、大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」、ベートーヴェン「交響曲第4番」ほか
  • 1957年10月9日 Das Theater der Schulen(学生劇場)、同10日 2. Konzert[Abonnementkonzert] der Reihe C (定期演奏会シリーズC第2回) いずれもベルリン高等音楽院ホール *ベートーヴェン「交響曲第1番」、バルトーク「ピアノと管弦楽のためのラプソディ」(with アンドール・フォルデス)、レスピーギ「ローマの祭」
  • 1958年12月7、8日 3. Abonnementkonzert der Reihe A (定期演奏会シリーズA第3回) ベルリン高等音楽院ホール *ギュンター・ヴィアレス「ロマンツェーロ」[初演]、メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」(with ヘンリク・シェリング)、チャイコフスキー「交響曲第4番」

[追記おわり]

朝比奈さんは、白髪の長老ブルックナー指揮者という1980年代以後のイメージが強烈で、今の佐渡さんとは全然似ていませんし、佐渡さんと朝比奈隆を重ね合わせて考える人はほとんどいないと思いますが……。でも、40代で関西にできた新しいオーケストラの初代指揮者になり、「自分のオーケストラ」をもったところでのベルリン・フィルへの出演ですから、BPOを指揮した日本人のなかで、佐渡さんに一番似ているのは、若き日の朝比奈さんなのではないかと思います。

朝比奈隆―追悼特集 (KAWADE夢ムック)

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朝比奈隆と佐渡裕の対談が再録されています。結構この二人、話が合っていたようで。

佐渡さんが出演したのは定期演奏会であって、朝比奈さんの場合は[追記:1956年の初回は]名曲コンサート風の公演だから意味が違うとも言えますが、それは、日本人音楽家の認知度が半世紀で変わったことに対応したアップデート・ヴァージョンと見ればいいのではないでしょうか。[追記:それに、上で書いたように、朝比奈隆も[1957年と]1958年には定期演奏会に出演しているわけですし。]

(念のために確認しておくと、朝比奈さんは、戦前の日本人音楽家のようにオーケストラを指揮者が雇った形ではなく、オーケストラ側から招かれた形をとることができていたようです。

あと、1956年は、まだ日本の作曲家の名前など海外には知られていなかった頃で、朝比奈さんは大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」(と芥川也寸志の「トリプティーク」)を持っていったわけですが、2011年の日本は、既に国際ブランドになったタケミツを手にしている。このあたりも半世紀を経たヴァージョン・アップという感じがします。)

佐渡さんの演奏会はネット中継があって、CDとDVDで販売されるようですが、1956年の朝比奈さんは、帰朝演奏会ということで、ベルリンでやったのと同じプログラムの再現を大阪・産経会館でやっています。(この演奏会の写真で、大栗裕が自作のホルン・パートを吹いている姿が確認できたりもすることは、以前書いたとおりです。)

佐渡さんも朝比奈さんも、(本人というより周囲が、ということだと思いますが)ベルリン・フィルへの出演をそれぞれの時代なりの手段で最大限に活用しています。このあたりの商売が成立する感じも、今回の「ベルリンの佐渡裕」フィーバーで1956年の朝比奈さんを思い出してしまった理由かもしれません。

佐渡さんはDVDの売り上げを震災義捐金として寄付するそうですが、朝比奈さんの場合は、日本で亡くなったピアニスト、クロイツァーのデスマスクを携えてベルリンへ行っておりまして、演奏会の最後には、ベルリン市の関係者にデスマスクを手渡すセレモニーがあったそうです。お二人とも、公式に日本国を背負っているわけではないですけれども、偶発的に、日本を代表しているかのようなミッションが公演に付け加わってしまったわけですね。これも1956年の朝比奈隆と、2011年の佐渡裕のひとつの共通点。

オザワのような青年指揮者としてデビューして、バーンスタインの影を慕う中年期を過ごして、朝比奈のような後半生を生きる。90歳まではあと40年ありますから、悪くない人生設計かもしれませんね。

(朝比奈さんの傍らには敏腕マネージャーの野口幸助さんがいて、野口さんが関西交響楽団に入ったときに音楽事務所を任されたのが梶本尚靖さん。佐渡さんを育てたマネージャーさんは、たしかカジモトから独立した方だったはずなので、そういう意味でも、「チーム佐渡裕」には、実は「チーム朝比奈」のDNAが受け継がれているのかもしれません。50歳を超えてベルリンへ進出したことは、その遺伝子が発現するトリガーになるかもしれない。)

万が一この予測が当たって、40年後に佐渡さんが日本人最高齢指揮者として指揮台に立ち続けたとして、その姿を私が生きて見ることができるかどうか、微妙なところではありますが。

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……と、ここまで書き連ねたことは、音楽・演奏には立ち入らずに、メディアに露出したときのイメージがどうか、ということだけに着目した、その意味では無責任な野次馬話ではありますが、朝比奈隆だって、演奏がどうかということが論じられたのは最後の20年ですから、佐渡さんには、あと20年修行していただきたい!

とりあえず、お客さんの注目を集める興行を打ち続けるところが、指揮者・佐渡裕の大きな特徴ではあるわけですから、頑張っている人を一番頑張っているポイントで見るとこういうことになるのではないでしょうか。関西の音楽記者の同行取材を可能にするほどの「話題性」というのは、近年まれにみる、他の人にはできない仕事ではあると思うわけです。

数年前に堀川通りの西本願寺にはじめて行ったときに、わたくしは、まるでベルリンのウンター・デン・リンデンみたいに巨大な建物が並んでいるなあと浄土真宗総本山の権勢に感心したものでしたが、そこへ再び参拝した日に、「世界最高峰のオーケストラ、ベルリン・フィル」が今も日本のジャーナリズムで霊験あらたかであることを再認識したのでした。