朝比奈隆とベルリン・フィル定期演奏会(Abonnementkonzert)

ベルリン・フィルが100周年を記念して刊行した公式記録 Peter Muck (hrsg.), Einhundert Jahre Berliner Philharmonisches Orchester, Hans Schneider, Tutzing, 1982, 3 Bde の第3巻にBPOの全演奏記録(漏れや不審点はあるらしいのですが)が出ていると教えていただき、大阪音大にあったので早速内容を確認。それをもとに、前にご紹介した朝比奈隆のBPO出演記録を訂正しました。

彼が指揮した3回のBPO演奏会のうち、3回目(1958年12月)だけでなく、2回目(1957年10月)も定期演奏会(Abonnementkonzert)だったようです。

  • 1956年6月21[、22]日 5. Konzert der Symphonischen Zwischensaison(シーズン間第5回交響曲演奏会) ベルリン高等音楽院ホール *芥川也寸志「弦楽のための三楽章」、大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」、ベートーヴェン「交響曲第4番」ほか
  • 1957年10月9日 Das Theater der Schulen(学生劇場)、同10日 2. Konzert[Abonnementkonzert] der Reihe C (定期演奏会シリーズC第2回) いずれもベルリン高等音楽院ホール *ベートーヴェン「交響曲第1番」、バルトーク「ピアノと管弦楽のためのラプソディ」(with アンドール・フォルデス)、レスピーギ「ローマの祭」
  • 1958年12月7、8日 3. Abonnementkonzert der Reihe A (定期演奏会シリーズA第3回) ベルリン高等音楽院ホール *ギュンター・ヴィアレス「ロマンツェーロ」[初演]、メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」(with ヘンリク・シェリング)、チャイコフスキー「交響曲第4番」
      • -

朝比奈隆が初めてBPOを指揮した1956年6月は、カラヤンが首席指揮者に就任したすぐあとです。上記『ベルリン・フィル100年』の公演リストを順に見ていくと、戦後BPOの定期演奏会が復活したのは1950/51年シーズンで、Aシリーズ、Bシリーズ各8回計16公演。チェリビダッケ等の指揮者が登場しており、フルトヴェングラーの演奏会は定期とは別枠になっていたようです。

フルトヴェングラーが11月に急死した1954/55年シーズンで定期演奏会がA、B、Cの3シリーズ各8回計24公演に増えて、この体制は、このあとずっと続いています。

(N響のA定期、B定期、C定期、というのは、たぶんこれをマネしたんですね。)

カラヤンは、BPO首席指揮者2シーズン目の1956/57年に、終戦後途絶えていたフィルハーモニー演奏会 Philharmonisches Konzert im Abonnement を復活させて、全8回をすべて自分で指揮しています。定期演奏会は客演指揮者の担当です。(公演記録では、しばらくして、フィルハーモニー演奏会が「定期演奏会Pシリーズ」という表記に変わっています。定期演奏会にP、A、B、Cの4シリーズ各8回計32公演あって、このうちPシリーズはカラヤンの指揮、と考えればよさそうです。)

      • -

さて、朝比奈隆が1956年6月に指揮した「5. Konzert der Symphonischen Zwischensaison」とは何かというと、この頃の定期演奏会のスケジュールは、9月にシーズンが開幕して、翌年の4月中には各シリーズの8回目が終わっています。5、6月はすでに「シーズン・オフZwischensaison」で、朝比奈が出演したのは、いわば、夏休み直前短期集中特別企画だったようです。

  • 第1回、1956/5/25 ハインツ・ワルベルク、ハイドン/「オックスフォード」交響曲ほか
  • 第2回、1956/5/30 クラウス・プリングスハイム、マーラー/交響曲第5番ほか
  • 第3回、1956/6/13 Theodor Vavajannis、ブラームス/交響曲第4番ほか
  • 第4回、1956/6/19 Bernhard Conz、フランク/交響曲ニ短調ほか
  • 第5回、1956/6/21 朝比奈隆、ベートーヴェン/交響曲第4番ほか
  • 第6回、1956/6/26 オイゲン・ヨッフム、「シューマン歿後100年」シューマン/交響曲第4番ほか

プリングスハイム(1883-1972)、ヨッフム(1902-1987)というベテランの名前が見えますが、残りの4人は、のちにN響でおなじみになった当時33歳のワルベルク(1923-2004)を含めて、いずれもこの演奏会がBPO初登場です。

Bernhard Conz(←知らない私が無知なだけかも、と不安なのですがプロフィール不詳)は、このあと、1956/57年シーズン(B定期第1回1956/9/6,7)、1957/58年シーズン(C定期第4回1958/1/21)、1958/59年シーズン(C定期第4回1959/1/13,14)、1959/60年シーズン(B定期第1回1959/9/9,10)と4年続けて定期演奏会を指揮していますが、オーディション首席合格のような扱い、という理解でいいのでしょうか。

Theodor Vavajannis(プロフィール不詳)の名前は、ざっと見たかぎりでは、その後数年のBPO演奏会に見当たりません。

朝比奈隆も、1957/58年シーズン(C定期第2回1957/10/10)、1958/59年シーズン(A定期第3回1958/12/7、8)と2シーズン続けて定期演奏会に招かれているので、オーディションに次点で合格したような位置づけだったと見ることができるのでしょうか。

(ワルベルクの名前もBPO定期にはその後見当たりませんが、彼は1955-60年にブレーメン歌劇場のGMD、1960-74年にヴィースバーデン歌劇場のGMDだったらしいので、シーズン中に他の街のオーケストラに客演するのは難しかったのかもしれませんね。)

      • -

山根銀二の『音楽の旅』(1956年)を見ると、彼はカラヤンが首席指揮者に就任した1955/56年シーズンの開幕直後、芸術週間の期間でもある1955年9月から10月にベルリンに滞在して、何度かBPOの演奏会を聴いていたことがわかります。

9月4日にBPOのシーズン最初の定期演奏会(A定期第1回、オイゲン・ヨッフム指揮)を聴いて、彼はこんな風に書いています。

ベルリン・フィルのオケはさすがに立派である。神経がよくとおって、ピンと張りきったものが感じられる。[……]しかもただのメカニックでなく、完全に音楽的なのだ。これをつかいこなせる指揮者は、そう多くはあるまいと思われる。現にこのヨッフムは落第である。ベルリンは西の世界から切りはなされた孤島なので、音楽家も来演が少いし、指揮者も今は良い人がいないように見受けられる。常任のカラヤンはほかがいそがしくて、ほとんど寄り着かぬのだから、その穴埋めに方々から臨時をつれてきている。しかし優れた人は稀である。(山根銀二『音楽の旅』、岩波書店、1956年、117-118頁)

カラヤンが多忙でベルリンに「ほとんど寄り着かぬ」状態は、上でご紹介したように、次のシーズンから全8回のフィルハーモニー演奏会が設けられることで解消されますが、当時の西ベルリンが「陸の孤島」で(「壁」の建設は1961年なので、まだ少し先ですが)、「指揮者も今は良い人がいない」というのは、ひょっとしたら、正確な観察だったのではないでしょうか。(敗戦後数年間のN響=当時の日響が人材難に苦しんでいたのと、ちょっと似たような状態だったのかもしれません。)当時のBPOは新しい人材を求めていて、朝比奈隆は、うまくそのチャンスをつかんだ一人だったように思われます。

(山根銀二の旅行記は、当時のBPOのホームグランド、ベルリン高等音楽院ホールの外観の写真が出ていたり、なかなか「使える」本ですね。)

      • -

[余談]

ヨーロッパへ渡った小沢征爾が、ブザンソンとタングルウッドのあとでカラヤンの手厚い指導を受けることができたのも、当時の西ドイツの深刻な後継者不足が背景にあったのではないでしょうか。

なお、小澤とカラヤンの師弟関係については、日・英・独のウィキペディア記述が少しずつ食い違っています。

カラヤン指揮者コンクール第1位。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。

Receiving a scholarship to study conducting with famous Austrian conductor Herbert von Karajan, Ozawa moved to West Berlin.

Durch Michiko de Kowa-Tanaka bekam er ein Stipendium bei Herbert von Karajan.

「カラヤン指揮者コンクール」というのは正体不明ですが、何らかの援助を受けて小澤がベルリンに滞在して、カラヤンの教えを受けたのは確かなのでしょう。ヨーロッパのハイ・ソサエティは、バックアップしたい特別なタレントを見つけると、もっともらしい理屈をつけてルールや制度のほうを曲げてしまって、私情とオフィシャルの境目が部外者からよくわからない状態にしてしまうのが得意技なようですし(F1のレギュレーションを見ていれば一目瞭然でございましょう^^;;)、オザワとカラヤンの師弟関係にも、きっとそういう力学が働いたのでしょう。

そしてセレブな人たちが、オザワという敏捷な小動物を思わせるジャパニーズを指揮者として庇護するときに、直近の朝比奈隆の事例は、戦前の近衛秀麿や貴志康一のケースよりも、はるかに現実的な先例になったのではないかと思います。小沢征爾が、「朝比奈先生」を海外で仕事をする日本人指揮者にとって大切な先駆者と言うのは、そういう意味合いだろうと思います。

      • -

[余談2]

『ベルリン・フィル100年』の巻末には、「1882年以来の指揮者・独奏者・独唱者・ナレーター・ダンサーの初出演」という一種の索引があります。そこに日本人指揮者が13人出ていますね(見落としがあったらゴメンナサイ、なおこの記録は「1882年から1982年まで」なので、それ以後のことはわかりません)。索引には、初登場の日付しか出ていないので、これがどういう演奏会なのか、そのあとどういう演奏会に何回出演したのか等々は、本文を自力で調べろということですね。

こういうことを調べるのがお好きな方は、間違いなく複数いらっしゃると思うので、どうぞよろしくお願いします。

  • 近衛秀麿 (1898-1973) 3. Okt. 1933
  • 貴志康一 (1909-1937) 18. Nov. 1934
  • 山田一雄 山田耕筰 (1886-1965) 22. Juni 1937
  • 尾高尚忠 (1911-1951) 10. Dez. 1939
  • 朝比奈隆 (1908-2001) 21. Juni 1956
  • 大町陽一郎 (1931-) 2. Juli 1959
  • 岩城宏之 (1932-2006) 10. Juni 1963
  • 渡辺暁雄 (1919-1990) 30. Sept. 1965
  • 小沢征爾 (1935-) 21. Sept. 1966
  • 小泉和裕 (1949-) 26. Nov. 1973
  • 若杉弘 (1935-2009) 22. Juni 1976
  • 岩村力 (??- ) 13. Nov. 1977
  • 高関健 (1955- ) 13. Nov. 1977
  • 竹本泰蔵 (1956- ) 13. Nov. 1977

[索引で、山田耕筰であるべきところ(S.461 Sp.2)が「Yamada, Kazuo」となっているのは、この本を活用する人の間では結構有名なビックリミスらしいです。(ご指摘ありがとうございます。というより、山田一雄が駆け出しの25歳でベルリンへ行ったはずがないことに気づかず、書いてあることを機械的に写してしまったのがお恥ずかしい。)]