柴田南雄・補遺(自伝『わが音楽わが人生』より)

柴田南雄について調べて、いくつか残っていた疑問の補足。主に、1995年刊行の自伝からの抜き書きです。

わが音楽わが人生

わが音楽わが人生

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(1) 徳永康元のこと

柴田南雄の1949/50年のバルトーク論について前にまとめました。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110410/p1

そのとき、石田一志「日本の作曲家たちへのバルトークからの影響」(『音楽芸術』1989年9月号)の記述

柴田は、一九四一年、ハンガリー留学中の従兄弟徳永康元がハンガリーから送ってくれたバルトークの幾つかの合唱曲の楽譜を通してこの作曲家に興味を持った。「その中に作曲の真髄というべきものを見出し、バルトークへの関心を深めた」という。

の出典がわからないと書きましたが、自伝62頁に以下の記述がありました。

徳永康元さん(東京外国語大学名誉教授)は、ハンガリー語の専門家で、音楽との関連でもっとも親しい従兄弟であり、彼はわたくしのバルトークへの関心の原点でもある。つまり、彼が一九四〇(昭和一五)年頃、留学中のブダペストから送ってくれたバルトークの合唱曲を見て、わたくしはそこに音楽表現への強固な意志といったものを感じたが、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年から[引用者注:正しくは1949年8月号から]バルトークの作曲技法の分析を「音楽芸術」誌に連載した発端は、その楽譜にあった。

なお、1912年生まれの徳永康元は、築地座のモルナール「リリオム」を観て、「ハンガリーへの興味を一層強く燃え上がらせることになった」と書いています。

ブダペストの古本屋 (ちくま文庫)

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1933年(昭和8年)4月29-30日の公演で、リリオムは友田恭助、ユリは田村秋子。(1927年の築地小劇場公演(リリオム:友田、ユリ:山本安英)は観ていないそうです。)この時、徳永康元は21歳。柴田南雄は、まだ成城高等部へ進学したばかりでした。

回転木馬 (製作50周年記念版) [DVD]

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「リリオム」は何度も映画化されて、時代劇映画やエノケンが「いただき」で翻案した例もあると徳永康元は指摘しています。このDVDは戦後のミュージカル版ですが、特典として、フリッツ・ラングの1930年のフランス映画版「リリオム」が入っていて、これが素晴らしい。

乱暴なヤクザ者リリオムの話で、ストーリーだけ読むと、どうしてそれほど人気があったのか謎で、しかも、徳永のようなインテリがこういう話で夢中になった理由がよくわからなかったのですが、気持ちと裏腹な行動に出るリリオムとか、何を考えているのかよくわからやいユリとか、内面と行動が一致しない役柄だから、舞台で演じがいがありそうですね。

徳永は、諸井三郎が1927年に結成した「スルヤ」の発表会にも通っていたようです。

当時、年長の従兄弟の柴田浩一さんと徳永康元さんの二人は、新交響楽団の定期公演に早くから通っていたし、諸井三郎主宰の「スルヤ」の発表会のことも話題にしていた。しかし、どちらもわたくしには未知の世界で、ただ彼らの会話を聴いていただけだが、新響とは劇団かと思っていた。築地小劇場の新劇と一緒にしていたのだろう。(柴田南雄『わが音楽わが人生』97頁)

柴田南雄が奥手の子供であったということだけでなく、徳永との4歳の年齢差が大きかったのかもしれません。徳永は昭和のモダニズムの末期に間に合い、柴田は間に合わなかった、ということだと思います。(1914年生まれの吉田秀和が、中学時代を小樽で過ごして、1930年に成城高等部へ入り、東京帝大仏文へ進んで中原中也らとつきあっていた頃です。)

柴田南雄が戦前の文化に冷淡なのは、端的に「知らない」「乗り遅れた」、あれは年長の従兄弟たちの文化であって、わたくしの文化ではない、という意識があったのかもしれませんね。(それは、1970年代生まれの人たちがバブルの80年代に冷淡なのと似ているかもしれません。)

(2) 第1回毎日音楽賞と新作曲派協会

諸井三郎門下生を中心とするグループ「新声会」は、1949年に毎日ホールで作品発表会を開いて、これが第1回毎日音楽賞を受けています。この時、柴田南雄は「優しき歌」を発表しました。

柴田の自伝(224頁以下)によると、毎日音楽賞審査員は大田黒元雄、村田武雄、園部三郎、吉田秀和、遠山一行で、審査会は大田黒が所用で途中退席して、園部が「新作曲派協会」を強く押し、他の3人の推薦で「新声会」の受賞になったようです。

『音楽藝術』1950年9月号の「新作曲派」メンバーによる座談会で、早坂文雄が「最近フォーレとかバルトックが話題になつているけれども、われわれは昔からあんなことはやつておつた。」と発言していることを前にご紹介しましたが(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110410/p1)、これは、新声会受賞&新作曲派落選の直後ですから、早坂らが、自分たちを差し置いて「新声会」が脚光を浴びていることに不満を抱いて、柴田南雄を攻撃した発言と解釈してよさそうです。柴田は前年にバルトーク論(戦前の人はしばしば「バルトック」と表記していた)を書いていますし、「フォーレ云々」は、毎日音楽賞の対象になった演奏会で発表した柴田作品が、まるでフォーレみたいなタイトルであることを指しているのでしょう。(柴田の「優しい歌」は、ヴェルレーヌではなく、立原道造の詩に作曲しているのですが。)

柴田が自伝で新作曲派のコンサートを描写する箇所には、彼らの流儀になじめなかったと思しき醒めた視線が感じられます。

われわれは「新作曲派」や「地人会」の発表会も聴きに行った。[……]すでに、民俗音楽調、雅楽調、映画音楽などで一家を成している人達だから、お互いに仲間の曲には無関心のようだった。早坂さんは、自分の曲以外の演奏の時は聴かずにロビーに出ていた。清瀬さんの音楽は、松平さんのよりも支持者は多かったが、あまりにアッケラカンとした音に、当時のわれわれはまったく興味も関心も抱かなかった。松平さんの初期のピアノ曲の演奏中に、客の一人の女性が立ち上がって、悠然と外に出て行ったこともあった。(前掲書、228頁)

成城・東大出身のエリートで身内の「由緒正しい」紹介で諸井三郎に師事していたお坊ちゃんには、いまだに民族派を標榜したり映画興行界で生計を立てながら「ゲージュツ」への思いを捨てない人々の(柴田から見た)粗雑さと(柴田のような階層とは無縁な)上昇志向がないまぜになった姿は、住む世界が違って見えたのでしょう。しかも当時は、旧世代(戦前派)を新世代(戦後派)が公然と批判して良いかのような風潮があった時代です。それに加えて、上記のように雑誌でほぼ名指し(と当時の関係者にはわかったはず)で文句を言われて、そのあと、調停のために清瀬からバルトークの楽譜を借用して「教えを請う」姿勢を見せねばならなかったり等々のいきさつがあった結果、「新作曲派協会」は、柴田南雄の記憶のなかに、このような寒々とした心像として定着してしまったようです。

柴田南雄は、しばしば客観性・科学性を口にしますが、この件については一方の当事者ですし、早坂が何故ロビーに出ていたのか、客の女性が途中退席したのがどうしてだったのか、そもそも客層はどのような人達だったのか、など、柴田側からの証言だけを鵜呑みにして済むことではないと思います。

(また、新作曲派協会への柴田南雄の視線は、「徒党の力学」のようなものが理解できていないように思われます。柴田南雄の自伝における「わたくし」は、一方の家族・親族と、他方の組織・会議・委員会に整然と分割・整理されて、それ以外の場所を持たないかのようです。まるで、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという社会学のモデルをそのまま生きているかのように人工的な世界です。それは、街場の演劇や映画へ通う青春時代を過ごした従兄弟の徳永康元とは違っていますし、文壇へ接近して半泣きになりそうな体験をした吉田秀和とも違う。およそオペラを書きそうにないパーソナリティですね。)

(3) NHKと現代音楽

自伝269頁に、1952年5月5日からNHKで4夜にわたって「ヴォツェック」全曲レコードを紹介した話が出ています。

これに引き続いて、ブリテン「ルクリーシアの陵辱」も放送したはずですが(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110428/p1)、自伝にブリテンへの言及はありません。ちなみに、柴田南雄は、ブリテン自身が1956年に来日したときに、NHKがセッティングした日本の作曲家との懇談会に出席して、ブリテン本人とも会っているはずですが、自伝には、索引を見るかぎりブリテンの名前は一度も出てきません。どうやら、このときのブリテンとの会見は、わずか一時間の儀礼的なもので、日本の作曲家側にかなり不満が残ったようです(外山雄三が『音楽藝術』にこのときの模様をレポートしています)。1995年の柴田南雄のなかで、ブリテンとの記憶は「なかったこと」になっていたのでしょうか。

自伝では、続けて「ピエロ」の放送への反響が綴られています。

だが、一九五三年の八月に「NHK夏期大学・二〇世紀芸術」というラジオ番組で、シェーンベルクの《ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)》を紹介した時はもっと大きな反響があり、かなり後になるまで質問の電話や葉書が来た。(269-270頁)

実験工房による「ピエロ」初演は1954年10月9日ですから(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110122/p1)、ここでも、「ルクリーシア」の場合と同じく、柴田がラジオで紹介した作品が次の年にコンサートで日本初演される、というパターンが繰り返されていることになります。「ルクリーシア」の演奏会初演のあとで柴田南雄は『音楽藝術』に記事を書いており、新ウィーン楽派は、十二音技法で「時の人」です。戦後日本の「前衛音楽」は、本格的に動き出す前に放送が地ならしをしたメディア・ミックスな一面があったのかもしれませんね。

(武智鉄二が1955年に「ピエロ」を円形劇場形式で取り上げたのも、放送・実演で一定の話題になっていた流れに乗ったということになりそうです。)

戦時中に、柴田南雄は兵隊さん向けの教育映画の仕事をして、吉田秀和は政府関係の仕事をしていた時期があるようですし、お二人は、プロパガンダの実務と効用を知った上で戦後の仕事をしていると見てよいのではないでしょうか。電子音楽スタジオなど、「前衛音楽」を支援することは、NHKの技術開発にとってもメリットがある、と名目を立てることができたようですし。

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NHKといえば、二十世紀音楽研究所の現代音楽祭について1956年に柴田南雄、入野義朗、諸井誠、黛敏郎が準備のための会合を開いたそうで、柴田は自伝にこんなことを書いています。

不思議なことに、この日はNHKについては誰も発言していないが、実際に発足してみると、最も有力なスポンサーはNHKだった。当時のNHKの洋楽部門とわれわれとの関係を思えば、皆が暗黙のうちにそうなることを予感して、とくに誰も発言しなかったのだろう。(289頁)

NHKが音楽祭の「最も有力なスポンサー」だったというのは、具体的にどういうことだったのでしょう?

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十二音技法について、1953年から翌年に入野義朗を講師としてレイボヴィッツ『シェーンベルクとその楽派』の輪講をやったらしく、入野は同書梗概を『音楽藝術』に載せていたりしていますが、このあたりは長木誠司さんの『戦後の音楽』などにも出てくるので省略。柴田南雄も、ダラピッコラ「夜間飛行」とベルク「ルル」の音列分析を同誌に発表していますが、これは、別の機会に当時の20世紀オペラ論と関連づけてまとめてみたいと思っています。

なお、二十世紀音楽研究所の現代音楽祭が、軽井沢で1957年から59年まで3回やったあと一年休んだことについて、柴田の自伝は、朝日新聞社の「東京音楽祭」があったからだ、と説明していますね。1961年の大阪での第4回は、柴田は欧州旅行中で不参加。1年空いた1963年の第5回が京都で開催されたのは、柴田によると、「この時期に森さん[指揮者の森正]が京都市交響楽団の常任指揮者だったからで、そのためにオーケストラの曲目がはじめて登場した」ということであるようです。(正確に言うと、森正がチェリウス、カウフマンに続いて京響3人目で日本人最初の常任指揮者に就任したのは、現代音楽祭の直後の1963年9月になってからですが。)