柴田南雄・番外編(「柴田南雄音楽評論賞」と音楽学者の音楽評論)

アリオン財団の音楽賞批評部門は、柴田南雄が亡くなった1996年から「柴田南雄音楽評論賞」という名前を冠しています。柴田南雄の執筆活動を「批評」と見ることができるのか、議論が分かれそうな気がしますけれど、ひとまずこれは、天下国家へ向けて「批評」の定義を問う振舞いというよりも、江戸京子さん率いる音楽財団が、批評部門の審査員を務めてくださっていた柴田南雄さんとのご縁を後世に残る賞の名前に刻んだ、私的団体による私的な行為だろうと思います。

むしろこの賞は、1990年代以後の日本の音楽学(音楽評論ではなく)の生態の一端を知る補助資料になっているように思います。

そもそも、過去の受賞者の多くは、その後、音楽評論家ではなく音楽学者になっています。(まるで、若い音楽研究者が、研究費の不足を補う小遣い稼ぎに応募して賞金をゲットしているかのようにも見えます。)

そしてこれは、「実作家になれなかった者が評論家になり、評論家になれなかった者が研究者になる」という文学業界の格言とも、ちょっと違った事態であるように思うのです。

●アリオン音楽賞の音楽評論部門受賞者:

  • 1988年度奨励賞(音楽評論):大宅緒・楢崎洋子・安原雅之
  • 1990年度奨励賞(音楽評論):伊東信宏
  • 1992年度奨励賞(音楽評論):伊藤制子
  • 1994年度奨励賞(音楽評論):福島唱貴

*1996年2月2日、柴田南雄死去

●柴田南雄音楽評論賞に名称変更されて以後の受賞者:

  • 1996年度奨励賞:恩地元子・野々村禎彦
  • 1998年度奨励賞:新田孝行
  • 2000年度奨励賞:今田健太郎
  • 2002年度奨励賞:石塚潤一
  • 2004年度:該当者なし
  • 2006年度奨励賞:齋藤桂・中村芳生
  • 2007年度奨励賞:澤谷夏樹・長井進之介
  • 2008年度奨励賞:高野裕子
  • 2009年度奨励賞:竹内直
  • 2010年度奨励賞:齋藤俊夫
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音楽の世界でも、戦後すぐの吉田秀和が出てきたあとくらいの頃の音楽雑誌を読んでいると、「評論家になれなかった者が研究者になる」、志あるものはまずは評論家を目指す、というルートが暗黙に想定されていたらしき気配が感じられます。

小谷野敦さんが謎の人物と形容する平島正郎先生は、1950年代には音楽之友社の雑誌や毎日新聞に「音楽評論家」として執筆し、作曲家や演奏家との座談会などにも出ていましたが、同じフランス系で吉田秀和とキャラがかぶって追い落とされたかのように(←あくまで私の邪推ですが)、あるいは他に何かきっかけがあったのか、ある時点から研究に専念していらっしゃいました。そして1960年代の『音楽芸術』を読んでいると、徳丸吉彦先生が武満徹を論じる文章などが見つかります。実例・サンプル数は少ないのですが(文藝評論に比べて音楽評論は絶対数が圧倒的に少ない)、のちに音楽学者として生涯を終えた東大生が、若き日に音楽評論家を目指した例が複数あったようです。

以前に書いたように、柴田南雄のバルトーク論には、戦前のディレッタントの「文明批評的音楽論」に引導を渡す専門家の文章という意味合いがあったようです。柴田南雄こそが、大学で音楽を「研究」した東大生に評論への道を夢みさせたキーパーソンであると見ることは、不可能ではないのかもしれません。

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でも、むしろ1960年代は、なんといっても作曲家自身が文章を書いた時代だったように思います。武田明倫先生なども、そうした中から出てこられたのでしょうか。そして1970年代の『音楽芸術』は、お世話になった作曲家たちに年金を支払うかのように、作曲家のエッセイ・身辺雑記の連載が目立ちます。(よく知られているのは諸井誠「ロベルトの日曜日」。)そして1980年代は、まるで1950年代以前に戻ったかのように、浅田彰「ヘルメスの音楽」とか、そういう新種の文明批評的芸術論・音楽論の時代。メイン・カルチャーとサブ・カルチャーを区別するのはダサいことになって、坂本龍一がバッハを語ったりする時代ですから、依然として、「音楽学者」が出る幕はなかったように思います。細川周平さんの『ウォークマンの修辞学』が出たときも、音楽学者の本というより、ニューアカの人という感じだったのではないでしょうか。

ニューアカといえば文化人類学(中沢新一)ですから、阪大の研究室でも民族音楽学は元気があって、クリステヴァを援用しつつドビュッシーを論じていた人がいつの間にかボルネオの狩猟民族のフィールドワーカーと結婚する、というようなことが起きていましたが、そういう研究室内の風景が、どの程度、当時の外の世界とリンクしていたのかどうか。世間的にも民族音楽学に「批評的」意義が認められていたのかどうか。わたくし自身が20歳前後でゴチャゴチャした場所に巻き込まれていた最中だったので、よくわかりません。

結局、音楽学者に音楽評論の依頼が来るようになるのは、1990年代からであるような気がします。関東のことはよくわかりませんが、関西でも、音楽学の教授クラスの先生方が『音楽の友』や新聞の演奏会評を執筆するようになりましたから。そしてこの場合は、「音楽学者に(その社会的な地位への信頼を担保として)批評を依頼する」という形であったように思います。80年代に何が何だかわからなくなってしまったので、頭を冷やして仕切り直し。専門知識(と世間が思っているもの)を有する人に音楽の鑑定を依頼することで、音楽ジャーナリズムの信用回復を図ろうということだったのかなあ、と、今から振り返ると、そんな気がしないでもないですね。(鈴木淳史の『クラシック批評こてんぱん』では、こうした音楽学者の「お堅い」音楽批評の文体が、面白おかしくイジられていたものでした。)

クラシック批評こてんぱん (新書y)

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アリオン音楽賞に評論部門ができたのは、そんな時代です。二人目の受賞者が伊東信宏さんで、私はボケッとしている人間だったので先輩の伊東さんが受賞してはじめて、そんな賞があったのか、と知ったような状態でしたが、伊東さんはその後あれよあれよという間に朝日の批評欄(最初は某S記者が担当だった頃の大阪版、まもなく全国版)の執筆陣に入って、そのあと岡田暁生も朝日にスカウトされて、長木誠司さんなどとあわせて、朝日の音楽評は、片山杜秀さん以外全員が音楽学者という状態になるわけですね。みなさん順番に吉田秀和賞やサントリー学芸賞を得ていらっしゃいますから、学歴・実績を兼ね備えた第一級の執筆陣である、ということになるのだろうと思います。

一世代まえの音楽学者のように堅苦しい文章ではない、というような特徴があろうかと思いますが、それ以上に、わたくしは、これら1960年前後生まれの皆さまは、前述の「学者に音楽の鑑定を求める世間の信用」を巧みに運用する、いわば、音楽の金融工学の達人であるという印象を持っております。研究と執筆と受賞等の名誉が極めてスムーズにリンクして、事業が拡大再生産されているところもそうですし、音楽評論を書くときには「学者」の顔をして、研究活動においては「批評家」の顔をする(←書き違いではありません、自分が周囲とは違うという差異を演出するのがコツで、鳥にも動物にも「ボクは君たちの仲間です」と擦り寄るイソップのコウモリの逆、類似例として、執筆時には「ピアニストの立場」を強調して、演奏会では「本の紹介」が中心になるピアニスト兼文筆家などがある、音楽家兼文章家は市民社会の常識ですが、90年代以後の日本は、自己イメージの最大化を狙って、ことさら「ピアニストの目で見れば」とか「音楽学では」と誇示する厚かましさが大手を振ってまかり通ったところに特徴があると思います、これは「日本人が慎みを忘れるようになった」のか「日本人もようやく国際標準の自己主張をするようになった」のか、という問題ではなく、関心利害を括弧に入れるパブリックな空間のマナー(そういうものを古今東西のたいていの文化が装填している)を日本の言論がかなぐり捨てて荒っぽい商売に走ったということだと思います、閑話休題)といった、自己イメージの作り方も、いちいち巧妙な方々です。(この件については、岡田暁生を例として、ここで数年前にかなりしつこく書いたので、興味のある方は検索してみてください。)

ただ、商売というのは何でもそうだと思いますが、誰かが成功すると必ずエピゴーネンが現れて、そのことで陳腐化していくんですよね。岡田・伊東世代がこれからノシていこうかとする1991年に鷲田小彌太『大学教授になる方法』が出て、増田聡は随分熱心に読んでいたようですが(伊東信宏はアリオン賞を得た翌年1992年にハンガリーへ留学して93年大阪教育大助教授就任(受賞→留学→就職と実に無駄がない)、岡田暁生は1992年から阪大助手になって、同時に渡辺裕が助教授として阪大に赴任、増田聡の世代が音楽学研究室へ入ったのは、こういう風に大きく人事が動きつつあるタイミングでした、上手く立ち回ればなんとかなる「乱世」感があったのかもしれません)、のちに「高学歴ワーキング・プア」と呼ばれることになる90年代の学生さんたちの現在の被害度は、柳の下にまだドジョウがいると信じてしまったかどうか、によるのかもしれませんね。

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そしてそんな時代に音楽評論の賞に柴田南雄の名前が冠せられていることにシンボリックな意味を付与するとしたら、これは、学者一家に生まれた柴田南雄が、音楽における「信用の金融工学」の先駆者であった点を讃えていることになるのかもしれません。

(一時期、伊東信宏さんはわたくしの顔を観るたびに「内容は何でもいいから、本を書け」と言っていました。単著があれば仕事は来る、もしくは、何なりと仕事を斡旋する当てがある、というような含みだったのかもしれない、と思います。何ら悪気のない親切で言ってくれたのだと思っております。

でも、「内容は何でもいいから」とは、言葉の綾であるとしても酷い話だと私は思っていました。そういう優先順位なのか、と。

書いた本の内容に比して、もらった仕事の条件が良かった場合、コネをつけてくれた人への負い目がずっと心の負債として残るわけですよね。で、その後、たとえば増田聡は、実際にそのようななれ合いのネットワークをどんどん広げて、今日に至っているわけです。ワルモノたち(笑)、まあ、カタギじゃないっすよ。)

「信用の金融工学」は、学者のコミュニティーが紹介状・推薦状の文化であることだけを考えれば、何が悪いのか、という話かもしれませんし(日本では文部科学省の指導で公募が基本となり、その種の「コネ」が表面に見えてはならない形に一応なってはいますけれど、国際的な規模で紹介状・推薦状文化が標準ですし、「信用」で人事が動く局面はありますよね、「仲間」を集めて研究会を組織する=日当・旅費は出るし成果出版は助成がついて腹は痛まず良いことづくめ等々)、ブルジョワの基本が資産運用の不労所得で生活することであるのとパラレルな事態ですから、伊東・岡田両氏のような人がいることは、日本が「成熟した市民(ブルジョワ?)社会」のエンブレムとして音楽研究を処遇している証しなのかもしれず、お二人が柴田南雄賞の審査員であることは、ほとんど「歴史の必然」なのでしょう。

一方、わたくしは、根っからの貧乏性でギャンブルは一切しませんから(増田聡は学生時代に競馬にはまっていたが)、そういうのを見ていると、債務超過とか元本割れの心配はないのだろうか、とハラハラしてしまいます。折しも世間は、その種の金融破綻の報道が少し前までさかんに駆けめぐっておりましたし……。

柴田南雄の仕事をあれこれ細かく調べたのは、「本当に日本の音楽論は収支決算が合っているのか」ということを自分なりに検算しておきたい動機があったような気がしますし、現在の音楽学会を脇から覗いていると、「信用」の担保となる元金が本当にちゃんと保全されているのか、徐々に心配になってしまうのです。

(柴田南雄の考える「科学」とは、コツコツ数えて、統計を取ることだったわけですが、柴田南雄の仕事の総括には、「経済効果」とか「収支決算」という比喩が似合う気がします。)

センチュリー交響楽団は、財団基金の元金を取り崩しつつ、いけるところまでいこうとしているわけですが、日本の音楽学は、その姿を他人事だと思うことができるのか。(ちなみにセンチュリー交響楽団の設立は1990年で、現役音楽学者兼音楽評論家の方々による信用の金融工学がまさに始まろうかという時期です。)沼尻竜典氏が、センチュリーから「美味しいところ」だけを吸い上げるような仕事をしていることを、音楽学者の音楽評論が誉めている図は、本当にそれで大丈夫なのか、と思ってしまったりするわけですが、これはもはや、柴田南雄から遠く離れた話題なので、このあたりで番外編は終わりにしたいと思います。

(ヴィスコンティの滅びは西欧芸術の精髄であり、「日本のヴィスコンティ」を気取る衝動を押さえられない人というのがいるのかもしれず、そういうのは周りが止めても無駄なのかもしれませんから……。)

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柴田南雄を偉くすることで誰が得をしたのか、知りたいことの概略はわかったので、柴田南雄の話も、よほど新しい何かが出てこないかぎり、打ち止めの予定でございます。

(なお、念のために申し添えますと、東京藝大周辺では、現在、作曲家になるにはそれ専用の先生について子供のころからレッスンをして、楽理へ行きたい場合には、それ専門の受験塾のようなものがあるようです。ですから、日本音楽学会全体で見れば、そういう形で人材の「再生産」が可能な状態になっており、資産が枯渇することはないのかもしれません。トーキョウはスマートに近代化しており、関西は、ギャンブルまがいの危ない水商売を続けている、という通俗的なイメージが、あっけないほど上手く、音楽学業界にはあてはまりかねないところが、なんだかなあ、ということです。

「私たちが柴田南雄先生の志を継ぎます」という名目で、ちょろっと作文して江戸さんのところからお小遣いをもらうくらいは、見逃してちょうだい、というところなのかもしれませんし、吉田秀和やサントリーからもらった賞金で新車を買う程度の小さな贅沢は、水商売の余得としては可愛いものなのでしょう。そして、しかるべき教育リソースを注いだお受験を経てお育ちになった「正しい日本の音楽学者」の方々から見れば、国立大学に行って、学者=書生になるしか生きるすべのない連中のもがく姿は、御殿の外の賤しき者どもの騒動に過ぎないかもしれませんが、それが、麗しき階級社会というものなのでしょう。知識人などというと聞こえはいいけれど、貧乏人は知恵を絞れ、ということですね。)

客分と国民のあいだ―近代民衆の政治意識 (ニューヒストリー近代日本)

客分と国民のあいだ―近代民衆の政治意識 (ニューヒストリー近代日本)

現在の感覚で読んだときにどこかもどかしく歯切れが悪いように感じてしまうのは、現在の日本ですべての人がフルメンバーとしての「国民」であるとの安心感を持っていいとは思われないからなのかもしれません。

高等遊民の「客分」意識は、本書で最初から議論の対象でないと明言されていますが、書生=学者は今も「客分」意識が抜けていないし、「客分」意識を運用するほうが有利であるとの信念が根強く伝承されているようです。

そしてかつて日本が近代化のモデルとしたヨーロッパの社会もまた、実際には、イタリアでもスペイン(ポピュラー音楽でヒスパニックを言う人たちは、どうして宗主国スペインの音楽の研究と連携しようと発想しないのだろうか? 戦後日本のフラメンコ・ブームとは何だったのか、とか)でも東欧でも、自分をフルメンバーの「国民」であるとは考えない人々(それは必ずしも社会の「下層」や「周縁」であるとはかぎらない)を当たり前に抱えているように思いますが、そういうのと、江戸伝来とされる「客分」概念と、高等遊民の自意識と、それぞれは似ているところがあるから共通に括って考えていいのか(伊東信宏『中東欧音楽の回路』を私たちが面白いと感じてしまうのは、そのあたりの曖昧な共感へと誘導されるからだと思う)、厳密には、そういう風に一括りにしてはいけないのか、といったことが知りたいです。