「1961年8月25日」 - 大阪・第4回現代音楽祭第1日 ジョン・ケージ「ピアノとオーケストラのためのコンサート」日本初演

[細かく少しずつ加筆・修正しています。8/3 第4回現代音楽祭プログラムのデザイン等の話を増補。]

先日届いた『阪大音楽学報』第9号の上野正章「1961年の日本においてジョン・ケージの音楽と思想はどのように広がっていったのか」が興味深かったので、忘れないうちに思いついたことをメモ。

この論文は、「ピアノとオーケストラのためのコンサート」の日本初演(第4回現代音楽祭初日、1961年8月25日、大阪・御堂会館)の前後の時期のケージ論、具体的には1960-61年の国内一般紙(誌)におけるジョン・ケージ関連記事の調査レポートです。(ちなみにケージ本人とチュードアの来日は翌1962年。)新聞のマイクロフィルムをラジオ欄の「今日のお薦め番組」に至るまで全部独力で確認するという、とてつもなく根気の要る仕事の成果報告です。

論文の主旨から少し逸れますが、私は自分の関心に引きつけて、第4回現代音楽祭の舞台裏を垣間見た気がしました。

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20世紀音楽研究所の現代音楽祭は1957-1959年に3年続けて軽井沢でやって、1年休んだ4回目の1961年が大阪。イベントの開催地変更は、主催者の目線で考えると心配事が多かっただろうと思うのですが、上野さんのレポートによると、テーマとなる「アメリカ音楽」(とりわけジョン・ケージ)について、事前に吉田秀和、黛敏郎、一柳慧が全国紙に目立つ記事を書いたそうです。これは、イベントの当事者が使える媒体を利用したのかなあ、という感じがしました。

それから、大阪のメディアでは、「毎日新聞」(大阪)と夕刊紙「新大阪」に大がかりな事前記事が出ているそうなのですが、これは、柴田南雄の自伝の記述を思い出しました。

1956年に柴田南雄、入野義朗、諸井誠、黛敏郎が現代音楽祭の準備のための最初の会合を開いたらしいことは以前にも紹介しましたが(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110619)、柴田はそのときの覚え書を保存していたようです。そして、

[この会合で決めたことの]第二項では、「音楽芸術」誌つまり音楽之友社、毎日新聞社、文化放送に後援を依頼すること、特に文化放送には放送と、日本フィルハーモニー交響楽団のメンバーの参加の両面からの援助を要請すること。演奏者として岩淵龍太郎、森正の両君にはぜひ強力な協力者になってもらう必要があることを確認した。(289頁)

ここで実名がいくつも出ているのは、何を書き何を書かないかという仕分けが極めて精緻な柴田南雄のことですから、実名を書いても先方に迷惑がかからない程度に、決めたことが(ある程度)実現したのだろうと思われます。

では、毎日新聞社は、本当に現代音楽祭をバックアップしたのかどうか?

残念ながら、第4回現代音楽祭のプログラムの謝辞には、毎日新聞社の名前は出ていないので、依頼したが無駄足で毎日の支援はなかったのか、それとも、支援を受けたけれども、特定の新聞社の色が付くことを避けて表に出さなかったのか(←20世紀音楽研究所に既存の党派性をもちこまない配慮として、そういうことがあっても不自然ではなさそうではある)、手元の情報では判断がつきません。

[……]ここに集まられた皆さまが・この3日間の体験を通じて・今世紀の音楽がすでに獲得したもの・現に探究しつつあるもの・新たに自分に課しつつあるもの等について・共感と理解を進めることになったら・私たちの喜びも小さくないでしょう 私たちの行事は小さなものですが・それでもこれを実現するには多くの方々の後援や協力が不可欠でした 今年も大使賞を設定されたドイツ連邦共和国大使閣下・最終日を後援されることになった日墺協会の方々・挨拶を送って下さった在日オーストリア大使館のトマス博士・音楽之友社・日本楽器株式会社・多大の援助と力強い支援を下さった大原総一郎氏・その他ここにお名前を上げないけれども・物心両面で協力を頂いた方々に心からお礼申し上げます [……]

1961年6月25日

20世紀音楽研究所[以下、所員の氏名]

オーストリア関係から支援があったのは、第4回現代音楽祭が「シェーンベルク歿後10年記念」と銘打っていたからだと思われます。(3日目がシェーンベルク特集でした。)

それにしても、こうして書き写してみると、20世紀の芸術史を彩ってきた様々な「前衛運動」の「宣言文」の攻めのイメージから、思い切り遠い文体です。「皆さま」の「理解」と「共感」が「私たち」の「喜び」になるような交歓の場。この優しい感触は吉田秀和の文体かな、という気がします。

プログラムは、デザインが斬新です。表紙が「音楽芸術」と同じテイストなので、杉浦康平の仕事でしょうか? 同心円を描いた文字のない表紙を開くと、左頁の中央にぴたりと横一列に収まる小さな活字で「シェーンベルク歿後10周年記念 第4回現代音楽祭=大阪」と記され、右頁は画面からはみださんばかりに横顔をトリミングしたシェーンベルクのうつむき気味の顔写真。次の頁をめくると、ようやく上の挨拶文が出てきます。この挨拶文だけでなく、プログラム全体を通して、すべての文章は読点のかわりに「・」を使い、句点のかわりに「アキ(スペース)」が入る特異な書式です。「文」から解放された、いわば「無調の文字列」をデザインしようとしているかのようです。(内容は普通の日本語なんですけどね。)

ところが、こうした無重力的でニュートラルなプログラムのなかで、最後の2頁だけは、いわば生臭い感じに、音楽之友社「世界大音楽全集 8月完結!」(←音楽学会の皆さん、世界音楽=ワールド・ミュージックですよ!http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110709/p1)の見開き全面広告になっています。(広告ページも、通常の句読点を使わない原則が貫かれており、強烈なポリシーを感じさせますが……。)ひょっとすると、プログラムの作成を音友が引き受けて、そのかわりに独占的に広告を入れたのかも……。そして日本楽器株式会社は、もしかすると、楽器調達か何か具体的な支援をしたのか?

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でも、大阪音大の音楽博物館が持っている資料を見ると、大阪・毎日ホールの推薦新人演奏会(1961年7月26日、毎日新聞社主催)のプログラムに、どういうわけか、かなり大きな「第4回現代音楽祭」の告知が掲載されています。それから、上野さんの論文には、相当に内部事情に通じた記者が書いたと思われる夕刊紙「新大阪」の記事が紹介されていますが、「新大阪」は「毎日新聞」の系列紙。どれも傍証で、決定的なことは言えませんが、公演の主催者である20世紀音楽研究所側の意向を知ってか知らずか、毎日新聞社、特に大阪毎日は、第4回現代音楽祭の大阪開催にかなり肩入れしているように見えます。

(そういえば、1960年に20世紀音楽研究所の音楽祭がなかった理由を、柴田の自伝は、朝日新聞主催の「東京音楽祭」があったからだと説明しています。もし、「現代音楽祭」が毎日新聞系で、「東京音楽祭」が朝日新聞系だとしたら、これは、昭和の文化・スポーツ事業(高校野球・吹奏楽や合唱やソリストなどの各種音楽コンクール・メニューイン等の大物演奏家の招聘合戦etc.)に大きな影を落としていた「朝日vs毎日」競争の一例なのでしょうか?

上野論文によると、大阪の現代音楽祭の事後の公演評では、吉田秀和のものがケージに関して格段にバランスが取れているし、踏み込んだ評価を下しているようです。1950年代に毎日新聞で音楽評を書き、のちには朝日新聞でご存じ「音楽展望」を書くことになる吉田秀和の1961年のケージ評が出たのは、朝日&毎日という大阪系の新聞ではなく、東京の正力松太郎の讀賣新聞。なかなか味わい深いです。

『音楽芸術』には、20世紀音楽研究所メンバーと関西の音楽評論家による第4回現代音楽祭についての座談会が出ているのですが、これは、東京側と関西側の微妙な温度差が感じられるテクストです。研究所側では、新しい土地で音楽祭がどうなるかと思っていたのだけれども、蓋を開けてみると、会場は、これまでとは随分違う不可解な盛況ぶり(←軽井沢と大阪の会場の雰囲気の違いについては、様々な証言があります)。そうした盛り上がりに一役買った関西メディアの事前報道は、東京の研究所側が詳細には把握できない「想定の範囲外」(笑)でなされたのではないかという気がします。

(上野論文が扱う一般紙(誌)や、従来からしばしば参照されてきた東京の音楽雑誌だけでなく、「関西音楽新聞」などの関西の西洋音楽情報紙にも、いくつか、第4回現代音楽祭の事前や事後の記事があります。このイベントの観客には、コアな事情通と一般人の中間の、大阪フィルの定期会員であるようなコンサートに通い慣れた「関西の音楽ファン」が、一定数含まれていたのではないかと思います。)

で、吉田秀和というのは、色々なところに首をつっこむのだけれども党派性を嫌う人でもありますし、讀賣新聞というのは、主催者・後援者とも、新聞社同士の競争とも、開催地大阪の吉田秀和には到底掌握しきれなかったであろう諸事情とも、現代音楽業界とも一定の距離を取ることができる絶妙の媒体だったかもしれませんね。)

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ただ、このあたりは、柴田南雄の自伝に出ている軽井沢の現代音楽祭開催時の毎日新聞社への後援依頼の直接・間接の効力ではなく、大阪毎日の記者の判断である可能性もありそうです。

というのは、当時の大阪毎日の音楽担当はのちに音楽評論家として独立した渡辺佐さんで、以前にご本人に伺ったところでは、渡辺さんは推薦新人演奏会のような自社主催演奏会の企画もしていらっしゃったようですし、関西の作曲家としては、大栗裕のような保守的な「朝比奈派」より、20世紀音楽研究所や現代音楽祭とも関わりの深い松下眞一を高く評価していたようです。大阪・毎日新聞の記事は、担当記者の裁量でできる範囲のことであるようにも思われます。

(そしてもしかすると、「去年は朝日が東京で音楽祭をやったのだから、大阪の毎日の音楽祭が負けるわけにはいきませんよ」等々、デスクと巧みに交渉して、大きな掲載枠をゲットしたのかも……。あくまで想像ですが。)

上野さんの論文によると、渡辺佐さんは、現代音楽祭のあとで、『音楽の友』の座談会にも出ていらっしゃるようですから、熱心に取材もされたのだろうと思います。

以上、このあたりは、もはや「真相」を正確に判定するのが難しそうな事柄ですが、事態を立体的に捉える参考になるかもしれないと思ったので。

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上野さんの論文によると、第4回現代音楽祭のジョン・ケージについては、半ば当然ではありますが、東京発のメディアよりも、在阪メディアでの報道が格段に多く、内容もケージを肯定するものから否定するものまで多彩だったようです。

こうした、1961年の関西での時ならぬケージ&前衛音楽への関心の高まりは、「ケージ・ショック」の前哨戦というだけでなく、翌年1962年の松下眞一による「大阪の秋」現代音楽祭(松下眞一が「Metamusik I」として、“偶然性”もしくは“ハプニング”のパフォーマンスを披露した←渡辺佐さんはそれを見て「松下眞一は気が狂ったのか」とビックリしたらしいです)を経て、この名称を関西交響楽協会が引き継いで主催した1963-1977年の国際現代音楽祭へつながるものでもあったように思われます。

それにしても、ケージの「ピアノとオーケストラのためのコンサート」が1961年の夏に日本初演されてから、今年でちょうど50年なのですねえ。

P. S.

……そしてここまで書いてから読み直して気がついたのですが、1961年8月25日といえば、大栗裕が同年11月に朝日放送の文部省芸術祭参加作品「雲水讃」として完成することになる管弦楽曲の取材のために、京都へ六斎念仏を見に行ったと推定される、まさにその当日です!

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110325/p1

この日の京都の六斎念仏の奉納は7時か8時頃からだったはずで、現代音楽祭コンサートの開始時刻はプログラムによると「p.m. 6:30」ですから、大栗裕は第4回現代音楽祭初日には行っていない。彼は、ケージが御堂会館で上演されていた同じ時刻に確実に京都にいて、そのとき大栗が収録したオープンリールテープが、私の「雲水讃」レポートの鍵になっていたのでした。

だからどう、というわけではないのですが、

そして無理に意味づけしようとすれば、大栗裕が仏教への関心を明確に打ち出した鍵になる作品「雲水讃」の制作は、ジョン・ケージの「偶然性」が日本に、大阪に上陸したまさにその夜の京都で始まった、それは、大栗裕が「前衛・実験音楽」と決定的にすれ違う時空にいたことを象徴している、と言えば言えないことはないかもしれませんけれど(大栗裕は生涯「偶然性」や「不確定性」のスコアを書くことはありませんでしたし……、ただ1962年の松下眞一の「大阪の秋」に大栗が歌曲を出品しているので、60年代になっても前衛・実験運動と没交渉だったわけではなく、むしろ常にその動向に関心を持っていたらしき痕跡はあるのですが)、

そんなことより、上野さん(とは大学院で一番色々なことを話した気がします)とほとんど同じ時期に、まったく別個に、50年前の同じ日の同じ時刻に京都と大阪で起きた出来事をめぐってあれこれ細かな資料を調べていたのかと思うと、そのほうが、わたくしには面白かったです。

これが「偶然性」?

(ちょっと違うか(笑)。

でも、大栗裕が「雲水讃」という曲を書いたのが今の私と同じ45歳だったというのを含めて(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110327/p1)、世界の森羅万象に「意味」があるなどと考えるとあまりにも息苦しくなりそうですから、「偶然」は大事ですね。

究極に精緻なエクリチュールは、ブーレーズやR. シュトラウスのように感情の起伏が激しすぎない「長生きタイプ」の人に任せることにして。→ http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/20906344.html