戦後日本は二次元プロット(図表)の時代だったのか?

ほぼ直前のエントリーの続きです。

柴田南雄における「科学的方法」や吉田秀和における「書物の編集」が、どうして高度成長期のサラリーマン社会と相性が良かったのだろう、と考えたときに、直観的に思い浮かんだのが、会社員な皆さまの図表好きなのです。

岡田暁生は昔から「箇条書きの人」でありまして、それはおそらく、大先生が演壇上で弁舌を振るう際に、ポイントを聴衆の脳裡に叩き込む効果的なレトリックなのだと思います。結婚式の定番スピーチ、「三つの袋を大切にしてください、一つ目は、おふくろ、二つ目は[以下略]」というやつですね(笑)。(奇書と言って良いかもしれない『音楽の聴き方』は、数が多すぎて破綻寸前の箇条書きで終わりますし……。)

そして、そういう風に物事を「簡潔に要約」したい目上の偉い人たちを説得するための対抗策、経営戦略会議の効果的なプレゼン技法として編み出されたのが、データを二次元にプロットした図表なのだと思います。

以下、柴田南雄の「科学」、吉田秀和の「編集」に、こうした図表と通底する何かがありはしないか、というお話、戦後日本でどのように振る舞えば「賢い東大生」に見えたのか、というヨタ話でございます。

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二次元プロットの表現形式は、縦横にマス目を切った「表」であったり、直交するX軸・Y軸の二次元座標に点や線を描いたり、円グラフや棒グラフであったり、地図上に何らかの記号を書き込んだり、と様々ですが、

煎じ詰めると、これらはすべて、項目Aと項目Bが一対一で対応している二項データの集合を平面に一覧表示するテクニックですよね。

2つの項目の両方が数値である場合は、二次元座標上にプロットできるし、数値を含まない場合は、会員名簿のように一覧表にするしかないですが、データの「型」の違いを無視すれば、すべて、二項の組み合わせだと一括して眺めることができそうです。

この種のデータ形式がもてはやされたのは、シリアルな「列」では不可能なことを色々と表現できたからだろうと思います。

上司の長い長い演説(一度はじまってしまうと途中で早送りやスキップができずに、終端までひたすら我慢するしかない言葉の「列」)では言い表せないことが、過去10年間の自社の売り上げの推移とその内訳のグラフみたいな紙切れ一枚で、パシっと言える、みたいな感じ。

柴田南雄によるバルトークの音の「配分法」の分析は、楽譜の横に五度圏の円形の図を添えて、そこに楽譜上の音をプロットする試みです。前から後ろへとメロディーや総譜をシリアルに読み進めるのではなく、「五度圏」という時間的な前後関係を捨象したシステム上に、音を再配置してみせたわけですね。

彼の楽曲分析は最後までこの手法の延長上にあって、日本のわらべうたなどから抽出した「音楽の骸骨」は、メロディーラインを「長2度上昇」、「完全4度下降」といったベクトル値に分解して、メロディーにおける音の動き方の法則をまとめた抽象的な構造モデルですが、作業としては、A音からC音への移動は何回、D音からA音への移動は何回という風に数えて、一覧表を作るところからはじまっています。

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十二音技法からセリエリズムへの歩みも、もともとシェーンベルクが考案した「12の音の列」というのは、いちおう番号が振られたシリアルなデータとして表現されてはいますが、実際の作曲では、各種の技法で加工されて、作品のなかで、裸の音列がメロディーとして聞こえる場面は、あまりありません。ブーレーズの論文を読むと、彼のセリエリズムは、音列(ならびにその他の各種パラメータのセリー)から多彩な音の組み合わせを生成するために秘術の限りを尽くしていて、音列は、ほとんど「乱数の種」のようなものでしかなくなっていたように見えます。ブーレーズにとって、精緻で滑らかな音のエクリチュールを実現する夢が「主」であって、セリーという種を用いた絢爛たる技法はあくまで「従」なのでしょう。

音楽をシリアルに把握する態度を乗り越え、多元的な音の運用を目指すヨーロッパの賢い人たちの運動があって、この発想は、狭義のセリエリズムだけでなく、多方面へ分岐・拡散していくわけですが(松下眞一が1950年代末に比喩の当否はともかく「トポロジカル」と形容したのはこの潮流のことだと思われます)、柴田南雄がそこからチョイスしたのは、音を二次元にプロットする、という、数え上げの根気と紙と鉛筆があれば可能な手法であった、ということになりそうです。

電子音楽についても、設計図の作り方や音の生成・制御システムがコンピュータなしでは不可能な形へ進化したりもしていますが、柴田南雄がNHKでやっていた頃のやり方は、生音や電子音をテープにひとつずつ録音して、そのテープ(まさしくシリアルな「帯」ですね)を切り貼りするというものだったようですし……、

柴田南雄は、前衛・実験音楽の爆発的に進化・拡散していく諸潮流のなかで、「シリアルなデータを切り貼りして、二次元に再配置する」という作業で制御可能な領域を出ることはほとんどなかったように思われます。

(彼が、作曲家を研究したり、音楽の歴史を語る場合のやり方も、年号と事実を紐付けた二項データを大量に集めて、図表を完成させる作業なのではないでしょうか。彼の音楽史書を今読むと、データが精緻なのに比べて、そこに付けられたコメントが、がっかりするくらい凡庸であったり、ドメスティックであったりして、その落差に驚かされます。柴田南雄における「理系的思考」は、ほぼ、シリアルデータの二次元図表化に尽きており、その先を期待してはいけない人なのではないでしょうか。)

そして技法面でのポイントが「シリアルの二次元化」というところに限定されていたから、柴田南雄の言動は、「難解」とされる戦後日本の前衛・実験音楽運動のなかでは例外的に、一般の音楽ファンに意味がわかったし、音楽大学の一般の学生たちにも付いていくことができたのではないでしょうか?

(数え上げと図表化の領域を越えたデータ処理、たとえば、「梵鐘のFFT解析」なんていうことをやってしまうと、途端に、一般社会との回路が切れて、「たぶんすごいのだろうけれども、わけのわからないこと」と処理され、そこは一般人が立ち入らない領域になってしまうんですね。

他方で、これは大前提ですが、柴田南雄がシリアルなメロディーを「音」やそのベクトル的な運動という要素へプチプチと区切ってとらえるのは、諸井三郎からベートーヴェンの「ドイツ的発想」とされるものを叩き込まれただけでなく、彼がもともと、メロディーを発想して自由自在に動かす能力が弱い人だったのではないか、と思われます。)

柴田南雄の音楽論は、「(株)戦後日本音楽社」の収支決算報告書のようなものとして読まれたのではないかという気がします。

高橋悠治 対談選 (ちくま学芸文庫)

高橋悠治 対談選 (ちくま学芸文庫)

高橋悠治との対談で、柴田南雄は寡作なことに関連して、「そんなに次から次へとメロディーを思いつけない」という意味の発言をしています。彼は、今、池辺晋一郎さんが『音楽の友』でとても面白い連載をしているドヴォルザークとは対極のタイプだったのでしょう。

(このあとに、吉田秀和の話がつづく予定。)

[8/25 「つづき」にかえて]

上の文章に続けて書こうと予定していたのは、

  • その1:吉田秀和の文章で話題がふわふわと飛び移るのは、彼の「編集癖」と関係があるのではないか。もともと、一筆書きにぐいっと一気に書き下ろすタイプではなく、彼の本は、そういう特質が活きるように「編集」されている、と解釈することはできないか?
  • その2:もしそうだとして、それは何なのか? (a) 創意と企みに満ちた「文藝」なのか? (b) 逆に、ストレートに書くことができない「何か」を隠そうとするレトリックなのか? (当初私は、戦時中の体験などを想像して、この人には何か隠し事があるのでは、と疑っていたのですが、そんな大それた「秘密」を抱えているわけではなく、むしろ、コモン・センスの人なので、「僕の周りに起きたことや心に浮かんだことをそのまま書いても、それだけでは人が読む文章にはならない」と考えているのかもしれませんね。)
  • その3:加えて、音楽評論の場合、コンサートにせよディスクにせよ、聴いたことそのまま書く、というスタイルを採用すると、様々な「データ・情報」が文中に登場することになる。何年何月何日にどこでだれを聴いた、とか、今書いているディスクは、どのレーベルの型番hogehogeで、演奏者は……、曲目は……、録音年月日は……、このプレイヤーのディスコグラフィーは……等々。「学者肌」が売りの柴田南雄ならともかく、こういう、いわば「乾いた」言葉を書きたくない。いかにして、「データ・情報」をやりすごしながら音楽を書くか、ということを彼は工夫していて、話を途中でぼかしたり、はぐらかしたりすることは、そのような「データ・情報」から遠ざかる試みだったのでは? そういう文章を紡ぐことに楽しみを見いだしてもいたのだろうし、朝食のあとの一杯のコーヒーとともにお気に入りのLPに耳を傾けるオーディオ・リスナーの需要もあったのでしょうし(新潮の「恐ろしい」編集者、斉藤十一の自宅でのプライヴェートはそういう風だったらしいですね)。

というようなお話です。

そして、「一筆書きで書けない人」吉田秀和、というところを、シリアルな思考への齟齬、という風に言い換えて、「データ・情報」を書きたがらない人、というところで柴田南雄と対比したら……、

「吉田秀和は、文筆家として「戦後的」な感性をもちつつ(「ぐいっと一筆書き」をしない/できないのは、これも時代とシンクロする一種の才能なのだろうという前提で)、「情報化」の波には乗らなかった人であり、「編集癖」という一見奇妙な特性が、彼のような位置取りにおいては、極めて切実で重要だったのではないか。」

などという結論へたどりつけるかもしれない、と思い描いておりました。

図表好きの「データ・情報」時代を背景にして、括弧付きの「理系」の柴田南雄と、括弧付きの「文系」の吉田秀和を対称の位置に配することができるのではないか、と思ったわけです。

でも、こういうストーリーを大真面目に書いたら、それこそ平凡な「評論」(図式と結論ありきの力業で、しかも、弱小音楽評論家が吉田秀和に仮託して自分語りをしていると思われてしまいそうな恥ずかしい結末(それは嫌だ))になってしまいそうなので、あらすじだけ書いて、中止します(笑)。

ああいう書き方で「データ・情報」から遠ざかることは、「データ・情報」を補完することにしかならないのではないか、という疑問がありますし。 

(でも、必要とされていたんでしょうね。鬼畜な話題に突っ込む週刊新潮の表紙が谷内六郎だったような感じに。)

吉田秀和が『芸術新潮』に連載した「現代の演奏」を、話者が読者から「お前」と呼ばれる設定にしたの何故か、という話を、彼がしばしば一人称に「僕」を採用することを踏まえて考えるほうが、作文としては面白くなりそうな気がします。といっても、彼の文章はあまりにもたくさんありますし、それを全部読んでから吉田秀和について書く、というようなことは、たぶん、一生やらないし、そんな需要はないでしょうし……。

ということで、スゴスゴと尻すぼみに退場。

(おわり)

[つけたし]

肝心なことを書き忘れていました。

阪大の音楽学研究室には、書式と図表の先生がいらっしゃったのです。ベラウ古典音楽の分類taxonomyをハワイで修士論文に仕上げて、私が研究室に入ったころには、ジャストシステム「花子」のベン図機能を駆使して、コンピュータ(なぜか阪大音楽学はMacintoshではなく全部NECだった、ちなみに阪大音楽学研究室にMacを布教したのは1992年に赴任した渡辺裕)のディスプレイ上に日本音楽学会の組織図や、「柴田南雄の音の宇宙」を美しく描画する作業に取り組んでいらっしゃいました。そういえば先生(1939年生まれ)は、1970年の大阪万博のとき、会場で色々お手伝いをしていらっしゃったはず。

伊東信宏さんは昔から図表の使い方が上手でしたし、バルトーク「2台のヴァイオリンのための44の二重奏曲」成立史研究も、図表なしには不可能なテーマですね。教師になつかないことで知られていた白石知雄も、20年後に大栗裕のフィールドワークの概要を論文にまとめるときには、Excelの表を2つも入れてしまいました(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110325/p1)。

民族音楽学は「データ・情報」の収集が基本で、研究成果のプレゼンにおいては、手際よく図表を作ることが求められる。

あれは、極めて「戦後日本」と相性の良い学問だった、ということになるのでしょうか。

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正確なデータ・情報を把握して、それを適切に処理・提示することが「学問・科学」であり、「評論」(吉田秀和のような)との差異である、という考え方があり得ないわけではないと思いますが、しかし、そうなると今度は、はたして音楽をめぐる日本の「学問・科学」は、データ・情報の把握・処理に関して、柴田南雄の域に達しているか(いたか)、その可能性と限界を真正面から受け止めたうえで営まれているか、ということが問われてしまうかもしれません。

「柴田南雄は、玄人ハダシの音楽学者であった」ということにすると、ひとまず、音楽学の立場は安泰であることになりますが、そういう「解釈改憲」のような概念操作で片づけてしまっていいのかどうか。

日本の音楽学は、吉田秀和的な「文藝」と、柴田南雄のような最良の意味でのディレッタント学者の間に挟まれた位置にあるのかもしれませんね。

参考:東大学者の、二次元プロット ならぬ「三点測量」について http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120218