オペラにおける「日本初演」の資料価値:藤原歌劇団「タンホイザー」(1947)からベルリン・ドイツ・オペラ「ヴォツェック」(1963)まで

[6/15 1959年の都民劇場「火刑台上のジャンヌ・ダルク」日本初演の情報を追記。ほかに、いくつか二期会関連の情報などを補足。6/20 1952年前後のモーツァルト上演に関する記述を増井敬二『日本オペラ史〜1952』をもとに一部修正。なお、この記事の記述は、各団体の記念史等のほか、主に木村重雄『日本のオペラ史』(日本オペラ振興会、1986年)を参照しています。]

創作オペラが盛り上がった昭和30年頃、日本人の新作オペラを作曲家たちが「ペレアス」や「ヴォツェック」を基準に論じたのは、非現実的な議論ではなかったか、と前に書きました。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110428/p1

それでは、作曲家たちの理想と日本のオペラの現実の落差がどの程度だったのか? 具体的に調べ始めたら、ややこしい問題が山積みであることが徐々にわかってきました。柴田南雄と藝大楽理や日本の音楽学をめぐる諸問題、ゼッフィレッリをはじめとする演出家たちと、彼らの仕事を日本に紹介するコンテンツの在り方(オペラ映画、テレビ・オペラ、LD/DVDなど)といった事柄も、遠回りではありますが、この問題の周辺を探る途上で見えてきたことの一端(のつもり)です。

とりあえず、戦後の日本のオペラで、何がいつ「初演」されたのか、漏れは色々あると思いますが、整理して思ったことをつれづれにメモしてみます。

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藤原歌劇団にはイタリア・オペラを中心に定番のレパートリーがあって、一方、「研究団体」として旗揚げした二期会は、新しいことに積極的に挑戦してきた。だから、日本初演は二期会が中心、というのが最近のイメージだと思いますが、ここで扱う昭和20年代、30年代は、二期会ができるかできないかの頃なので、もうちょっと事情は複雑です。

(1) ワーグナーとモーツァルト

敗戦後昭和20年代に、最初に「初物」に挑戦したのは藤原歌劇団で、演目は1947年7月の「タンホイザー」で、その次が1948年12月の「ドン・ジョヴァンニ」。指揮はいずれもグルリット。このあたりは、戦時中1942年の「ローエングリン」や1943年の「フィデリオ」などから続くグルリットの功績として、今更わたくしが改めて言うことはないような気がします。

日本(東京?)では、ワーグナーへの思い入れが昔から強かったし、着実に成果を上げて今日に至っているということであろうかと思います。後述しますが、まだヴェルディ後期の「オテロ」などを上演するより先に、ワーグナーが日本で舞台上演されているんですね。

一方、モーツァルトは上演するためにクリアせねばならない課題が色々ある作曲家なのだということを、今回調べて再認識しました。(オペラ関係の方々にとっては、いまさらな常識かもしれないのですが……。)

この段階では、訳詞なのは当時の常識ですが、レチタティーヴォ・セッコをやらずに、ナンバーを台詞でつなぐ形です。セッコを用いたモーツァルトの上演は、上記「日本初演」の五年後、藤原歌劇団を離れたグルリット・オペラ協会がゲルハルト・ヒュッシュ[付記:当初ハンス・ホッターと書いていました、お恥ずかしい、なお、ヒュッシュの来日は1952年に続く2度目]を迎えた1953年10月の「ドン・ジョヴァンニ」が日本で最初だったようです。1952年10月には、芸術祭オペラ公演として藤原歌劇団・二期会・長門美保歌劇団[追記:ほかに東京芸大オペラ研究部、東京オペラ協会、関西オペラ・グループからも参加]が合同で「フィガロの結婚」を日本初演しますが、この有名な公演も、セッコなしです。

日本オペラ史 ~1952

日本オペラ史 ~1952

増井敬二によると、芸術祭合同公演において、「この作品[「フィガロの結婚」]の上演を早くから計画していた二期会は、レチタティーヴォ上演を主張したが、結局セリフ形式になった」そうです。

日本のオペラ上演では、長らく訳詞の是非が論じられてきましたが、18世紀までの宮廷オペラのレチタティーヴォ・セッコがどのように処理されてきたか、ということも、「オペラは歌かお芝居か」という問題と絡めて、一度ちゃんと整理しておいたほうがいいのではないか、という気がしております。(誰かやってください!)

(2) ヴェルディ

プッチーニや「カヴァレリア」「道化師」のヴェリズモは早くから知られていたようですが、ヴェルディはもっぱら「リゴレット」と「椿姫」で、日本人歌手による「オテロ」と「ファルスタッフ」は1951年のN響による演奏会形式が最初なんですね。このあとに、「日本人に歌えるのか」と話題になった1953年10月の二期会による「オテロ」舞台上演が続きます(毎日音楽賞受賞)。[追記:ちなみに二期会の第1回公演は、1952年2月の「ボエーム」。]

そうこうするうちに、イタリア歌劇団がやってきますし、主要作が順次上演されて、のこった初期の未踏作品を若杉弘時代のびわ湖ホールが10年かけて総なめにして今日に至る。ひょっとすると、日本のオペラの「第二期」に、一番幸福な形で一歩ずつ研究され、多面性が踏破されたのはヴェルディだったかもしれないですね。その意味で、戦後日本のヴェルディ受容史は、ちゃんとまとめると、日本オペラ史のコアの部分に迫る研究になりうるかもしれないですね。(これも誰かやってください! これをやらないと、若杉弘さんというオペラ指揮者を正当に顕彰することもできないままになってしまうと思いますし。)

(3) メノッティとブリテン

20世紀のオペラについては、1949年2月(上記(1)で述べた「タンホイザー」や「ドン・ジョヴァンニ」初演の少し後)に長門美保歌劇団がメノッティの「泥棒とオールドミス」を日本初演したあと、1952年の柴田南雄によるNHKラジオでの紹介をきっかけにするブリテン「ルクリーシアの陵辱」上演(1953年7月に演奏会形式初演、翌年に舞台初演→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110428/p1)まで、ほとんど何も起きていません。(1950年6月に藤原歌劇団がハドリー「ビアンカ」を日本初演したのみ。)

同じ頃、藤原歌劇団青年グループが旗揚げして1954年4月の「青ひげ公の城」など毎年新しい作品に挑戦して(→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110524/p1)、1955年7月に藤原歌劇団がメノッティ「領事」を日本初演、1956年7月には二期会がブリテン「ピーター・グライムズ」を日本初演して毎日音楽賞を受けていますが、團伊玖磨が「夕鶴」(1952年1月初演)を書き、清水脩が五年越しで「修禅寺物語」(1953年11月初演)に取り組んでいた頃、日本の舞台では、20世紀のオペラはメノッティが一度やられただけだったということです。お客さんが不慣れであるというだけでなく、歌手もプッチーニ以後を未経験だったということですから、これは、相当な制約のなかでオペラを作曲せねばならなかったと思われます。

(4) 「ヴォツェック」日本初演まで

1955年以後、ということは、昭和30年代に入ると、猛烈な勢いで情報が出揃います。1956年にNHKイタリア歌劇がはじまったことは、オペラに関する常識を一挙に更新したと思われますし(たとえば一流好みの谷崎潤一郎がオペラ・ファンになるほどに)、上で述べた「領事」(1955年)と「ピーター・グライムズ」(1956年)のほかに、1956年10月、二期会は「ばらの騎士」を都民劇場で日本初演。1958年には、4月のラモー室内協会によるブリテン「ねじの回転」、11月の都民劇場でのドビュッシー「ペレアスとメリザンド」日本初演があり、[追記:1959年11月には都民劇場で「火刑台上のジャンヌ・ダルク」日本初演、]少し間をおいて(1960年前後は景気動向と安保の政情不安などでオペラ興行全般が低調だったようです[追記:1959年8月の「可愛い女」などこの時期はミュージカルが流行りました)、1962年春には、二期会が5〜6月の都民劇場でブリテン「真夏の夜の夢」をやり、11月の研究生卒業公演で「アルバート・ヘリング」に挑戦(いずれももちろん日本初演)。この間、藤原歌劇団から独立した青年グループの快進撃も続いています(→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110524/p1)。同年春の大阪国際フェスティバルでは、「サロメ」日本初演もありました。

そうして1963年に、ベルリン・ドイツ・オペラが初来日して、「トリスタンとイゾルデ」と、十年来作曲家たちの憧れの的であった「ヴォツェック」の日本初演が実現します。[追記:これは日生劇場のこけら落とし公演で、同劇場ではこの年ほかに、ヒンデミット「ロング・クリスマス・ディナー」とストラヴィンスキー「放蕩者のなりゆき」(当時の外題は「放蕩児一代記」)を二期会が日本初演しています。]

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以上のデータを、日本の作曲家によるオペラ創作と具体的に照合するのは、別の機会にしようかと思いますが(オペラに関する知識・前提は、実際の舞台上演だけでなく、楽譜・レコード、海外渡航者からの情報など、他にも色々考えないといけませんから)、

ここまでの概観だけでも、昭和20年代の動きを昭和30年代以後の常識で判断すると、色々間違ってしまいそうだ、と言えそうに思います。

こうした時流を傲然と受け止めて「進化」を続けた團伊玖磨はともかく、そこまで機敏ではなかった清水脩や石桁眞禮生、そして武智鉄二と関西歌劇団は、昭和20年代末の、直後にここまで急激に様相が変わっていくとは想定できない段階での「即戦力」を目指していたと思われます。残念ながら、わずか数年で賞味期限が切れてしまったわけですが、ことはオペラ(束の間の夢と消える舞台のうえのイリュージョン)ですから、同時代の前提を丁寧に押さえることなく、あとの基準で論評するのは、研究者として「横着」だ、ということになりそうです。

昭和20年代から30年代への日本のオペラ・シーンの転換は、急激に変化しつつある出来事を、そのような変化の渦中において捉える運動感覚が求められるのではないか、と思うのでございます。(いつも繰り返し書いていますが、別に「関西のローカルな欲目」というわけではなく、わたくしは、こういう「過渡期」が好きなのです。)