サラリーマンは吉田秀和を「お前」と呼ぶ(『批評草紙』正・続(1965年)のこと)

音楽之友社から1965年に出た吉田秀和『批評草紙』と『続 批評草紙』は、同社『音楽芸術』に色々なタイトルで書き継いできた連載などから、39編を選んでまとめた本。吉田秀和が音楽之友社から翻訳ではないエッセイ集を出したのは、これが最初です。

なんとも不思議な感触のエッセイ集です。このとらえどころのない感じは、彼の全集のとらえどころのなさにも通じるというか、その原形のような気がします。

39編のうち、(見落としがあるかもしれませんが)およそ三分の一は全集に未収録。全集に再録された二十数編も、あっちこっちにバラバラに入っています。ひとまず、吉田秀和全集の「作曲家論」「演奏論」「作品論」……というようなテーマ別分類には、きれいに収まらないエッセイ集だということになるのでしょうか。

目次に、全集との関係を書き入れてみます。

吉田秀和『日本を見る眼 批評草紙』、音楽之友社、1965年1月25日

  • 第一部
    • 西欧文明の摂取と模倣 [全集未収録]
    • 青丹よし寧楽の都の → 全集10 エセー
    • 京都と東京 [全集未収録]
    • 東京再説 [全集未収録]
    • 日本の面影 → 全集10 エセー
    • 蛙の庭で、眼は思考への変圧器となる → 全集10 エセー
    • 日本の芸術の合理と不合理 [全集未収録]
    • 日本の一世紀 → 全集10 エセー
    • 恥の文化 [全集未収録]
    • 東京の秋とベルリンの秋 → 全集12 カイエ・ド・クリティク1
    • 〈古典〉の効用について → 全集10 エセー
    • 宗達展をみて → 全集10 エセー
  • 第二部
    • 近代的管理の欠如と現代日本の芸術 → 全集3 作曲家論3 二十世紀の音楽
    • 武満徹と静謐の美学について → 全集3 作曲家論3 二十世紀の音楽
    • サイバネティックスとチャンス・オペレーション → 全集3 作曲家論3 二十世紀の音楽
    • 音楽批評について → 全集9 音楽展望
    • 批評再説 → 全集9 音楽展望
    • 批評の精神 → 全集9 音楽展望

吉田秀和『続 批評草紙 --創作と演奏のあいだで--』、音楽之友社、1965年9月15日

  • 第一部
    • 創作と演奏のあいだで → 全集4 演奏論1 現代の演奏
  • 第二部
    • ワグナーと現代 [全集未収録]
    • ベルリン・ドイツ・オペラ [全集未収録]
    • ベネデッティ・ミケランジェリ → 全集6 演奏論3 ピアニストについて
    • グレン・グールド讃 → 全集6 演奏論3 ピアニストについて
    • ケンプ・ゼルキン・アラウ → 全集6 演奏論3 ピアニストについて
    • 寸描への試み [全集未収録]
  • 第三部
    • なぜ西洋音楽か → 全集12 カイエ・ド・クリティク1
    • 《調和の幻想》 → 全集12 カイエ・ド・クリティク1
    • 音楽家と公衆 → 全集12 カイエ・ド・クリティク1
    • 日本の交響楽運動 → 全集12 カイエ・ド・クリティク1
    • 音楽放送について → 全集12 カイエ・ド・クリティク1
    • 演奏の《質》について → 全集4 演奏論1 現代の演奏
    • 解説の効用 [全集未収録]
    • 良い音楽と悪い音楽 [全集未収録]
    • 古き悪しき歌 [全集未収録]
    • 歌詞のわかる・わからないということについて [全集未収録]
    • 絵画・運動・時間 → 全集10 エセー
    • 京・大阪日記 [全集未収録]
    • 《ラインの乙女たちの歌》 → 全集10 エセー

何がどうなっているのか、なんとも要領を得ません。

そこで、今度は別の角度から、巻末にひととおり初出が記されているので、情報を補って、所収エッセイを書いた順番に並べ直してみました(こういう作業にExcelって便利!)。

そうすると、発表媒体(掲載誌紙)が移り変わっているのがわかります。『批評草紙』に収録された各エッセイの成り立ちは、大きく3つの時期に分けて考えることができそうです。

(1) 1957-1961年:『音楽芸術』の連載より

  • 『音楽芸術』1957年4月号(批評草紙 4) → 音楽批評について [1-2-04]
  • 『音楽芸術』1957年9月号(批評草紙 8) → 批評再説 [1-2-05]
  • 『音楽芸術』1957年10月号(批評草紙 9) → 批評の精神 [1-2-06]
  • 『音楽芸術』1957年12月号(批評草紙 11) → 古き悪しき歌 [2-3-09]
  • 『音楽芸術』1958年1月号(日本とその文明について 1) → 西欧文明の摂取と模倣 [1-1-01]
  • 『音楽芸術』1958年2月号(日本とその文明について 2) → 青丹よし寧楽の都の [1-1-02]
  • 『音楽芸術』1958年3月号(日本とその文明について 3) → 京都と東京 [1-1-03]
  • 『音楽芸術』1958年4月号(日本とその文明について 4) → 東京再説 [1-1-04]
  • 『音楽芸術』1958年6月号(日本とその文明について 5) → 日本の面影 [1-1-05]
  • 『音楽芸術』1958年7月号(日本とその文明について 6) → 蛙の庭で、眼は思考への変圧器となる [1-1-06]
  • 『音楽芸術』1958年8月号(日本とその文明について 7) → 日本の芸術の合理と不合理 [1-1-07]
  • 『音楽芸術』1958年9月号(日本とその文明について 8) → 恥の文化 [1-1-09]
  • 『音楽芸術』1958年12月号(日本とその文明について ?) → 東京の秋とベルリンの秋 [1-1-10]
  • 『音楽芸術』1960年8-12月号(創作と演奏のあいだで--ひとつの考察 1-5) → 創作と演奏のあいだで [2-1-01]
  • 『音楽芸術』1961年1月号(Cahier de Critique 1) → 武満徹と静謐の美学について [1-2-02]
  • 『音楽芸術』1961年2月号(Cahier de Critique 2) → 演奏の《質》について [2-3-06]
  • 『音楽芸術』1961年3月号(Cahier de Critique 3) → 〈古典〉の効用について [1-1-11]
  • 『音楽芸術』1961年4月号(Cahier de Critique 4) → 日本の一世紀 [1-1-08]
  • 『芸術新潮』1961年6月号(世界音楽祭を全部きく) → 寸描への試み [2-2-06]
  • 『音楽芸術』1961年7月号(Cahier de Critique 7) → 宗達展をみて [1-1-12]
  • 『音楽芸術』1961年9月号(Cahier de Critique 9) → 近代的管理の欠如と現代日本の芸術 [1-2-01]
  • 『音楽芸術』1961年11月号(Cahier de Critique 11) → サイバネティックスとチャンス・オペレーション [1-2-03]

(2) 1961-1963年:一般紙への単発寄稿より

  • 『讀賣新聞』1961年11月8日 → 絵画・運動・時間 [2-3-11]
  • 『讀賣新聞』1962年2月12日、3月3日 → 音楽放送について [2-3-05]
  • 『讀賣新聞』1962年4月11日 → 解説の効用 [2-3-07]
  • 『朝日新聞』1963年5月11、12日 → ワグナーと現代 [2-2-01]
  • 掲載紙不詳、1963年11月頃か? → ベルリン・ドイツ・オペラ [2-2-02]

(3) 1964-1965年:『讀賣新聞』(「音楽時評」)と『音楽芸術』(「かいえくりちっく」)より

  • 『音楽芸術』1964年3月号(かいえくりちつく) → 良い音楽と悪い音楽 [2-3-08]
  • 『讀賣新聞』1964年3月20日(「音楽時評」) → 《調和の幻想》 [2-3-02]
  • 『讀賣新聞』1964年4月10日(「音楽時評」) → 日本の交響楽運動 [2-3-04]
  • 『音楽芸術』1964年5月(かいえくりちつく) → 歌詞のわかる・わからないということについて [2-3-10]
  • 『讀賣新聞』1964年5月11日(「音楽時評」) → なぜ西洋音楽か [2-3-01]
  • 『音楽芸術』1964年8月(かいえくりちっく) → 《ラインの乙女たちの歌》 [2-3-13]
  • 『讀賣新聞』1964年8月21日(「音楽時評」) → 音楽家と公衆 [2-3-03]
  • 『讀賣新聞』1965年3月1、27日(「音楽時評」) → ベネデッティ・ミケランジェリ [2-2-03]
  • コロムビア・レコードOS423-4 [1965年4月] → グレン・グールド讃 [2-2-04]
  • 『音楽芸術』1965年6月(かいえ・くりちっく) → 京・大阪日記 [2-3-12]
  • 『讀賣新聞』1965年6月1日(「音楽時評」) → ケンプ・ゼルキン・アラウ [2-2-05]

エッセイの話題・内容・語り口はふわふわと浮遊しますが、素材の出所は整然としています。

ポイントは、『音楽芸術』の連載が、実は1960年代のはじめに、何年か途絶えていたということでしょうか。

『批評草紙』では、その時期の話題を新聞に書いた文章で補って、さらに、『音楽芸術』での連載の再開とほぼ同時にスタートした『讀賣新聞』の「音楽時評」を加えることで、断面やつなぎ目を隠して、新聞への寄稿が他から浮き上がらない仕上がりを実現しているようです。

[補足]

なお、『続 批評草紙』巻末の掲載誌一覧は「ベネデッティ・ミケランジェリ」が抜けていて、「ベルリン・ドイツ・オペラ……《夕刊読売新聞》昭和四十年三月一日・二十七日号」となっていますが、彼らの来日時期から考えて、本来の文面は次のようなもので、おそらく組版の際に[ ]内を落としてしまったものと思われます。

  • ベルリン・ドイツ・オペラ[……《掲載紙不詳》昭和三十八年十一月頃]
  • [ベネデッティ・ミケランジェリ]……《夕刊読売新聞》昭和四十年三月一日・二十七日号

[補足おわり]

それから、もうひとつは、エッセイの並べ順。

上のリストの、タイトルのあとの [ ] で括った書き込みは、『批評草紙』の目次情報。正(1)か続(2)か、それぞれの第何部の何個目のエッセイか、を符号化してみたものです。『批評草紙』でのエッセイの並びは、連載がもとになっていても、発表の順番に沿っていないことがあり、エッセイの並び順を、かなり複雑に「編集」していることがわかります。雑誌の連載や新聞への寄稿を『批評草紙』として単行本にまとめるときに第一次の編集作業があって、さらにこれを『全集』へ収録するときに、『批評草紙』をいったんバラして、第二次の編集作業があった。そして現行の『全集』では、初出のクロノロジーも、単行本としての『批評草紙』も、どういうものであったのか、よくわからなくなっています。

以前、鎌倉のご自宅での『永遠の故郷』の執筆風景をNHKのテレビで観ましたが、手書きの譜例をハサミで切って、ノリを付けて、原稿用紙に丁寧に貼って……。吉田秀和さんにとって、本を作るというのは、素材を切って貼って並べ替えること。ギザギザや断面が残らないように仕上げるので、なかなか気づきませんが、実は「編集の人」なのかもしれませんね。

彼の仕事場は、古き良き教養主義の書斎というよりも、実は、(それこそパウル・クレーのような)コラージュの工房なのかも。

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『批評草紙』の作られ方が見えてきたところで、気になることが2つあります。

【その1】 吉田秀和の「日本論」は本気なのか?

1957年、『音楽芸術』への連載を引き受けた頃、吉田秀和は欧米旅行以来の懸案だった『音楽紀行』と『二十世紀の音楽』を上梓しており、この年の夏には20世紀音楽研究所の軽井沢の現代音楽祭がスタートしています。欧米の動向を視察して、その概要を国内へ伝えるとともに、群雄割拠状態だった作曲の同人会を取りまとめる団体の「所長」に就いたのですから、この時期の彼は、「現代音楽」の「旗振り役」を引き受けたと見て間違いないでしょう。本人がどう言おうと、彼が発信したメッセージと彼が引き受けた役職は、それ以外の何ものでもない、と言うしかありません。

ところが、音楽雑誌でやりはじめた連載のタイトルは、「批評草紙」という「田舎くさい名前」(『全集』12、524頁)がついていて、翌1958年の連載は「日本とその文明について」。1959年分は、単行本未収録ですが、「えちゆーど・え・ぽるとれ」とか、「ぷろむなあど・みゅうじかる」とふざけたようなカタカナ表記のフランス語です。「現代音楽」運動は、最先端の叡知を結集した未踏の領野の探検、最新鋭宇宙探査ロケットの打ち上げみたいなところがあったと思うのですが、取りまとめ役の研究所長は、ぷいと横を向いて、京都や奈良の古都巡りをしたり、酔っぱらってダジャレの連発。頼れる艦長・沖田十三かと思ったら、一升瓶を抱えて猫好きの佐渡酒造だった、みたいな感じでしょうか(笑)。

宇宙戦艦ヤマトと70年代ニッポン

宇宙戦艦ヤマトと70年代ニッポン

ロケットの打ち上げ(現代音楽祭の開催等)の必要性は認めるし、そのための協力はするけれど、自分が船長になって乗り込むつもりはない。ややピンボケ気味に思える連載を続けることで、つかず離れずの「立ち位置」を探っているかのような文章群です。

なかでも、「西洋と日本」というテーマで綴られていることは、今読むと、本当に普通の文明論、戦後無数に書かれた「日本人論」のone of themに見えます。テクスト自体としてどう、というより、1950年代終わりの『音楽芸術』という雑誌のなかに置いたときのマッチングorミスマッチによって、辛うじて機能したのかなあ、と突き放して納得しないと仕方のないようなお話が続きます。

これは何なのか?

「現代音楽」の最先端を追いかけることに夢中になりがちな若者に、カウンターを当てて、頭を冷やすきっかけを与えようとしているのか? 研究所の所長という「役職」に続いて、今度は、若者の啓蒙という「いかにも」な役回りを演じているということなのでしょうか?

こうした一連のエッセイの線上で、まるで、校長先生が模範生を表彰するかのように、1961年の「武満徹と静謐の美学」が出ます。ただし、この年の連載タイトル「Cahier de Critique」は、よっぱらいのダジャレ風から、過剰にキメキメのキザへと針が逆へ振れたかのようで、キマリすぎていて、逆に嘘っぽい感じがなきにしもあらず。

1960年代に「現代音楽」界隈がダイナミックに、もしくは、狂騒的に動いて、少し前の匿名掲示板風に言えば「祭り」のラン・アウェイ状態だったときに、柴田南雄は音楽学=東京藝大楽理科へ待避したわけですが、もうひとりの仕掛け人の吉田秀和も、半身の姿勢で、状況を瀬踏みしていたように見えて仕方がありません。

この時期の『音楽芸術』の文章をどこまで「本気で」読んでいいのかどうか。

1965年に『批評草紙』へ入れる段階でかなり落として、さらに『全集』へ入れる段階でバラバラにして、いくつかの文章を消してしまったのは、あまりにも当時の状況に依存しすぎているものが含まれていたからだろう。それは、ほぼ確実だと思いますが、状況へ依存している塩梅をどう読めばいいのか、よくわからないところが残ります。

(連載にひねったタイトルを付けるのは、「西洋と日本」などの大きな話を大上段に構えて書くことへの「照れ」の裏返しに過ぎず、書いている内容は本気かつ真面目かつ重要である、という受け止め方もあり得るでしょうし、そのほうが素直でまっとうな読み方だとは思いますが……。江戸ッ子のシャレとマジのモード・チェンジがどういう仕組みになっているのか、私には、やはりどうしても、その方面の機微がよくわかりません。どなたか、上手に解説していただけると有り難いのですが……。)

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芥川龍之介全集〈3〉 (ちくま文庫)

芥川龍之介全集〈3〉 (ちくま文庫)

なお、『音楽芸術』1957年12月号の「古き悪しき歌」(批評草紙 11)は、芥川龍之介「きりしとほろ上人伝」の武智鉄二演出による人形劇をきっかけにして、浪花節的なものへの思いを微妙な調子で綴っています。翌年から「日本論」がはじまる予兆と言えるかもしれない文章です。

ところが、このエッセイをきっかけにして、翌年、別宮貞雄が『音楽芸術』に吉田秀和を詰問する調子のエッセイを寄稿して、同誌1959年8月号には吉田の「別宮貞雄氏にこたえる」(ぷろむなあど・みゅうじかる)が出ます。(「古き悪しき歌」だけ『批評草紙』に収録されていますが、全集には、これも「別宮貞雄氏に……」も未収録。)

関西歌劇団で武智鉄二が「夫婦善哉」や「アイーダ」を演出していた時期の仕事なので、わたくしとしては興味津々なのですが、この頃の吉田・別宮の関係はややこしそうです。かつてフランス音楽とロマンチシズムを熱く語り合った友人同士だったのに、生涯非転向の別宮先生は「最近のお前は見ちゃいられない。前衛の旗を振るかと思えば、浪花節に落涙するとは、どういうことか。マジメにやれ」(意訳)と剛速球で問いつめて、吉田秀和は、のらりくらりと、はぐらかすような調子で答えています。

率直に申し上げて、そんな揉め事に武智鉄二を巻き込まないでいただきたい。痴話ゲンカはほかでやって欲しかったと思っております。(資料を見るかぎり「きりしとほろ上人伝」は彼の代表作のひとつと言って良さそうな仕事なのに……。)

吉田秀和が武智を論じた興味深い文章なのに、そもそもの彼の口調がどこかふざけた感じになっていて、そこへ別宮氏が乱入するので、もうグチャグチャ。もつれた糸をどこからほぐせばいいのか、途方に暮れております。^^;;

この時期の吉田秀和のブレは人騒がせです。どなたか、本当にちゃんと整理していただきたいです。

日本の人形劇―1867‐2007

日本の人形劇―1867‐2007

【その2】 『現代の演奏』を書いた意味

1962年と1963年は、吉田秀和の『音楽芸術』への連載がありません。そしてこの2年間のブランクは、ちょうど1954年から56年までを座談会と単発寄稿だけで『音楽紀行』、『二十世紀の音楽』の執筆に集中したのと似た意味合いがあったようで、1963-64年に、『芸術新潮』で「現代の演奏」という全24回の大きな連載をやっています。彼の最初の本格的な演奏論です。

コンサートの批評とディスク評は、読む分にはそれほど違わないかもしれませんが、書く作業は随分と違います(と思います)。コンサート評は所定の会場へ決まった日時に行かなければならない一方、ディスク評は自宅で完結するということもありますが、コンサートは、あれだけの人間が舞台と客席に集まった場で、膨大な情報量を全身に浴びるイベントですから、情報を取捨選択して大胆に圧縮する作業、ディスクは、アナログの溝であれデジタル符号であれ、添付されたジャケットやその他の付随情報を含めたとしても、コンサートに比べたら、評者が手にする情報は圧倒的に少なくて、それをどう膨らませるか(様々なレファレンスで文脈を広げていったり、繰り返し聴きながら脳内妄想を広げたり、オーディオというメカの領分で勝負をしたり)という営みなのだと思います。

それから、そうした情報を作文へ着地させるときに、作曲家論・作品論と、演奏家論・演奏論では切り口、料理の仕方が変わってきます。音楽評論といっても、コンサートかディスクか、作曲・作品論か演奏論か、という二つの軸で、大雑把に四象限のジャンル分けができそうな気がします。

しかも、過去へ遡ると、楽譜や楽書をもとに音楽を論じるという営みがあって、制度上これは音楽美学や音楽学(の前史)へ分類されることが多いですけれど(中世教会のスコラ哲学風の音楽論とか)、シューマンが楽譜(しかもリストによるピアノ編曲!)だけを使ってベルリオーズの幻想交響曲を論じた文章が近代音楽批評の古典になっていたりするので、紙に書かれた記号や文字にもとづく音楽論を無視することはできません。

で、吉田秀和は、ここから一歩ずつ仕事の領域を広げているんですよね。

(吉見敏哉は『大学とは何か』で、ルネサンス期のアカデミア(いわば学会の起源)が、中世の教授組合(コレギウム)と学生組合(ウニヴェルシタス)のギルド的な閉鎖性を打破できたのは、写本の伝承・解読から、活版印刷へと、知のベースが転換したのとリンクしているだろうと言いますが、近代的な批評の起源も、活字出版ベースのフラットで開放的な読書・言論空間にあると思います。

音楽という営みはライヴ・パフォーマンスというほとんど古代の儀礼のように古くさい形態を伝承している一方で、音盤からデジタル情報ネットワークへ、というように新しいメディアへ棲息地域を移動しているわけですが、この融通無碍な営みを「論評」するときには、現状では、文字列を紙(やコンピュータのディスプレイ)に並べる形態へ落とし込むしかないんですよね。音楽の専門家であろうとアマチュアであろうと、音楽を「論評」するときには、文字列を並べる技法=「読み書き」の技術で勝負するしかない。いわば、プロもアマチュアも貴族も平民も、文字列の位相においては平等だ、というのが、近代の言論空間の利点・魅力だったのだろうと思います。

(言論の「自由」は公権力に対して私人の権利を確保する政治ですが、言論の「平等」は、そのほうが文字の流通がスムーズになり、世の中が面白くなるだろうという損得勘定・効率・現世快楽の問題だと思います。ついでに言えば、「博愛」は男性ブルジョワ共同体の仲間意識、いわば保身。フランスのブルジョワ革命は、近代の「理想」を打ち出す政治のような顔をしながら、実はビジネスマンの損得勘定や身内贔屓がこっそり混入している気がします。)

吉田秀和は、まずそうした批評の原点・母胎みたいな場所を押さえて、そこから出発して、そこにひとつずつ新しいものを取り込んでいったと言えそうです。いきなり現場へ乗り込んだり、ズケズケと物を云ったり、生活に七転八倒するのではない書き手。「文士」と呼ぶのがためらわれるお行儀のいい人ですね。)

音楽と音楽家 (岩波文庫 青 502-1)

音楽と音楽家 (岩波文庫 青 502-1)

最初はシューマン(音楽評論の古典!)やモーツァルトの残した文章の翻訳をやって、『主題と変奏』(1953年)は、こうした作曲家の言葉と楽譜を主な素材として展開する作曲家論集です。これは、小林秀雄の文藝評論における作家論の応用みたいなモーツァルト論の路線を踏まえたものでもあるのでしょう。吉田秀和は、書かれたものを素材として、文藝評論に隣接すると言っていいかもしれないところから出発していたわけです。(現在、音楽学を学んでから批評をはじめる人が多いのは(私もそうですが)、音楽学が、かつての音楽評論家における文学修行の肩代わりをしているということかもしれませんね。)

そのあと、1950年代に毎日新聞などでコンサート評を書いていたらしいのですが、これは全集には一切入っていません。

「現代音楽」をやるときも(『二十世紀の音楽』1957年)、それに続いて、LPによる音楽史をやるときも(『私の音楽室』1961年)、基本的には、作曲家論・作品論として書いていたようです。現代の音楽は、もはや素人には楽譜の解読が極めて困難だし、新作はお披露目の音楽会へ行くしかないから、コンサートへ行く機会が増える。逆に、古い音楽は、コンサートで取り上げられないから、オーディオ・セットを買って、ディスクを集めるしかない。そういうプラグマティックな理由付けができる形で、彼は仕事の幅を広げていったようです。

そうして、日本の「現代音楽」が、全面的にコミットするのはちょっと……という感じになってきて、(失礼な言い方かもしれませんが)かなりジタバタしていたときに、新天地へ移住するようにして演奏論(『現代の演奏』は著者がライブで聴いたことのある人の話が多いですが、読者へのサンプルとしてはLPがその都度紹介されており、最終的にはディスクのみによる演奏評を射程に収めていたと思う→そもそも彼が絶賛したグレン・グールドはレコード録音だけでライブをやめちゃってますし……)に挑戦した。そういう流れになるようです。

吉田秀和全集(4)現代の演奏

吉田秀和全集(4)現代の演奏

『現代の演奏』は、初出連載時(1963-64年)の各回のタイトルを見ると、単行本(1967年)&全集収録版とは、話の順序がかなり違っていたようです。初めての領域で、試行錯誤したところがあったのでしょうか。出来上がった単行本&全集版(おそらく、ほぼ同じだと思われます)は読者に優しく、懇切丁寧に「演奏」という営みを基礎から解きほぐす展開になっていますが(一般誌での連載だったせいか、読者が話者を「おまえ」呼ばわりする設定になっていて、この書物の話者は、『音楽芸術』の話者とは違って、腰の低い辛抱強い人物像です)、このスムーズな構成を仕上げるには、数多くの「切り貼り」があったようです。連載終了から単行本刊行まで2年かかっていますし、「編集の人」吉田秀和、という『批評草紙』でちょっと書いたような観点でも、細かく見ていくと興味深いことが出てきそうな本なのだろうと思います。

1964年にスタートした『読売新聞』の「音楽時評」で、各回のタイトルからしてあからさまに啓蒙的な話題を懇切丁寧に語るスタイルは、『現代の演奏』の線上かもしれませんね。

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吉田秀和の1960年代は、柴田南雄のケースとともに、「現代音楽」の爆走から、年長の仕掛け人たちがどういう風に距離を取ったか、そして、戦争中に凍結・先送りされてしまった「青春」を解凍して生き直すような1950年代のスタイルから、年相応の「中年」(柴田の場合は学生に囲まれた「先生」であり、吉田はサラリーマン相手の「文化人」)のスタイルへどうやって移行したか、というところが、私には興味深く思われます。自分自身が子供の頃の記憶として知っている「昭和40年代」は、こういう風にして出来上がってきたのだな、と。「現代音楽」の前衛・実験運動を追いかけているだけでは見えてこない、オッサンたちの厚味みたいな部分ですよね。60年代は、当たり前ですけれど、若者だけが生きていたわけではないのだ、ということでしょうか。

[付記]

ニッポン無責任時代 [DVD]

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実はここまで書いて、不意に、渡辺裕先生は、フラフラして腰が定まらない感じのところと、新聞における啓蒙という役回りにぴったりハマるところが、60年代の吉田秀和と似ている気がしてきました。戦後サラリーマン社会のいわゆる「高度成長」に随伴した音楽評論家が吉田秀和で、バブルの崩壊から団塊の世代の退職という、サラリーマン社会の黄昏を看取って、その都度必要な処置をしているのが渡辺先生なのかもしれない、というような見取り図です。

ということは、わたくしが昔からずっと理解できずに悶々としているのは、東大文化人とサラリーマン社会の相性の良さ、という案件なのかも。

東大系音楽人の歴史、というテーマはあまり評判がよくないみたいなのですが、「東大とサラリーマン」だったら、吉田寛くんは無理でも、たとえば、輪島裕介先生が、上手に読み解いてくださったりすることを期待してはダメでしょうか。実際には官僚になる人たちが多そうなイメージがあるのに、どこをどういう風にして、東大から、サラリーマンな方々の絶大な支持を得そうな言説が生成されるに至っているのか? 齋藤十一がそうであるように、マスコミ側が適宜人材をピックアップしている、というだけのことなのでしょうか?

柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

若い人は知らないかもしれませんが、渡辺先生が『聴衆の誕生』で出てきたときは、山崎正和の音楽版をやっているんだな、と思ったものです。

(ひとまず、おわり)